長崎原爆投下70周年 : 教会と国家にとって歓迎されざる真実
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(抜粋)
70年前、(19458月9日) 全員キリスト教徒の爆撃機乗組員が、“ファットマン”、プルトニウム原爆を、日本の長崎に投下し、何万人もの無辜の一般市民を瞬時に殲滅させたが、彼等の中でも不釣り合いなほど多数が日本人キリスト教徒だった。
この爆発は、更に、キリスト教徒以外の無数の犠牲者達に、爆発や、とてつもない熱や、放射能によって致命傷を負わせた。
1945年、アメリカは、世界でも最もキリスト教徒の国
(つまり、目には目をという報復の支持者で、他国を軍事的、経済的に搾取するアメリカを教会が支持し、山上の垂訓として教えられているイエスの倫理を、心から、教えたり、忠実に守ったりしそこねている国を、キリスト教と呼べるとすればだが)
だった。
皮肉なことに、午前11:02に、浦上天主堂上空で原爆が爆発するまで、長崎は、日本最大のキリスト教都市だった。
浦上天主堂は、東アジア最大のキリスト教大聖堂だった。
洗礼と堅信礼を受けた、このキリスト教徒航空兵達は、致命的な突然のトラブルがいくつもあったにもかかわらず、戦時の命令に一字一句従い、業務を能率的に行い、軍人としての誇りをもって、任務を完遂した。
1945年の大半のアメリカ人なら、もしボックスカー乗組員の立場になっていたら、まさに同じことをしていただろう。
そして、もし、我々が、地上で、原爆が引き起こした人々の苦難を実際に目にせず、聞かず、臭いを嗅がなければ、
そして後に、英雄として処遇されるのであれば、
遡及的に、一般に、戦争犯罪と見なされるようになったものに参加したことに、
精神的苦痛もほとんどなかったろう。
実際、戦争の歴史において、あの極悪非道の大量破壊兵器使用は、後にニュールンベルク裁判で、国際的な戦争犯罪、人類に対する犯罪として定義された。
もちろん、任務当時、乗組員がそれを知る方法など皆無だった。
原爆が実際に爆発した後で、自分達が関与したことに若干の疑念を感じたことを認めている乗組員もいる。
しかし、彼等の誰一人として、犠牲者達の恐るべき苦難を、実際、間近で直接見てはいない。
“命令は命令”で、戦時には、不服従というものは、厳しく罪を問われ、即決処刑される可能性があり、乗組員は命令に従ったのだ。
長崎を標的にする決定
1945年8月1日が、日本爆撃ミッション派遣の一番早い日時であり、ワシントンD.C.の標的委員会は、通常のUSAAF(アメリカ陸軍航空軍)焼夷弾攻撃作戦(1945年前半、基本的に無防備の60以上の日本都市を焦土と化す為に、ナパーム弾を用いていた)から除外されるべき、比較的無傷の日本都市リストを、既に作り上げていた。
焼夷弾攻撃から守られる都市のリストには、広島、新潟、小倉、京都と長崎が含まれていた。
この比較的無傷な5都市には、焼夷弾爆撃攻撃は許されなかった。
これらの都市は、マンハッタン計画が始まって以来、アメリカ中の研究所や、製造工場で、研究され、開発されている“新機軸”兵器の潜在的標的として、保護されるべきものだった。
皮肉にも、8月6日と9日以前には、これら5都市の住民達は、他の都市の様に爆撃されない自分たちは幸いだと思い込んでいた。
広島と長崎の住民達は、
自分達が、
何万人のも生ける人間モルモットが暮らす都市全体の大量破壊を引き起こす新兵器実験による更に酷い大量殺りくを一時的に免れているのにすぎないことを全く知るよしもなかった。
長崎は日本の軍事参議院が、再度降伏条件について議論をしている最中、灰にされた。
無線封鎖をして飛行しているボックスカーは、既に、日本南部の諸島に接近し、第一目標の小倉に向かっていた。
乗組員達は任務を遅らせてしまう可能性のある予想された台風と雲を切り抜けることを願っていた。
ボックスカー乗組員は、必ず目視照準をした上で、原爆を投下するよう指示されていた。
しかし小倉は雲に覆われていた。
そこで、都市上空の雲の上で、原爆投下の為の飛行を三度試み、エンジン四基中一基のトラブルを経験した後、貴重な燃料も消費した為、爆撃機は二次目標の長崎に向かった。
長崎キリスト教の歴史
長崎は、日本のキリスト教史上で有名だ。
長崎は、日本で最大のキリスト教徒の集中地だった。
浦上天主堂は当時の巨大教会で、12,000人の洗礼を受けた信者を擁していた。
長崎は伝説的なイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが、1549年に伝道教会を建てた場所だ。
長崎のカトリック教共同体は拡大し、ついには続く数世代、繁栄した。
ところが結局、日本にとって、ポルトガルとスペインの商業権益が、日本を搾取していることが明らかになった。
やがてわずか数世代で、全てのヨーロッパ人と、彼等の外国宗教は国外追放された。
1600年から1850年まで、日本では、キリスト教徒であることは、死罪に値した。
1600年代初期、信仰取り消しを拒否した日本人キリスト教徒は、磔刑を含め、言語に絶する拷問を受けた。
大量磔刑を行った後、恐怖政治支配は終わり、あらゆる観察者にとって、日本におけるキリスト教は絶滅したかに見えた。
ところが、250年後に、マシュー・ペリー准将の砲艦外交が、沿岸の島を、アメリカ貿易の為に開放させた後、長崎には、政府には全く知られず、地下潜伏した形で、洗礼を施された何千人ものキリスト教徒達が暮らしていることが発見された。
この屈辱的な発見の後、日本政府は新たな粛清を開始した。
ところが国際的圧力の為、迫害は止められ、長崎のキリスト教は地上に出現した。
1917年には、政府から何の援助も受けずに、復興したキリスト教共同体が、長崎の浦上川地区に、壮大なセントメアリー大聖堂を建立した。
キリストの名において、キリスト教徒を殺害するキリスト教徒
9300メートル上空から確認可能な、長崎に二つしかない陸標の一つ(もう一つは、連合諸国の海上封鎖の為、原材料も不足していた、三菱の兵器工場複合体)である巨大な天主堂が、ファット・マン原爆の爆心地となったのは皮肉の極みだ。
午前11:02、木曜朝ミサのさなか、何百人もの長崎キリスト教徒はゆだり、蒸発し、炭化し、あるいは天主堂上空500メートルで爆発した、焼けつく放射能の火の玉へと消えた。
間もなくきのこ雲から降った黒い雨が、多数の長崎の神道信者、仏教徒やキリスト教徒の入り交じった亡骸を包んだ。
長崎の黒い雨の神学的含意は、あらゆる宗派の神学者達の心をひるませるに違いない。
長崎キリスト教信者の死者数
大半の長崎のキリスト教徒は、爆破から生き残れなかった。
ゆるしの告解に出席していた全員を含め、6,000人が即死した。
12,000人の教会員のうち、8,500人が原爆の結果として亡くなった。
他の多くの人々も極めて致死的な全く新しい病気になった。
放射能疾患だ。
近隣にあった三つの女子修道院と、キリスト教女学校が、黒煙となって消滅するか、炭の塊と化した。
何万人もの無辜のキリスト教信者ではない人々も即死し、更に多くの人々が、致命傷を負ったり、治療もできないほど負傷したりした。
犠牲者の子孫の中には致命的なプルトニウムや、原爆が生み出した他の放射性同位元素によって引き起こされる、継代悪性腫瘍や、免疫不全を患っている。
ここで、本記事の重要点の一つをあげよう。
日本の帝国主義政権が、200年間にわたる迫害でできなかったことを(日本キリスト教の破壊)、アメリカのキリスト教徒は、数秒でなし遂げたのだ。
第二次世界大戦以来の数十年間で、キリスト教が、ゆっくりと復興した今でも、日本人教会信者数は、総人口のわずか1%というものでしかなく、キリスト教礼拝への平均出席者は、わずか30人と報じられている。
戦争末期における長崎の絶滅が、一時は活気に満ちていた教会を、損なってしまったことは確実だ。
第509混成部隊のカトリック従軍司祭、ジョージ・ザベルカ
ジョージ・ザベルカ神父は、第509混成部隊(首尾よく原子爆弾を標的に送り込むことが唯一の任務である、アメリカ合州国空軍の1500人の兵士集団)のカトリック従軍司祭だった。
ザベルカは、現代の教会が戦争について教えてくれることと、初期の平和主義的な教会が殺人という暴力について教えていたこととの間の矛盾を最終的に認めるに至った数少ないキリスト教指導者の一人だった。
ザベルカが従軍牧師を解雇されてから数十年後、彼は結局、組織的大量虐殺、つまり現代の戦争を、宗教的に正当化することで、自分も教会も深刻な倫理的、神学的過ちを犯したという結論をだした。
彼は結局、(自ら述べているとおり)、私の敵、私の国の敵は、新約聖書の価値体系によれば、神の敵ではなく、むしろ神に愛されている神の子であり、それゆえ、愛の神の信者として、私により愛されるべきである(殺されるべきではなく)ことを理解するようになった。
ザベルカ神父が、標準化された、暴力に寛容なキリスト教から突然転向したことで、ミシガン州デトロイトの聖職者会議も180度転換した。
マーチン・ルーサー・キング同様に、福音非暴力という真実に誠心誠意力を注ぐことを固く決めた彼は、余生を、軍国主義や、人種差別や、経済的搾取等の暴力を含む、あらゆる形の暴力への反対を、はっきり発言することに捧げることにした。
ザベルカは、原爆投下50周年には、長崎を訪問し、犯罪で、自らがはたした役割を、涙ながらに懺悔し、許しを請うた。
同様に、第509混成部隊のルター派従軍牧師、ウィリアム・ダウニー牧師(元ミネソタ州、ミネアポリス福音ルーテル派教会)は、国家の為の殺人に参加して、心理的障害を負った兵士をカウンセリングしながら、後に、一発の銃弾によるものであれ、大量破壊兵器によるものであれ、あらゆる殺戮を非難するようになった。
ボックスカー乗組員と指揮命令系統
ボックスカー爆撃機乗組員達は、あらゆる戦争同様、徴兵されたか、自ら入隊した兵士として、長く、複雑で、全く匿名の指揮命令系統の最下位にあり、上司達は指揮命令系統の部下達に絶対服従を要求する。
ボックスカー乗組員達は、汚れ仕事をすることに、誰一人として道徳的な責任を感じない他の組織によって、概念化され、設計され、資金提供され、製造され、装備された致死兵器の“引き金を引く”よう命じられていた。
あらゆる戦争に当てはまるが、引き金を引く兵士達が、通常、殺人行為を責められる対象になるので、それゆえ彼等は戦後、罪悪感を抱くことが多く、それが戦闘で引き起こされるPTSDの大半を占めている。
一方、兵士達の道徳に責任を負う、それぞれの宗教の従軍牧師達も、罪悪感を共有していよう。
両方の集団は指揮命令系統の最下位にあるが、いずれの集団も、自分達が殺そうとしている“敵”が一体誰か、あるいは何故なのかを知らずにいる。
国家の為に殺人をしながら、同時に、しかも非論理的に、非暴力主義者イエスの教えに忠誠を誓うことを明言する倫理について必要な論議を、この文章が促進する様に願いたい。
あらゆる国家安全保障機関、
軍産複合体、
戦争で金儲けをする大企業による、
民族主義的、
人種差別的、
軍国主義的な狙いや、
過去1700年間にわたって、洗礼されたキリスト教徒が、
キリストの名において、
他のキリスト教徒(キリスト教信者でない人々は言うまでもなく)を進んで殺害するのを可能にしてきた、
キリスト教以前の、目には目をという報復教義を、イエスの教えを知っていた初期教会指導者達は、拒否していた。
長崎の隠された歴史は苦闘するアメリカ・キリスト教にとって教訓的であるに違いない。
以前『ナガサキ消えたもう一つの「原爆ドーム」』平凡社版を読んで、目からウロコ体験をした。
長崎の遺跡と、広島の遺跡のあまりの違いを、現地で見て驚いた。
アメリカ都市からの碑があるのを不思議に思った。
そうした疑問が本書で解けたのだ。
自分たちが破壊したキリスト教教会の悲惨な遺構を、残させな いよう強烈に働きかけた宗主国キリスト者達の懐柔工作。
北村西望の平和祈念像の手前にある各国から贈られた像の中に、なぜアメリカのセントポール市からの像があるのか、意味がようやくわかった。
戦争法案、TPP推進の中、 第47回思い出のメロディー、大政翼賛会「らしく」ないエピソードがもりこまれていた。
摩文仁の丘で、沖縄の米軍攻撃で家族を失った方を前に、夏川りみが「さとうきび畑」を歌った。
新たな「岸壁の母」時代にまっしぐら。
そういうことをして下さった国の侵略戦争に、これからついてゆく。
余りに悲しい属国。
イスラエルから女性歌手を招いての「ナオミの夢」。
唐突に思えた。
日本が対米戦争を始めるのを、アメリカ指導部はじっと待っていたに違いない。
100%勝利するのがわかっていた以上、戦勝後の植民地政策の大筋を十分研究していただろう。
思いがけない、中国やソ連の興隆で、過酷な植民地化方針を一時ゆるめ、資本主義の飾り窓にしたてて下さったのだろう。
ソ連崩壊後、日本は食べごろの肥えた豚に戻った。
以来、本来の植民地政策は激化し、いよいよその大団円を迎えている今。
TPPも戦争法案も、日本の国家としての主権放棄が核心にある。
学会員で、農業をしておられる方が、戦争法案反対署名を集めておられる様子が民放で放送された。
あまりのまともな発言に驚いた。
そういう方もおられるのだ。
信濃町では、学会ではないように見える母親の方々が、プラカードを持って覚醒を呼びかけた記事を見た。
母親の方々よりずっと多い警察官の皆様が警備している画像があった。