こんばんは![]()
本当に久しぶりのブログです。今日は、「しあわせ運べるように」の歌詞だけアップしましたけれど・・・。
ここしばらく、ばたばたと過ごしており、通信環境も悪く、そして、生活にも変化が起こることになり、追われるように過ごしておりました。また詳しく報告させてもらいます![]()
震災について書く前に、
今更なんですが、
zuccheroさん、フリーダさん、クリスマスカードのプレゼント、ありがとうございました![]()
とても嬉しく頂きました![]()
お礼が遅くなってしまい、申し訳ありません![]()
では、震災のこと、少しお話しても良いですか?
ロサンゼルスで大地震があったのは1994年の1月17日。そして、阪神・淡路大震災があったのはくしくもちょうど1年後の同じ日です。
私の出身地は、神戸の隣の市。被災地の一つです。
とはいえ、実は私は被災していません。
実際に地震を体験したのは、ロスの地震。アメリカに半年間出張していた時に、地震に遭いました。
揺れの恐ろしさはもちろんですが、高速道路がなぎ倒され、ビルが全壊し、多くの人が犠牲になった街の風景は今でも目に焼き付いています。
阪神・淡路大震災の当日は、実家から車で約3時間の某都市に赴任しておりました。
前夜、仕事が長引いて、まさに寝入りばな。
私の住んでいた街も、少し揺れました。少しですけどネ。
地震の全容を確認しようと慌ててテレビを付けました(私はいつもそうしてます)。
でも、テレビ局もまだ分からないようで、大阪の映像に切り替わったりしました。
その時、電話がけたたましく鳴りました。
父からです。
「お父さんもお母さんも無事だから心配するな。家もまったく大丈夫だ。○○君の住所を教えてくれ」
と。
○○君とは、今の主人です。当時、まだ結婚はしていなかったのですが、ほとんど婚約者のような存在でした。
私は関西から離れた都市に居住。主人は神戸支社に赴任していたので、被災地のど真ん中に居住。という状況でした。ややこしい説明ですみません。
当時の主人の家(社宅)は全壊。ベッドと倒れてきた本棚の隙間に体が落ちて、奇跡的に怪我はありませんでした。
すぐに私の両親が主人の社宅に駆けつけて救い出してくれたそうです。
そのまま当時は公の人だった父は、瓦礫の中から職場へと母が運転する車と徒歩で出勤。主人も全壊の社宅から出勤。父も主人も、こんな時にも(いえ、こんな時だからこそ)、出勤しなくてはならない職種です。
一方、私は・・・
父からの電話でただごとでない状態を知り、主人を助け出してくれたことも知り、母から「もう電話がつながりにくくなっているから。とにかく我が家は平気だし、緊急を要する人たちが他にいっぱいいるだろうから、回線を混雑させちゃダメ。電話かけてこないでね」と言われたのですが、まだピンとこなかったですネ。
しばらくすると、阪神高速がなぎ倒され、あちこちから火の手(煙)が上がる街の様子がテレビに映し出されました。どこもかしこも馴染みの街。テレビに映る実家のそばの風景も瓦礫だらけ。頭の中が真っ白になり、へたり込みました。ロスの地震を思い出しました。ああ、ちょうど1年前だった、と。
会社に出勤すると、人事部から連絡があり、「すぐに神戸支社へ応援出張するように」とのこと。
神戸支社がめちゃくちゃで、人手が足りないということもあったのですが、応援出張が命じられた社員は全員京阪神出身者でしたので、会社の温情もあったようです。「神戸出社前に自宅に帰ること」という指示も受けたので。
たくさんの水やウェットティッシュ、カイロ、食料を車のトランクに詰めるだけ詰めて、いつもなら車で約3時間の道のりを10数時間。もちろん通行止めもあり、電車も動いておらず、被災地から少し離れた友人の家に車を止めさせてもらい、ひたすら歩きました。背中と両手に救援物資をいっぱい持って、何時間も何時間も。ものすごい風景の中、時間の感覚もなく、疲労さえ感じず。朝なのか夜なのかも分かりません。今でも、細かいことは思い出せません。
大泣きしている子どもがいて、その子を近くの小学校へ連れて行ったら、お母さんがその子を必死に探していて無事に再会。そんなことを断片的に思い出します。
実家は無事でした。
周囲に全壊家屋がたくさんありましたが、建っているわずかな場所で被害も違ったようです。
門をくぐって、玄関を開けると、大きな絵がズドンと落ち、額縁が割れていました。廊下をつたってリビングへと向かうと、家具という家具はすべて倒れ、グチャグチャな状態。母の趣味で、ロイヤルコペンハーゲンやウェッジウッドなどの食器をたくさん飾ったディスプレー棚なんて、粉々でした。グランドピアノの脚が折れて傾き、暴走して暖炉に突っ込んでいました。
そんな中、母が必死にカケラを拾い集めてボンドで修復した食器は1つだけ。
高級食器ではありません。「ファミリア」のヒヨコ柄のお皿です。神戸出身の女子にはおなじみかもしれませんネ。ファミリアのお皿。私が子どものころに使っていた食器なのでした。無事に形が戻った時の母の笑顔を見て、涙が出ました。
すべての部屋の中は大破壊で、母と2人で必死に片付けていきました。
うちの親戚はほとんど阪神間に住んでおり、家が全壊した人も多くいました。
実家は中はグチャグチャですが、家そのものに被害はなく、部屋数だけは多かったので、一時は親戚や親戚の友人、近所の人まで含めて20人以上が実家で暮らしました。しばらくの間、主人も実家から出勤。
実家があんなににぎやかだったのは、あの時だけです。
名前も知らない人もいましたが、みんなで力を合わせて助け合って、励まし合って数ヶ月を過ごしました。
ガスも水も出なかったけれど・・・。「生きる」ためには、たくさんのモノはいりませんでした。私や父の職場から届く救援物資やカセットコンロなどで大丈夫。お風呂に入れなくても生きられます。
あれから15年。
今では、あの実家で暮らしたすべての人がそれぞれに家を再建して暮らしています。
今もまだ更地はありますが、街は見違えるほど復興しています。
実家もしっかりとあるし、両親も健在で、ファミリアのお皿も無事です。
主人と私は仲良く暮らしているし、主人と私の両親との関係が極めて良好なのももしかしたら震災のお陰かもしれません。
実家近所の人たちとの交流は深まったし、困り事に「お互いさま」と自然に助け合う精神は確実にはぐくまれていると思います。
たくさんのモノを失い、モノよりも大切なことを教えられました。
でもね、親戚や友人など大切な人たちが命を落としました。すべての犠牲者のご冥福をいつもいつもお祈りしています。
あの日を語ることは容易ではありません。
あの日だけでなく、あの日以降を語ることも難しいです。
不幸の中に希望を見つけて前に進んだ人々の勇気。助け合った精神。強く結んだ家族の絆・・・。いろんなことが語り継がれていますけど、時としてそれはきれい事の1部分だけを取り上げているのかもしれない、なんて思ってしまう自分がいます。それでも、たくさんのモノが壊れた、たくさんの人の人生が壊れた、たくさんの人の夢と希望が破れた、それでも人は頑張った。悲しみの中から立ち上がった。
本当にそうだと思います。
でも、(フリーダさんも書かれていますが)
民主党の事業仕分け
【公立小中学校など約5000棟の耐震化工事について、文科省の関連予算が約63パーセント削減された。】
震災は、もうすっかり過去の出来事になり、当事者以外は忘れつつある、ということでしょうか。
大切な命を守る前に現金をばらまいて票を買い、国益を守る前に外国人参政権を語る。
これぞ民主党クオリティ。正義のフリして、上から目線の事業仕分け。私には納得のできないことが多すぎます。
この国はどこを向いて進んでいるのでしょうか。
今日は、心静かに祈る日。政治の話をするつもりはなかったのですが、どうしても気になったので・・・。


