わたし、先日の友人とのやりとりで
「嫌な思いをさせた!」
「傷つけた!」
「嫌われた!」
って思ったことがあったんです。
それ、ものすごいモヤモヤして。
じーっと自分を感じていくことにしました。
逃げないで。
いつもは、ここで逃げていたことにも気づきました。
逃げるって、感じないってことね。自分が感じていることを感じないこと、無視すること。
これまでわたしはこういうことがあった時、「嫌な思いさせた」「傷つけた」って思って、思い込んで、それでおしまいにしてたんです。
自分のせいにして、自分を責めておしまい。
感じることをしないで
自分が感じていることを受けとめることをしてなかった。
モヤモヤを感じる、見逃さないって、こういうことなんだと思う。
感じていることを「ない」ことにしないこと。
自分を無視しないこと。
モヤモヤを感じていったら
「嫌われた」とか
「○○された」って、思っているうちは
自分主体じゃないことに気がつきました。
自分を感じることをしてないの。
自分が抜けて、ポーンって相手を操縦席に乗せちゃってる感じ。
先日書いた、「バカにされた」というのと一緒。
バカにされたと感じる自分が「ある」ということ。
その時自分は何を感じているの?
本当はどうしたいの?
そこを見る時。
○○されたって
それは本当はどうでもよくて、、、どうでもいいっていうか、
○○されても、されなくても、どちらでもよくて、
それより
どんな時も
【自分はどうしたいか】
そこが大切。
そこが、それだけが、自分が大切にしたいものだから。
何にも関係ないとしたらどうしたい?ってことですね。
だから、相手は関係ない。
環境も関係ない、事情も関係ない。本当は。
関係あるのは、自分だけ。
自分は何を感じているのか、どうしたいのか、それだけ。
わたしの「嫌われる」を感じていったら
中3の時に男子にいじめられた記憶が蘇ってきて
その時、まさに「嫌な思いさせた」「わたしが悪い」って思うことで
感じることを抑えていたことに気がついたんです。
そうやって自分を守っていたんだなあと思いました。
言い過ぎ、おおげさじゃなくて、感じたら死んじゃうかもしれなかったから。
感じないことで、死ぬことから必死に自分を守っていたんだと思う。
それがわかって、今
辛かったこと、悲しかったこと、怖かったことをぎゅーっと押し込めて、感じていることを感じられなかった自分に気がつき
ようやく自分をわかってあげられて
抱きしめてあげることができて、
わたしは、やっと、やっと、せまい箱の中から解放されたような気持ちになりました。
わたし、精いっぱいやっていたんですよね。ずっと。
いつだって精いっぱいやっていたことに気づいたら
ものすごくほっとしました。
安堵。安堵。
嫌われること
感じることは
わたしにとっては死んでしまうかもしれないことだったけど、
その裏側にはいつでも
両親の愛があったし
友人の愛があったし
何より自分から自分への、精いっぱいの愛があったことが思い出されました。
わたしの「嫌われる勇気」は
自分を見る時。感じる時。
その勇気。
そして
それは同時に
愛を知ることでもある。
「○○された」と感じる時、
ちょっと立ち止まってみてほしいです。
苦しい渦中ではそうは思えないかもしれないんだけど、
ほんのちょっと、一瞬でも、張り詰めている気持ちが和らいだら
その時は
「自分はどうしたいのかな」「何を感じているのかな」
そう自分を見てあげられたら
自分が救われると思います。
自分を救ってあげられると思います。
そうやって
自分に寄り添ってあげてほしいです。
そうできない時は
誰かに甘えて。
甘えてもいいんだし。
大切なのは、
「自分はどうしたい?」
いつだってそこです。
それは
「甘えたい」とか「安心したい」かもしれないよね。