1ヶ月ちょうど経った今日メールが来た。

私は仕事と息子との晩餐と新しくはじめたダーツに夢中になっていて、約束をすっかり忘れていた。

「お願い:来週の水曜日はいかがでしょうか。都合つけていただけませんか」

今回も携帯からのメールだった。

スケジュールを見ると、その日は先約が入っていた。先約をキャンセルするほどの事ではないと判断し、断りのメールを入れた。だが、すぐに返信が来た。

「なんとかなりませんか/勝手ですがどうしてもお会いしたいのです。なかなかスケジュールが取れないので無理を言いますが」

少し憂鬱になった。でも、こういう相手は断ったとしても、きっと新しい提案が来ると思う。これも経験。

「Re/では、21時からでよろしければ」

「楽しみです♪/待ち合わせの場所は後でお知らせします。感謝します。」

それで、メールは終わった。

嵐のような日々の始まりは突然やって来た。
隣の市にあるホテルで開催された講演会を聴きに行った。
「食のシンポジウム」で2番目の講演者はデータの豊富な近頃評判の高い研究者だった。仕事の上でも一度は聞いておく必要があると思い、平日だったが、そう急ぎの仕事もなかったので午前中に打ち合わせを1本こなし、その足で会場に向かった。

会場に到着した時にはすでに最初の講演が始まっていた。急げばこの講演の開始にも間に合ったのだが、今日の目的は2番目の講演だったので、昼食を優先させて遅れてしまったのだ。
見渡すと空席は前方にしかなかった。そのため、広い会場のサイドを歩いて、2列目の空席まで進むことになった。しっかり講演を聞こうと思っていた私にはそれも都合が良かった。

壇上にいる講演者は現役のシェフだった。レシピ本を本屋で手に取りパラパラと見た事がある。
今日まで関心はなかったが、写真で見るよりも魅力的な顔つきだと思った。ただ、講演は現場ならでの蘊蓄があり面白かった。ちょっと得をした気分。
おかげでパソコンを取り出してメールチェックに励もうと思っていたのに、ついメモを取っていた。無論、それはそれで貴重なことだ。

逆に、期待していた2番目の講演はさほど目新しい内容ではなかった。結果として、最初の講演者の話が私の中で際立った。トータルで見れば有意義な午後だったと思う。


「いかがでしたか?」
パソコンを片付けている時に不意に声をかけられた。それは1人目の講演者だった。気がつかなかったが2番目の講演を私の斜め前の席に座って聞いていたのだ。
「すばらしい内容でした。特に第三章の…」
話を続けようとする私に、講演者である彼は私の名刺を催促した。
「あいにく自分の名刺はなくなってしまったのですが…」
講演を聞いていた側が講演者と名刺交換をしたがるのはよくある事だが、講演者から言い出す事はまずないと思う。それでも特に不思議に思わず名刺を渡すと、彼はさっさとその場を離れた。

残された私は、あわててパンフレットのプロフィールを開く。歳は?私より10歳年下だった。


自宅に戻り、パソコンを開くとそこには、講演者からのメールが入っていた。携帯電話のメールアドレスからだった。

「タイトル;感謝/本文:あなたがメモを取っていらっしゃるのを壇上から見ていました。一度会っていただけますか?ご意見をお伺いしたい。よいお返事お待ちしております」

通常なら初対面の人からのメールに返事をすぐ書く事はない。
しかし、なぜかすぐに返信を書いた。講演内容が面白かったからかもしれない。あるいは同世代の女性が聞いたらうらやむあこがれのシェフだったからかもしれない。ひょっとすると、ちょっとしたいたずら心だったのかもしれない。

「タイトル:Re/本文:わざわざメールありがとうございます。光栄です」

私からはそれだけ。これで十分だとわかっていた。経験だ。

案の定5分も経たないうちにメールが帰って来た。

「タイトル:本当ですか。/本文:スケジュールを調整して必ず1ヶ月以内にお誘いしますので待っていて下さい。ありがとうございます。」



ただ、独身に戻ったからと言って、中年の女の日常が、なにがどう変わる事もなかった。
仕事はそれまでどおり淡々と進み、子どもも自分の生活を全うしていた。
強いて言えば引っ越したときにくたびれた家具と縁を切り、30万円もするソファを買ったことぐらいだ。決して裕福ではない。夫のこしらえた借金のかたに家だけでなく貯金も根こそぎなくなったし、進学するであろう息子の教育費もこれからどれだけかかるかわからない。だからといって、切り詰めすぎて惨めな生活にならないように、その決意を形にしたくてソファを買ったのだ。
息子もこのソファを気に入っているようで、私が残業して帰るとノートや参考書を片手に、そこで仮眠している事が多かった。

独身に戻ったからと言って、なにがどう変わることもないと言ったが、見かけは多少変わったと思う。

当然、結婚指輪は外した。
借金と離婚騒動の中で、激痩せしてしまい、洋服もほとんど買い直すことになった。
なにげなく会社で洋服を買いに行くと話をしたら、20代の部下が自分たちのお気に入りのブランドを勧めてくれた。
彼女たちは、「せっかく独身になったんだから、可愛いの着ましょうよ」と言う。「そんな気分じゃない」と制することもできたのだが、それこそせっかくだから見かけだけでも変わろうと考え直して、一番最初は付いて行ってもらった。バーゲンの時期だったこともあるが、今まで購入していた服の3分の1以下の値段で買う事ができた。しかも、痩せたおかげで若い女性向けの服が不思議と入った。
「いいです。似合いますう」「10歳は若くなりましたよお」「きっと、モテますって…」彼女たちはキャッキャとはしゃいで喜んでくれ、私もなんとなく気分が晴れた。

実際、離婚後半年ぐらい経った頃から周辺が騒がしくなった。
初めて会って名刺交換した相手から食事のお誘いが来ることも何度かあった。
それ以上に驚いたのが、今まで長い付き合いのあった取引先の相手からも個人的に誘われるようになった。もちろん、これまでも、週に1度くらいは飲みに行っていた。しかし、それは仕事の流れの中で出てくる飲み会であって仕事との段差はない。

長く人生やっているわけだし、これまでも誘ってくる男性がいなかった訳ではない。

その辺、男性は相手が結婚していようが容赦はない。単に食事に誘っただけ、と言うかもしれないが、本当に食事だけ御馳走してあげようという人と、あわよくばと思っている人の誘い方は、誘われる側からすると明らかに違う。そのぐらいはわかる程度に男性との経験も積んで来た。

そう、男女のことは想像ではわからない。誘いに乗ってたいへんな目にあってノウハウがつかめる。
だから、それなりに経験値を積んだ48歳の今、そうそう大きな間違いはおかさない。あるいはわかって羽目を外すか…。







48歳、息子1人。3年前の今日離婚届けを出した。それまで住んでいた郊外の小さな一戸建てから引っ越し、都心の賃貸マンションで生活を始めた。
離婚までの人生は順風満帆だった。いや、順風満帆だと思いこんでいた。出産の時以外、長期に仕事を休んだこともなく、まじめに働き、家事も育児もそれなりにやり、自分はバランスのとれた人間だと思っていた。多少、夫には無関心になっていたが、さほど意見が食い違う事もなく、うまくやれているつもりだった。
老後は楽しくやっていける自信があった。
だが、夫は無関心どころか、私が仕事で得た信用と納税証明書を使って3000万円の借金をしていたのだ。

夫の裏切りを知り、はじめて自分の思い込みと浅はかさを思い知った。人間は複雑だ。誠実な人にも不誠実な面があり、優しい人にも冷たく切り捨てる心が存在している。
そして、それは夫だけでなく、私の中にもあったという事をあらためて知った。

いきさつはどうあれ、ともかく20年の歳月を経て独身に戻った。