腐れ私小説 死の棘 | 不思議戦隊★キンザザ

腐れ私小説 死の棘

男はもう三日三晩も妻に尋問されている。長年の浮気がバレたのだ。激昂した妻は男を詰問し糾弾し反省を求めてなお飽かず、何度も振り出しに戻って尋問する。男が謝罪しようが反省の色を見せようが、いまの妻には男に対する憎悪しかない。


三日前、男が帰宅したとき垣根の板戸に鍵がかけられていた。家人が留守にしているらしい。胸騒ぎを覚えた男は無断で隣家の庭を横切り、自宅の敷地へ入る。玄関も窓も全て鍵がかかっており入ることが出来ない。男は鍵を持っていないらしかった。
意を決した男は手頃そうな瓦で窓のガラスを割り、内部に侵入する。自宅とはいえ泥棒の真似事をしているようで気分はよくない。家には誰にもいなかった。仕事部屋を検めるとインク壷が壁に叩きつけられており、壁に染み付いたインクがまるで血飛沫のようだ。インクの血飛沫の中に男の日記が乱暴に捨ててあった。妻が、日記を読んだのだ。


日記を読んだ妻は、精神に異常をきたした。ここからふたりは、いつとも果てぬ狂気の迷路に入り込む。


―略―


マダムは私小説が嫌いである。なぜなら毒にも薬にもならん言い訳と純度の低い妄想が締まりなくダラダラと流れるだけだからだ。執筆している本人は文豪気分で気色良いだろうが、読まされる側は拷問以外の何ものでもない。ところが日本近代文学は私小説ばかり多すぎる。なぜか。
黒船来航で無理やり国際社会に引きずり出された日本は、追いつけ追い越せの気概で西洋文化を貪欲に取り入れた。議会制制度軍隊医学鉄道建築といった基幹システムから、ファッショングルメ音楽絵画ライフスタイルといったソフト面まで取り入れた。その中に文学もあった。そんで、当時欧州で流行ってたのが自然主義だったのである。自然主義とは現実社会の底辺を赤裸々に描きながらも、では理想的な社会にするにはどうすればよいかを模索するメソッドである。
ところが日本の文学者崩れは自然主義を「現実そのまんま」と勘違いし、締まりのない日常をダラダラダラダラ書き始めた。ダラダラにも種類はあって質屋の蔵で途方に暮れる宇野浩二などは害がないが、田山花袋の「蒲団」、或いは島崎藤村の「破戒」となったら衝撃は大きい。この衝撃の大きさが、「自然主義=現実そのまんま=現実が衝撃的であればあるほどスゴイ自然主義文学=スゴイ文学」と拡大解釈され私小説として定着し、これを背景にして文壇の亡者どもの間で地獄のスパイラルが繰り広げられたのである。
その地獄スパイラルの頂点、というか一番どん底に鎮座、というか墜落してめり込んで腐っているのが、本日俎上に載せる島尾敏雄の「死の棘」である。

 

地獄スパイラルの最高峰(誉めてない)


簡単にいうと、夫の浮気で精神の平衡を失ってしまった妻をネタにした私小説だ。もうこれだけで著者であり夫である島尾に嫌気がさす。
妻に浮気がバレたのは島尾の日記が発端である。妻が狂うほどのショッキングな内容だったのであろう。というより、夫が他の女といい感じになってるってだけで大変なショックである。それを夫自ら日記に記しているのである。気持ち悪いにもほどがある。
島尾の浮気は10年も続いており(同じ女か別の女か不明)、その無為な10年を妻のミホは健気にも過ごしてきたのである。3日と自宅へ寄りつかない夫を信じて、じっと待っていたのであろう。


しかしミホはキレた。とうとうキレた。そりゃそうだ、10年も我慢してきたのだ(これもある意味スゴイけど)。著者はミホが狂ったのは日記を読んだせいにしているが、そんなものを読まなくてもミホは狂っただろう。ミホでなくても狂っただろう。著者は何年も妻を蔑にして大丈夫だと思っていたのだろうか?
だとしたら文学者としての想像力が欠落している。というか、ひととして何かが欠けている。そのくせミホが狂うとビビるのである、このバカは。じっと耐えて文句ひとついわないミホを見くびっていたのである。みくびっていたもんだからミホの醜態に腰を抜かし、「ミホがいなくなったらどうしよう」「まずは愛人と別れよう」と、急いで愛人と一方的に手を切るのである。
この行動原理ひとつ見るだけで、いかに覚悟なく浮気をしていたということが分かろうというものだ。


夫にかしずき黙って涙をためるだけだったミホの豹変を目の当たりにした島尾は腹を決める。ミホをこんなに追い詰めてしまったのは自分だ。こんなに愛してくれるミホを、僕は捨てることなんて出来ない。僕もミホを愛している。これからはミホのためだけに生きていこう。などと薄っぺらい自己陶酔に浸り、しかし手加減なしで攻めてくるミホからの糾弾にうんざりし始めると、途端に甘ったれた無意識の自己保身が頭をもたげてくる。

 

「インキ壷が投げつけられてからこちらのことにしてください。そのときからのぼくを見てください」


ところが島尾の生ぬるい反省をミホは一喝する。

 

「なに言ってんのよ。あなたのは十年このかたのことじゃないの。十年このかたの不正がたった三日間でどれだけのことを証明できますか。たわごとも休み休み言ってちょうだい」


ははは。ミホに看破されてんじゃん。なーにが「全身に襲ってきた寂しさに取りひしがれた」だよ。なーにが「私は妻のなかに、自分の手中から失いたくないものをみつけた」だ。こいつ、マジでこれが文学だと思ってんの?文学が聞いて呆れるぜ。
客観的に観察すると醜態をさらしているのは島尾である。でもまあ似非ブンガクモラハラ野郎にとっては、こういったぐちゃぐちゃした現実こそ自然主義でありブンガク的な「俺の生きざま」だろうから中二病的自尊心は満足するのであろう。とはいえ、そんな恥ずかしい自尊心はもちろんミホに見破られている。

 

おすきなように今まで通りきたない文学的な生活をつづけたらいいでしょ。


しかし中二病的自尊心はとどまるところを知らず、ミホを犠牲にして益々肥大する。ミホが狂ったミホが狂ったと吹聴しながら、バカ自身も狂気を演出する。

 

はなしがもつれてくると、私はいらいらしてきて昼間の行為を思い出し、ものも言わずに立ち上がって障子に頭を突っ込んだ。張り替えたばかりの障子は、桟がばらばらにくずれて飛び散ったが、私は満足できず、六畳に立って行ってたんすに突進した。しかし今度はどうしてか妻はとめに来ない。崖から突き落とされたように寂しくなるが、そのままやめるのも恰好がつかず、喊声ををあげて二度三度突っ込むと、頭の地肌がみみずばれになり、血もにじんだようだ。


演出するだけでは飽き足らず、すぐに死ぬ死ぬ言い始めて線路に飛び込みそうなふりをしたり、首をくくるための木を探したり、ベルトで自分の首を絞めたりして自殺の真似事をする。本当に死ぬヤツは黙って死ぬのが世の常だ。島尾のように自殺すると騒ぐ輩に限って最後まで完遂することはない。
もちろん島尾も自殺を仄めかすだけで死なない。だからこうやって狂った妻をネタにした糞私小説を幾許かのカネを払えば誰でも読めるのである。はは、ノンキだね。浮気にも覚悟なく、死に切る覚悟もない負け犬。それが島尾だ。ウザいことこの上なし。


島尾のせいで精神が崩壊したミホだが、たまに正気に戻ることがある。狂気の中にいても、それでも「このままではいけない」と本能で感じていたミホ自身が自分を必死で抑えていたのだろう。健気すぎて涙が出てくる。
ところがそうやって正気を保とうとするミホに向かって島尾は余計なちょっかいを出すのである。例えばなんでもないときに「だいじょうぶ?」と何度も聞く、ミホが買い物に出かけようとすると「心配だから」といって付いてまわる。そんでミホがイヤそうにすると、すぐ首をくくろうとする。
もしかして狂ってるのはミホではないのではないか?島尾こそパーソナリティ障害なのではあるまいか?異常性格者の側にいると、正常なひとにも異常が移るという。もともとおかしいのは島尾の方で、その陰湿な狂気がミホに作用したのではないか?


島尾とミホの間には、驚くべきことにふたりの子供がいた。ということは、島尾は子供を放っておいて浮気をしていたのであり、子供たちの前で死ぬ死ぬ詐欺を繰り返していたのであり(その度に兄の伸三が子供ながら止めに入る)、取っ組み合いの夫婦喧嘩をしていたのである。
夫婦喧嘩は凄まじく、ミホも一方的にやられるばかりではなく島尾を何度も平手打ちする。島尾はミホを殴る代わりに(ってゆーか殴ってるけど)自分の頭を壁に打ち付けるという異常行動を始める。そして必ず何かが壊れた。
親がこんな状態だから、兄の伸三と妹のマヤは飯も食えず風呂にも入れず健康的な生活は以前以上に失われ、みるみる荒んでいった。子供が登場するくだりは読んでいて苦しくなってくるほどだ。かわいそうでかわいそうで、マジ島尾に殺意が湧いてくる。この野郎に生きる価値なんてねえだろ。早く死ねばいいのに。でもこういうヤツに限って死なねーんだよな、まったく迷惑なハナシだぜ。
っつーか、子供たちのこんな描写をよく書けるな。私小説とはいえ、いくらなんでも冷静でいられねえだろ。子供たちまでネタにしやがってどんだけ下種野郎なんだよ、島尾はよ。


かように、読み進めれば読み進むほどムカッ腹が立ってくる。これは森茉莉の比ではない。ダメ男という形容では済まされない。島尾の腐れっぷりは圧倒的だ。
だが島尾自身は「腐っても文学者」と自惚れているようで、その片鱗を感じるのが文体である。とにかくレトリックに過ぎる。修辞学とはまた違うしつこさである。特に酷いのが状況説明で、ちょっとした心象を語るにも余計な修飾語で飾り立てるので目が滑る。

 

オーバーの裏地の淡紅の色彩が眼の底に沈んでいるのをとりのけることはできないが、彼女のすがたが視野の外にはずれただけで、自分の重さを失いその反動が天秤の一方のおもりに重さを加えたから私は軽くなって高くはねあがったみたいだ。すぐそこの廊下のかどのむこうの妻の暗やみがうそのように遠のいてしまう。何かのかかわりで病院のなかを歩いている女たちのすがたも見ないわけにはいかないが、妻と一緒のときには仮面をかぶっておそろしげに見えたのが、無邪気なやさしさを包み持った多様な可能性に写ってくるのがあやしい。


上記引用部分、たったこれだけの中でも文学的気取りが随所に散見され、その気取りに著者の浅ましさが滲み出ている。必要以上にブンガクしようとしてどうでもいい修飾語を散りばめて全体的に薄くなっている。だから何?としか思えない。ページ数を稼ぐだけが目的じゃねーの?アホらし。更に以下の文章などは

 

その表情のすぐ裏側に、弓なりに反るほどの強靭な完璧であらわそうとする女の根がむきだしにわだかまっていたが、そのせいか皮膚をしめらし、装いのない素顔の美しさにあふれていた。


気持ち悪い自己陶酔感臭が芬々、浮気モラハラ糞野郎がいったいどんなツラして書いてやがるんだ。恥を知れ、恥を。しかし島尾はどこまでも文学者ヅラして恥じることはない。

恥ずかしかったらもとから浮気なんてしねーし、妻と子供を10年も放ったらかしにしねーし、精神崩壊した妻を飯のタネにはしねーし。そもそもこんな私小説を発表なんてしねーわ。するくらいなら恥ずかしすぎてとっくのとーに死んどるわ。
マジ、島尾の自尊心は間違っている。ミホもこんな男に縋ったりせず、とっとと見切りをつけて別れればいいのに。


ところが、である。どうもミホも共犯者っぽいのである。共犯者というか、こういった場合は共依存という言い方が適当か。ミホが精神のバランスを崩した昭和30年前後、精神医学は始まったばかりの分野であったので共依存という観念はまだなかった。ということを差し引いて考えても、島尾とミホの共依存っぷりは桁外れの粘着力なのである。
島尾一家は江戸川区から千葉県の佐倉市へ引っ越す。そこへある夜、島尾の浮気相手であった女が訪ねてきた。さあ、一家総出で大変である。ミホは女を一目見て激昂し、激昂したミホに恐怖した島尾は、ミホが命令するまま女を殴ったりミホが殴りやすいように女を羽交い絞めにしたりする。狂っている。

家主が通報し警察がやってきて事情をきき、女を保護して帰って行った。警察の前では怯えていたミホだったが、警察がいなくなるとこんなことを言ってのける。
 

今度来たら、ほんとうに殺してしまう。だって精神病者は罪にならないんでしょ。


げっ、この女、全然狂ってないやんけ。ではいままでの狂態は何だったのだ?ヤラセか?それともプレイの一環か?ここからマダムはミホを疑い始めた。そういえば、なにやら妙なくだりがいくつもあった。

 

ふとんを敷き、最初の発作以来の習慣でしっかり抱き合っていると、妻はからだでためそうとし、私は試みの前にさらされるが、からみあった反応が微妙にばらまかれていて、よほど組み合わせに恵まれないと、反応は連鎖の痙攣を起こし、どうにもおさえられないようなおそれのなかでなお耐え・・・


うわあ、なんや、コレ。ふたり揃って気色悪いわあ~。夫婦なんだからヤルことヤッてんのは、まあわかる。しかし、こんな描写をわざわざ差し入れる神経が分からない。まるで出来そこないの三流エロ小説のようだ。結局、あれだけ他人を巻き込んで子供まで荒んでしまった夫婦喧嘩も、ちょっと大げさなプレイの一環ということだったのである。
プレイの一環というと語弊があるかもしれないが、ここまで読んでマダムの脳裏に浮かんだのは「炎上商法」という四文字熟語であった。なんかもう出会い頭の貰い事故みたいな、後味の悪さが五臓六腑にしみわたる。マジ糞。

 

正解は炎上商法


で、何も解決しないまま終わり、こんな糞レビューをしこしこ書いているのである。あ~~~、糞だった。

糞といえば最後の解説も糞だった。書いたのは山本健吉とかいう人物だが、こいつも島尾に似たような文学者崩れ臭く、あろうことかミホをギリシア神話の女神メデイアになぞらえているのである!
おいおい、メデイアっつったらひとのものを盗んで逃走した挙句、逃走中に捕まりそうになると弟を人身御供にした挙句、ウソこいて羊飼いを殺した挙句、夫に浮気された腹いせに自分の子供を殺した挙句、結局あちこち逃げ回る羽目になり知り合いに匿ってもらおうとしても断られまくったていう、女の嫌な部分を煮詰めて佃煮にしたような女だぞ!!ミホはそこまで佃煮になってないぞ。メデイアと比べたら「さっと煮」くらいじゃないか?


いろいろ憤って疲れる「死の棘」、この私小説を書くにあたり島尾は当時の日記を下敷きにした。それが「死の棘日記」である。これはいま読んでいる最中だ。気が向いたらレビューする。

ついでに昨年「狂うひと 死の棘の妻・島尾ミホ」というミホの評伝が発売された。こちらの著者はノンフィクション作家の梯久美子。残された膨大な資料、関係者へのインタビューなどで構成されているということだ。島尾の主観もミホの演技もなさそうだから、もしかしたらふたりの間で生成されたカラクリめいたものが白日のもとに晒されているかも知れない。もちろん既に手に入れているので、読んだらまた何かしらレビューするつもりである。