説教は事後にされるべきだと思う。説教は、基本ある事柄において、彼らにより負債が出ないようにするためにされるんだ。

そして、それは怒られるべきではない場合があると思う。もしそれが彼らによる好奇心の探求であり、可能性の芽を摘む行為であったとしたら。責任が取れないだろう?

人は、往々にして事後に悔やむ、人はこれを後悔と呼ぶ。今その場で自分の無力さに悔やむ回数よりも、できなかったことに対して悔やむ回数のほうが多いのだ。よく考えれば、わかるだろう。前者に対して悔やむ場合と悔やまない場合がある。でも、それを悔やむときは、必ずと言っていいほど必ず後者を悔やむ。つまり、前者だけを悔やむ回数は少ないが、それに比べて、後者だけを悔やむ回数は多いということだ。

つまり、その回数の多さが、事前や事中は冷静さを欠いているため、安直な判断をしないほうがいいことを物語っている。