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私達はなぜ国語を勉強するのか。そもそも国語教科の始まりは、明治時代であって、その頃は、恐らくまともに読み書きができる人は少なかっただろう。そこで、最小限の読み書きを覚えさせるために生まれた、はずだ。(実際は寺子屋で学べたのかもしれないが、全員が読み書きできたわけではないだろうから間違ってはないだろう。)
では、昨今の国語教科はどうだろうか。私は、「義務教育」の枠を越えていると思う。識字、文法、漢文、日本古典、現代文…
果たして、これらは全て必要だろうか。答えは否である。電子化が進んでる今、識字は必要だろうか。もちろん、それ以外の方が不要の可能性が高い。
先ず識字、日本語の読み書きは確かにできた方がよいかもしれない。では、逆に読み書きができるメリットは何だろう。果たしてどのぐらい思いつくだろうか。恐らくほぼないのではないだろうか。今、学校以外で日本語を何も見ずに書く機会はほぼない。今は、国語辞典よりも便利で、語数が多く、金のかからない「オンライン辞書がある」。より経済的で、持ち運びが便利なメモ帳がスマホの中にある。昔ながらのものが廃れることはあるが、完全に需要がなくなるのかどうかは誰にもわからない。電気だって万能じゃない。そこを補えるのが道具の良いところである。だが、無駄なことをするのはどうかと思う。
次は現代文だ。現代文の教科として不要な理由は、そのあざとさだ。あからさまに教科書等に載せてもらおうとしているか、ただ知識をひけらかしているようにしか思えない。(もちろん真面目に文章を書いている人もいる)
問題の形式も気になる。仮に全問正解したとして、それは、本当に作者の心情・意図を読み取れているのだろうか。私は否だと考える。現代文で行っていることは、単なる文章の簡略化にすぎない。作者に喧嘩を売っているのだろうか。文章を簡略化しただけで、作者の心情・意図を読み取ったことにならないのなら、何をしているのか。
古文、漢文などは要らないの一言に尽きる。確かに、知識は大いに越したことはないが、これらを習うことは義務なのだろうか。
以上を踏まえて、識字は電子化の進む現代では、そこまで重要視されない。最低限でよい。現代文はそのあざとさ、問題の形式ゆえ不要である。古文、漢文は、習う意味がない。
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付ける薬のない現代教育に残された唯一の救済処置。それは、簡潔に言うと大学化。専門化だろうか。とにかく、理科、算数、識字、技術などの最低限必要な教科を習ったあと、もしくは同時並行して大学のように講義を選択する仕組みにするといいと思う。
これのメリットは、社会に出ても専門分野で活躍できる人間が量産できる所だろう。職を失っても、再就職率が格段に上がるだろう。デメリットは、子供に迫るにしては酷な決断な所だろう。だが、今の私の考えでは、メリットしかないも同然だ。
この考えの基盤となったのは、昔の親の職業を継ぐという考え方である。もちろん現代社会で親の家業を次ぐ必要はないが、その頃は親から子へ、専門技術や知識が伝えられていたに違いない。ゆえにその道に通ずる人が多かったのは事実だ。では、現代の社会ではどうだろう。無駄なことを義務だと言われ学び、飲み会で「学校で習ったことって結局使わないんだよね〜」と愚痴をこぼす。そんなサラリーマンは就職活動に相当苦労している。では、丸6年で人生に必要な最低限の知識を身につけられたとしよう。そうすれば、中学校からは専門分野について十分に学べるだろう、理解力の差はあれど、6年あれば十分はずだ。
もちろん、皆が平等に学びたいことを学ぶことはできないから、誰かに妥協してもらうための手段、「受験」は残しておくべきだと思う。
教師に蹂躙される日々。無駄なことを詰め込む日々。友という名の他人に愛想よくする日々。ただでさえ楽しくない日々が自分のやりたいことについて学ぶための日々に変われば、少しは道が開けるだろう。