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元・木村工務店ブログ

建築と不動産の㈱木村工務店(一級建築士事務所)は、平成28年に会社を解散整理しました。ですが、ブログだけは引き続き継続しています。
最近は、仕事から離れた家庭菜園やランチなどですが、時々は海釣りや山歩きも投稿しています。

 

       旧中山道六十九次・街道を歩く         

 

第22回b  下諏訪宿~長久保宿 

         

               令和 7年11月16日(

 

 

                                 

  主催 ・ トラピックス名古屋(阪急交通社)                      

     中山道六十九次街道を歩く全28回シリーズ            

                                                                                       

 


 

 06:14 モーニング/ホテル内 

 

 1階レストランでの朝食は、我が家と同じように 納豆ご飯 をメインにいただきました。

 

 

 

 

 07:30 ホテルルートイン第1諏訪インター    

 

       バス乗車出発 晴 3℃         

 

 Ⓟの関係上、昨日のバス降車と同様に今日の乗車も第2諏訪インターⓅからでした。

 

 

 

 

 諏訪大社下社秋宮/準備体操 

 

 全員での 準備体操 後、再びバスで昨日の最終地へと向かいました。

 

 

 

 

 昨日の最終地点/石材店付近  

 

 今日の出発地は、昨日の最終地となった石材店の付近からです。

 

 

 

 

 中山道樋橋茶屋跡 

 

 寛永11年(1634年)、立場として開村した 樋橋村 ですが、茶屋本陣は小松家が代々務めました。

 

皇女和宮は、茶屋本陣で休息したとされています。

 

 

 

 

 

 歩き中山道 

 

 和田峠 を目指していますが、峠は中山道の 最高地点 であります。

 

 

 

 

 

 史跡 浪人塚/和田嶺砥澤合戦跡  (このうら五〇米先)

 

 元治元年(1864年)11月20日、水戸浪士の一行千余人勤王の志をとげようと和田峠を越えて来ましたが、それを高島・松本両藩が防いだ激戦地跡で、塚には討死した浪士を葬り櫻を植え基碑が建てられていました。

 

 

 

 

 歩き中山道/垂木坂 

 

 国道142号線から右に外れ、地道の旧道へと進んで行きます。

 

 

 

 

 

 国道から外れて直ぐでしたが、 地元のガイド さんが待っていてくれました。

 

 

 

 

 ガイドさん曰く、この和田峠周辺は縄文時代から黒曜石原産地群の採掘遺跡とのことでしたので、我々一行も足下の黒曜石を探してみましたが、私にも小指の爪ぐらいの 黒曜石 を発見することが出来ました。

 

でも、ガイドさんが持参した少し大きめの黒曜石を皆にお土産として分けてくれました。

 

 

 

 

 歩き中山道 

 

 ガイドさんから貴重(?)な黒曜石を貰ったせいか、何故か不思議にも足取りが軽くなったような気がします。

 

 

 

 

 西餅屋の一里塚跡 

 

 江戸日本橋より52里目の 一里塚跡 です。

 

 

 

 

 突然でしたが、 大型貨物トラックが転落していました。

 

未だ最近の事故らしいですが、これから近い内に引き上げられると思いますが、運転手さんは大丈夫だったのか心配されます。

 

 

 

 

 たぶん、上のガードレールを突き破って転落したものと想像されます。」

 

 

 

 

 10:13 バス乗車/ランチタイム 

 

 不便な山の中の為、少し早めに移動してのランチタイムと思われます。

 

 

 

 10:39 道の駅「和田宿ステーション」/ランチ 

 

 諸事情により、チョット早めに頂くランチタイムは、美味しくお腹いっぱいになったカツ丼とウドンの定食をいただきました。

 

 

 

 

 中山道和田宿 

 

 未だ和田峠も超えてませんが、これもまた諸事情により先に 和田宿 を散策することになりました。

 

因みに、和田宿は国道142号線に架かる橋を渡った先になります。

 

 

 

 

 和田宿は、最盛期には70軒の伝馬役があったと云われ、信濃路では規模の大きい宿場町として発展しました(和田宿と下諏訪宿の間は五里十八町と中山道随一の長丁場だったことから多くの伝馬役が必要とされました)。

 

天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によると、

人口 ・ 522人(男 272人、女 250人)

家数 ・ 126軒

本陣 ・ 1軒

脇本陣 ・ 2軒

旅籠 ・ 28軒

宿長 ・ 7町58間(約870m)

 

文久元年(18861年)の大火で本陣、脇本陣を含め109戸が全焼(和田宿全体の3分2)しましたが、数ヶ月後に仁孝天皇の第8皇女である和宮親子内親王が14代将軍徳川家茂の御台所となる為に降嫁行列が和田宿を利用する事が既に決定していた為、急遽宿場町全体が再建される事になり幕府から多額の借金し全国から大工を動員したと伝わっています。

 

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  和田宿本陣跡  長野県長和町和田2854-1

 

 本陣(長井家)は、文久元年(1861年)3月の大火(宿場の2/3、109戸が全焼)で全焼しましたが、11月に 皇女和宮降嫁 の宿泊地とされていたために急遽再建されました。

 

 

 

 

 本陣建物は、大名などの宿泊にあてられる「座敷棟」と、生活空間である「居室棟」に分かれていて、現在残っているのは板葺き石置き(1633個の石)屋根が特徴的な居室棟です(座敷棟は上田市生田の龍顔寺に移築)。

 

尚、昭和61年より5年をかけて解体復元修理がされました。

 

 

 

 

 主屋(居室棟)は、木造2階建・切妻・板葺き石置き屋根・平入・桁行12間・梁間13間で、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ・式台付き玄関となっており、間取りは14室(2階は2室)・135坪(444㎡)・軒高さ5.3m・棟高さ8.8mです。

 

 

 

 

 台所には、 囲炉裏 や釜戸などの厨房設備が施されています。

 

 

 

 

 ” 箱階段、良いですネ ” 

 

 階段下の収納は、現代社会にも通用するものが在る様に感じられます。


 

 

 

 その 箱階段 で2階に上がると、そこは駕籠が置かれた展示室となっていました。

 

2台の駕籠は、武家や公家などの高貴な方の乗り物と思われます。

 

 

 

 

 こちらの2台は、何方かと言うと一般庶民用かと思いますが、その中でも富裕層限定かと思います。

 

 

 

 

 本陣の見学が済み、隣接する 紅葉 に暫し足を止めさせられました。

 

 

 

 

 名主羽田家役宅跡 

 

 文久元年(1861年)の大火以降に建てられた 出梁造り の建物です。

 

 

 

 

 旧旅籠大黒屋 

 

 

 文久元年(1861年)の大火以降に建てられた建物で、間口6間(約11m)・奥行7間(約13m)の出梁造りです。

 

 

 

 

 旧旅籠かわち屋/現・歴史の道資料館 

 

 文久元年(1861年)の大火以降に建てられた建物で、再建された当時のままで残されています。

 

建物は、江戸末期の旅籠建築の様式で、2階正面が1階より前に出て梁で支える出梁造りです。

 

母屋は木造2階建てで、切妻・鉄板葺き・平入り・外壁は漆喰仕上げです。


昭和56年「歴史の道資料館」として修復工事がおこなわれ、中山道宿場町の資料が展示されています。

 

 

 

 

 下問屋山木屋 

 

 出梁造りの建物が現存する山木屋は、和田宿の 下問屋 を務めていました。

 

 

 

 

 和田宿脇本陣 

 

  ” 今現在、住宅として使用されていますので、外から静かに見学させて貰いました” 
 
脇本陣は、和田宿に2軒あった 脇本陣 のうちの1つで歴代翠川氏が勤めました。


文久元年(1861年)の大火で焼失(和田宿内では本陣を含め109戸が全焼した)しましたが、数ヶ月後に皇女和宮が和田宿に宿泊することかが決定していた為、急遽和田宿全体が再建され脇本陣も建築されました。

 

現在の建物は当時の御殿部分で、上段の間、二の間、など格式の高さが感じられる部分や風呂や厠なども残り上田や小県地方唯一の脇本陣の遺構として大変貴重な建物となっています。

 

 

 

 

 

 萬屋 

 

 立派な 卯建 と白壁の 土蔵 が残されています。

 

往時は、質屋と両替商を営んでいました(現在は酒店)。

 

 

 

 

 

 歩き中山道 

 

 和田宿の見学が済み、バスで移動後にまた和田峠へと向かって歩き出しました。

 

 

 

 

 西餅屋茶屋(立場)跡 

 

 西餅屋は、江戸時代の中山道下諏訪宿と和田宿 の五里十八丁の峠路5ヶ所に設けられた 茶屋  立場 =人馬が休息する所)でした。

 

ここは茶屋本陣の小口家と武居家、茶屋の犬飼家と小松家の四軒があり、藩界にあったので、ときには穀留番所が置かれていました。

 

現在は、道の「曲之手」(直角な曲り)と茶屋跡が残されています。

 

 

 

 

 歩き中山道 

 

 和田峠に近づくにつれ、徐々に中山道の最大難所らしくなって来ましたが、私の前を歩いていた同年配の御婦人は、2度も足を滑らせるような アクシデント などもありましたので、ユックリとシッカリとした足取りで登って行きます。

 

 

 

 

 古峠/和田峠(標高 1600m) 

 

 峠に着くなり、付近の関係する写真を数多く撮ったときでしたが、誰かが此処は和田峠では無いと言い出しましたので、残念ながら折角の写真は削除せざるを得ませんでした。

 

ところが、やっぱり此処は和田峠で間違い無いと言う事になり、改めて写真を撮り直しました。

 

 

 

 

 歩き中山道 

 

 過去の山登りでもそうでしたが、下りは辛い登りの 御褒美 かも知れませんネ。

 

 

 

 

 歩き中山道 

 

 ビーナスラインを4ヶ所横断する内、1か所だけはパイプトンネルを潜ります。

 

 

 

 

 休憩/第76カーブ(廃レストラン跡付近) 

 

 丁度お八つの時間でしたので、ランチ会場の和田ステーションで買った力餅を美味しくいただきました。

 

 ” 甘い物は疲れが消え、新しい力が湧いて来ます ” 

 

 

 

 

 

 

 広原の一里塚 

 

 江戸日本橋より52里目の一里塚です。

 

今は東塚だけが残され、往時は笹と萱の生い茂った原っぱであったようです。

冬の降雪期には、山頂から吹き降ろす吹雪で一面の雪の原と化し、道も埋もれた時には5間(約9m)四方の此の一里塚は旅人の心強い道標となったと想像ができます。

 

 

 

 

 近藤巡査殉職地碑 

 

 明治22年(1889年)8月22日、窃盗犯人を下諏訪警察分署へ護送する途中、逃走した犯人を捕らえようとした接待地籍に於いて、犯人に殺害されました。

 

享年22歳の若者でした。

地元では碑を建立し、今でも 供養 しているとのことでした。

 

 

 

 

 接待茶屋跡/永大人馬施行所跡 

 

 文政11年(1828年)、江戸呉服町の豪商かせや与兵衛(有隣)は、中山道の旅の難儀を幾分でも助けようと金千両を幕府に寄付しました。

 

その金の利子百両を二分して、碓氷峠の坂本宿とこの和田宿に五十両づつ下付し、11月から3月まで峠を越える旅人に 粥と焚火 を、牛馬には年中小桶一杯の煮麦を施行しました。 

 

その後、山抜けにより流失したが嘉永5年(1852年)現在地に再建され、明治3年(1870年)まで続けられました。

 

 

 

 

 15:51 今日の予定到着地 

 

 バスの発車後、永井ウォークリーダーから提案がありました。

 

其の提案とは、今日は予定よりも早めに予定のコースが終了となりましたので、今から明日の一部コースを歩いて時間を短縮しては如何かと言う事でした。

 

ツアーの皆さんは、明日の終了が早まるならばと、全員が永井ウォークリーダーの提案に賛成しました。

 

 

 

 

 16:37 再スタート 

 

 バスから降車後、 ヘッドライト を点燈して再び歩き出しました。

 

 

 

 

 歩き中山道 

 

 ザックなどの荷物はバスに置いて来たので、お手軽なウォーク気分で歩いています。

 

 



 三十三体観音像 

 

 嘗て、この山の中腹にあった熊野権現社の前に並んでいた観音像群ですが、和田峠の難所を往来する人馬の無事を祈って祀られました。

 

昭和48年(1973年)の調査発掘により、29体が確認されて此処に安置されましたが、4体は未だに発見されていません。

 

 

 

 

17:00 本日の追加到着地点

 

 位置的には、国道142号線と旧中山道の交差する付近でした。

 

 

 

 

 

 バス乗車中の車内 

 

 ツアーの皆さんは、今日のウォークコースを終了したせいか、一様にホットしたような表情でした。

 

 

 

 17:41 ディナータイム/千成鮨 

 

 夕食は、ホテルルートインへの途中に在る寿司屋さんでいただきました。

 

 

 

 今日のバス移動は約50kmで、歩数は和田峠の登山的要素もあって稼げず、約21,951歩でした。