3日は出撃予定にしていましたが強風で新年初出撃を断念した黒スナです(´°ω°`)
まぁ、今年もまたこんな感じでユルく、そして温く、あるいは年甲斐も無く、たまには熱く、色んなブログを思い付きのたま綴る所存ですw
なので、皆様、本年も生温い目線でひとつよろしくお願い申し上げますm(_ _)m
さて、2018年の1発目は僕がたまに考えるテーマでも書いてみようかと…。
⚫️なぜキャンプなのか?
基本的なお題で、昨年からキャンプブームが来てるなぁ…と感じているので、ソロキャンなんかで(ほぼソロだけどw)焚き火をやりながらボンヤリと考えてみたりするテーマです。
そもそもキャンプとは…。
「キャンプは非日常を楽しむ」なんて言葉がありますが、コレを読んでみると今でこそ「非日常」なのかもしれないけれど…。
「非日常感」は日常から羽目を外してバカ騒ぎする事でもないし…。
ルーツを辿れば生活に密着していた日常、あるいは生活そのものだったんだろうなぁ…、なんて考えてしまいます。
まだ、人間の殆どが狩猟生活をしていて、獲物を追って移動しながら生活する知恵。
あるいは、放牧をしながら放牧地を転々としながら生活する知恵がキャンプのルーツのように思う。(これが全てではないけれど)
なんて言うのか?現代のようにキャンプする事を目的とするのではなく、キャンプ自体が既に生活の一部であり、人の生の傍にいつもあり、まさに日常だったと思うのです。
一方、現代では…。
僕もそうですが、今している仕事が間接的には生きると言う行為に繋がっているけれど、仕事が生きる事には直結していません。(100%自給自足の方は除く)
これは社会システムの中で分業した方が効率が良くて、お金という共通の価値で生活を成立させたり、補ったりした方が生きやすい為に選択された価値交換のシステムです。
これにより、太古は、自分の生は全て自分の手の中にありましたが、現代の価値交換のシステムにより生に対する労力が分散して、それに伴い生の実感が希薄になり霧散し、ともすれば感じられにくくなり、あるいは意味を変えていったと推測しています。
そして、医学や科学技術の発展で、死が日常からドンドン遠ざけられていったのもひとつの要因でもあります。
人間は無意識に比較して考えているので、他国の戦争を見て自国の平和を実感したりするのと同じで、より死に近い場所に身を置いた方が生を感じやすいと言われています。
まぁ、これは僕らのDNAに刻まれた生存本能の一部かもしれませんけどね。
なんか、キャンプとは全然関係ない方向に話が行ってる関がありますが、意外にそうでもないと思っている僕がいますw
上記の事を踏まえると僕的には納得できちゃう。
前提として趣味やライフワークでキャンプが好きな人や、癒される人は…。
無意識にでも普段の日常よりは「生」を感じている、あるいは感じたいのではないか?
日常生活の中にある自分のテリトリーや巣から離れると言うことは、日常の安全側から少し危険側に立ち位置が変わる。
そして、普段は何の気なしにしている価値交換が不自由な場所に身を置いているから、安定側から不安定側に身を置く行為とも言える。
そんな環境に身を置くキャンプの中で、いつもより自分の生を感じたり、価値交換が不自由が故に自分が出来ること、出来ないことが鮮明になり自分と言うものが浮き彫りになったりする事で、いわゆる「非日常感」を味わっているのではないか?
簡単に言えば、熱い時にキンキンに冷えたビールの美味さが実感できるように、日常より生きる事に過酷な環境に身を置いた方が自分が生きている事のリアルに近づけるみたいなw
そして、そこで感じたいつもより少しリアルな生の実感が、自分と言うモノをいつもより鮮明にしてくれる。
キャンプでの成功も、失敗も、楽しかった事も、嫌だった事も全てが自分に向いているのだ。
そして、それらが指し示す方向の先には必ず自分がいる。
人間は自分が何者なのか知りたい動物である。
それが良くも悪くもキャンプの中で実感できる人がいる。
たぶん、それが楽しいし、自分を知る事で癒されている側面もあるんだと思う。
大げさに言えば、僕らに刻まれたDNAがそうさせているのかもしれない…。
だって、キャンプで味わう「非日常感」なんて太古では僕らの「日常」だったのだから…。
癒されない訳ないじゃないかw
あとは、それに気付くか気付かないか?
あるいは、感じられるか、感じられないかだったり?
あくまで自論だけど、僕はこんな風に考察して納得しています。
そんな訳で、きっと、キャンプは遊びの中で、普段よりも濃度の濃い「生」体感できる遊びなんじゃないかと思っている次第です、はい。