〈CUP vol.2〉その12

俳優 キム・ナムギルの
対話集 後:) 談話





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細かく砕くには呼吸の間に
己の生死を考えて見るんです。
息を吸うごとに 生きる 死ぬ
生きる 死ぬ。
そうすると 己の感情が砕かれます。



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ヒャンムン-個々人でみると、誘惑に対する免疫システムが弱いかもしれないし、社会的には誘惑があまりにも強烈です。好みや考え、価値観などを強要されたり、また強烈な刺激がなければ反応もしません。そういう環境にいるので、大抵のことでは満足できず、維持も難しくなり、それで引き続き強度が高くなって。でもそれが精神的に辛いじゃないですか。私が追求するのは、社会が追う幻想の領域から一歩後ろに下がって、自分が一度振り返って見なければならない本当の世の中の価値を教えることです。あまりにも物質だけ良くて競争構図に閉じ込められている領域で、その他を見られるように教えなくてはなりません。「夢の中で1万両の黄金を手に入れるのか、夢を覚まして水を一口飲むのか。」

キム・ナムギル-夢の中でも黄金万両が欲しいという人もいると思います。

ヒャンムン-みんなそうやって暮らしています。世の中の基準から見れば、すべてが黄金万両の時間です。ところが、私の一生が金魚鉢の中だということに気づいて、そこから一歩退くとしたら、このようにお茶を飲むことも価値のある本当の世の中になるでしょう。刺激を受けずに恒常性を維持すること。つまり、どんなに熱いものも、どんなに冷たいものも置いておけば、平均温度に戻るその地点を探さなければなりません。それを私たちのような宗教人や修行者が提示できなければなりません。ちょっと止まって風の音を聞いてみて、鳥の声、水の音が聞こえるように。


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キム・ナムギル-それが一人なら可能だと思いますが、世の中はそうではない場合が多いようです。金魚鉢の中に閉じ込められて死んでいくということも知らないままです。

ヒャンムン-だから極端な話で、体の臓器を1つか2つ取らないと、運良く脱出できないんだそうです。運悪く心臓を取ったら死ぬし、運良く腎臓を取ったら生きるし …。自分で振り向いて止まった人がどれくらいいるでしょうか。病院で死線を越えたり、急に自分の一番大切な人が死んだり、それとも天災地変を経験したり。しかし、それでもまた長続きしません。目が覚めるようですが、いつの間にかその社会の回し車の中に再び戻らなければならないのです。

キム・ナムギル-私たちの人生が回し車のように繰り返されても、どうせならもっと健康に生きていける方法があるでしょうか?

ヒャンムン-私でなくても回し車はよく動きます。我々は季節を通じて少し学んでほしいです。自然には自ら回復して晴れる自浄機能というのが作動するじゃないですか。人も働く時期があれば、必ずその中に休んだり、自分を回復する時期を入れなければなりません。それは時々あるほどいいです。1日24時間のうちの何分、一週間に何時間、1ヶ月に何日っていうふうに。
それで、その地点が自分の慰めになって、何かの目的地になって感謝

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できる時間が与えられれば、自浄機能がうまく作動します。
まるで「感情付加価値税」のように働いた時間の分だけ午前0時の期間を入れて回復しなければなりません。ただし、人為的ではなく、自発的で純粋で真実に …。でも、簡単なことではないですよね。自らバランスを維持することが重要で、また自分自身を大切にしなければなりません。他人が聞くには利己的に感じられるかもしれませんが、結局、人生のバランスを維持してこそ長続きするのです。バランスが取れないと、自分の体が痛くなったり、何か起こったときに人のせいにしたり、怒ったりするのですが、これが潜在的な表現なんです。そしてバランスの崩壊状態が来ます。ところが、崩壊した状態で慣れると、大抵のことでは問題視もせず、9回の終わりごろに火山のように爆発します。それでまた縫合して。どれだけ私たちの生活がぼろぼろになり、絆創膏がたくさん貼られているのか気をつけなければなりません。

キム・ナムギル-そうですね。私の「感情付加価値税」は何なのか考えてみなければなりませんね。
それではこの話はここで終わりにして、またご住職の話に戻ります。美黄寺の住職を務める時、多くの僧侶の意思が集まったといいますが、そこには特別な理由があるんでしょうか?

ヒャンムン-そんな質問が出れば、決まって面白くない答えを出します。運がよかったのです(笑)。私があるきっかけで「私の人生はこれだと思う」という使命感を発見し、これが私のものだということが明確になれば、そこで運命を創造するようです。少し難しいかもしれませんが、使命というのはひっくり返った湯のみをすぐに立てることで、運命というのは、この立てられた空の湯のみに何かを満たすことです。

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ここに今、何が入っていますか?使命感がはっきりすると「日射しが込められています。」 と答えることができます。ある意味が生まれるのです。それが使命感から生まれる運命です。ここに日射しが入る時もあり、雨水が入る時もあり、冷たい水が入る時もありますが、この湯のみそのものがひっくり返っている人がこの世で98%です。何かが溢れてこぼれ出てていつも真っ暗です。これをひとまず正すのが使命感であり、それが一丸となればそこで運命を見るのです。実は日射しが入っているというのは見せかけじゃないですか。それでも何か真正性が感じられるじゃないですか。どういうことかわかりますか。あぁ、また話が脇道にそれたね。ハハ。

キム・ナムギル-いいえ。その通りだと思います。

ヒャンムン-美黄寺に来ることになったのは、地に呼ばれ天に呼ばれ仏様に呼ばれて、それに尽きるでしようね、宗教的には。しかし、私は一度も甘い時期を経験したことがありません。もう少し休まなければいけないと思ったら、いつもその次のミッションのように想像できないことが起こります。だから、どこまで行けるか見てみよう、という気持ちで臨みます。

キム・ナムギル-ご住職はテンプルステイをしに来た方によく食べて、よく寝て、トイレにもよく行って、そうすればいいんだよ、何がもっと必要なのかとおっしゃっていますが、実はほとんどそんな風には生きていけないんですよ。これがすべて情緒的欠乏なのではないのかと思いました。では、何に価値を置いたらもっと心が楽になるのでしょうか?


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この湯のみそのものがひっくり返っている人が
この世の中で98%です。
何かが溢れてこぼれ出てていつも真っ暗です。
これをひとまず正すのが使命感であり、
それが一丸となればそこで
運命を見るのです。



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ヒャンムン-仏教の世界観では、息を吐くときに「生まれた」といい、息を吸うときに「死んだ」と言います。これは遂行的側面もありますが、一般の人々もこの意味をよく理解すれば、非常に良い栄養剤になることができます。人々は有形であれ無形であれ、具体的に形成して名称を付けて目的を作り、これが弊害になったりします。苦痛、希望、喜び、悲しみ、孤独、疎外、貧困、葛藤 … すべての感情に名称と形状があります。有形であれ無形であれ、物質であれ精神であれ。
でも、それを細かく砕くのは呼吸の間に己れの生死を考えてみることです。吐いて吸って、生きて死んで、生きて死んで。そうすると私の感情がよく壊れます。このような理論体系が理解できる人は、感情を細かく砕きます。そうすると、そのような感情で私が避けることが減って予防され、その次にそのようなことがなければ内面が深くなります。
人々は不本意ながら判断して分別しているので、様々な感情が爆発してポップコーンのようにはじけるのですが、これはどんなものでも「対象化」したものです。業績、他人、品物、物質、精神、感情をすべて対象化します。対象化させる癖が最近の社会人たちは本当に緻密で執拗に内在しています。それを対象化させずに「自己化」させなければなりません。自己化というのは、本質を見抜いて本質が起こす現象に己れが流されずに常に本質を洞察することです。例えば、水は本質で氷は現象でしょ。水蒸気も海水も雲も現象です。対象化すると仮定すると、霜好きな人は霜に喜び、氷になると残念がり、

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氷と対象化した人は氷のとき喜び、雲になると残念がります。その対象間の幅を少し作っていくのが、自己化することです。本質を失ってこそ、現象からあまり苦しまず、「自分でなければならないだろう」 という算法から抜け出せます。

キム・ナムギル-自己化って、もしかしてこういうものなのでしょうか。私の中心を外部に置いて私を眺めるのではなく、私の中に中心を置いて私と外部を全てながめること …。

ヒャンムン-そうかもしれませんが、自己化はこの外部、内部、二つの地点をすべてなくすことができます。これは究極の志向点です。このようにして自分のものにすれば、私たちだけができる道を探すことができます。
だだ、私だけ行くのではなく、みんなで行くんです。それがそれである利害関係の存続ではなく使命感、ここでさらに深まる運命、その前にやりがい、また様々な感情のトンネルをうまく通りながら自己化するのです。

キム・ナムギル-私の内部と外部、両方の地点を失くすことができなければならないというのが本当に難しいですね。私の本質に気付いて自己化するようになったら、私が望むものから私を守ることができるでしょうか。それなら、叶えられない夢に失望し、挫折することもないと思います。ご住職の若い頃の夢は何でしたか?

ヒャンムン-若い時は二つでしたね。「大統領」と「李舜臣(イ.スンシン)将軍」 !

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でも、最近ワクワクして面白いと思ったことがあります。文化財を扱って展示を企画する仕事でした。博物館、図書館、遺物などを扱うとき、何かちょっと刺激的な感じもあって …しかし陳腐な領域です。ハハハ。実際はちょっと気難しくて頑固でなければならず、几帳面さもなければならない分野なのに、そこに魅力を感じました。そのためか、最近は同じ表現をしても、言葉を選んで整えるのにたくさん悩みます。

キム・ナムギル-お話しされるとき少し感じました。会話の合間合間に使う単語一つ一つに意味を込めて気にされているという感じを受けたんです。

ヒャンムン-しかし、それも分かりました。会話する人の間で周波数が違うと退屈になります。その周波数を合わせるのが重要ですが、私が思うにキム俳優は周波数が多様な人のようです。それが他人と交感する重要な触角なんです。だから人とコミニュケーションするのが楽しいんです。

キム・ナムギル-ご住職も人とコミニュケーションする時に気をつけることがありますか?

ヒャンムン-私はそれとなく、あれ何て言ったか、コンデ(くそじじい)(笑)?コンデにならないようにしよう、という基準がいつもあるのですが、私が自ら自分を見る時は少し陳腐な人にしていくのかなと思います。私はそんなにできないくせに人に強要すること、また私じゃなくても全部できたのに、必ず私のおかげで出来たように強要すること。こういうことはしないで、私もそのように生きるのはやめよう、と。

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なぜなら、この席に座っているには多様な年齢層、多様な職種の人々に会わなければならないからです。ところが話をしていると、聞いた風月が多すぎてほとんど地球を何周も回ってきます。
それで思いました。30分を越えないで、私の話はできるだけしないようにしようと。

キム・ナムギル-そうですか。では、これから仕上げの段階でつまらない質問を一つ差し上げます(笑)。ご住職と美黄寺はどのように記憶されることを願っていますか?

ヒャンムン-つまらない質問なので、つまらなく答えます(笑)。宗教を空に例えると、空気も雲もあり、日射しもあり、雨水もあり、すべてあるのですが、どんなものでもかすめて刻まれるとしても、空や虚空そのものを染めることはできません。だから本質をぼかすことはできないということです。太陽が昇っても空で、雲が散らばっても空はいつも空なのに、宗教が空なら、美黄寺もそのような空であってほしいし、私はその空を通り過ぎる雲だったらと思います。以上、つまらない回答でした。(笑)。

キム・ナムギル-つまらないなんて、もう一つ悟りました(笑)。では、ひょっとしてご住職の話を聞きに来た方から何か悟った経験もおありですか?

ヒャンムン-たくさんの悩みを聞き入れるのです。そうすると、答えは決まっています。

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悩みや葛藤に対する答案は選択肢が多くありません。でも、なぜ話が長くなるかというと、考えが多いからです。考えが10種類なら行動できることは一つか二つしかありません。そして、何度も話して取り出してみると、答えをみつけるのがあまり難しくありません。しかし、話を切り出さないと難しいと感じて、とんでもないことをしてしまいます。悩みを持ち出すと、大したことじゃない、それが適当に大したことないのではなく、本当にたいしたことではありません。その事実を会話しながらたくさんたくさん学びます。たぶん同じ悩みをする私のどんな自我も私の中に存在すると思います。しかし、人々がその問題を持ってくると、私が間接的な経験をして、私はその問題を解決したので、私の実体の本来の自我がこれを経験せずに乗り越えるのです。そんな私は自己フィルタリングがあるようです、正直に。だから、美黄寺は虚空のような宗教の空で、私はもうしばらく雲のように歩いていく旅人です。

キム・ナムギル-つまらないことだ。雲だよ。そのうち、この旅人もお寺に休みにきますよ(笑)。