〈CUP vol.2〉その11

俳優 キム・ナムギルの
対話集 後:) 談話





p.138


日の出と夕焼けの風景の中
「ヒャンムン僧侶」が滞在する村

海南(ヘナム)


美黄寺(ミファンサ)から眺めた南海(ナムヘ)





p.140

美黄寺の小川に咲いた野生の花

p.141

美黄寺のきれいな湧水




p.142

屏風のように広がるダルマ山の岩々

p.143

穏やかな海と調和した最果て村の夕暮れの風景

p.144

その道の終わりは
終わりではない
もう一つの出発点、
始まりと終わりが
一つの人生



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・・・    朝鮮半島最南端の海南(ハナン)は、東アジア3国の海洋文化の要衝地であり、ユーラシアに向かう出発点でもある。海南からソウルまでは千里の道だ。そこから道(ハムギョンプクド)穏城(オンソン)まで2.000里、そうして韓半島を指して「三千里錦繡江山(サムチョルリ クムスガンサン)」と呼んだ。

海南は美黄寺(ミファンサ)からクンパラム峠とノジランゴルなどを通り、達磨山の主稜線を合わせた17.74㎞ の達磨古道トゥルレキル(周回道)が有名だ。1.300年の古刹、美黄寺の昔の12の庵をつなぐ巡礼コースで、中国禅宗を創始した達磨大師の法身が常駐するという信仰の中で、先人たちが歩いていたという旧道を復元した道だ。
達磨山は海抜489mで高くはないが、山勢が雄大で昔から南の金剛山(クムガンサン)と呼ばれた。

また頭輪山(トゥリュンサン)一帯に千年古刹の大興寺と北庵、一枝庵、聖宝博物館などがあり、地の果ての千年森の旧道に出会うことができる。ここ海南で様々な道を歩いていると、その道の終わりは終わりではなく、始まりに変わる。人生は前に行くだけではないということを知らせるように、日が昇って日が沈む夕暮れの風景に向き合い、また別の人生の姿勢を学ぶことになる。


p.147

どんな心で
生きるのか
終わりは始まりと同じだという
海南 美黄寺 「ヒャンムン僧侶」



p.148

「初心に戻って
再び行者のように生きなければならない。」
40歳を過ぎたばかりの若い僧侶にとって
地の果てにある美黄寺の住職の席は
重かったが、これもやはり運命として
受け入れた修行者にとって「終りは
すなわち始まり」だ。どんな心で
生きていけば平安を得ることができるだろうか。
しきりに尾を引く俗世の
煩悩に対する彼の賢答を
聞く。


ヒャンムン


p.150
ヒャンムン-最初にこの苦しみの始まりを誰が開いたんですか?ハハハ。

キム・ナムギル-ハハハ。実は私が知りたいことも多く、気になることも多いんです。人生の智恵を悟った方々に会って話を交わしてみたかったんです。10年前から文化芸術NGO「ギルストーリー」を作って活動していますが、今回はMBC〈何でも残そう〉放送で収められなかった話を本にしてみようとしました。この本を売って医療脆弱地域の高齢者のための後援金に加える計画です。

ヒャンムン-あぁ、そうなんですね。俳優にNGOにすごく忙しいですね。私も明日はサッカー大会があります。海南郡庁と警察署、消防署、僧侶たちの 4チームが公式に大会を開くんですが、明日が一回目です。警察署、消防署、郡庁はすべて選出(選手出身)たちが出てくるが、うちの僧侶たちは3年前から競技する度に5対0、7対0 … 。それで今回は傭兵も要請しました。ハハハ。

キム・ナムギル-サッカー大会にも出るんですね。たくさん頑張らないといけませんね。ハハハ。

ヒャンムン-最近のお坊さんたちもバラエティーです(笑)。大きなお寺は公共のお寺なので、様々なことを経験します。サッカー大会もその一つです。ギルストーリーもよい趣旨で始めたものですから、一つに限らず、もっと楽しくあれこれ試してみてください。突拍子もないこともしてみて、これと

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あれを混ぜてみて、話にならないことでも、それがまたむしろ大衆に特別に近づくことができるのですから。最近は何十部作のドラマより数秒のショートの再生回数が多いじゃないですか。

キム・ナムギル-本当によくご存じですね(笑)。ショートもよく見ますか?

ヒャンムン- もちろんです。知って見ることと知らないで見ること、知って見ないことと知らずに見ないことには大きな違いがあります。

キム・ナムギル-なるほど。お坊様たちがメディアを見ないようだというのは偏見ですね。普通、俗世を抜け出して悟りを得る人生を生きるために法名をつくるじゃないですか。法名が「ヒャンムン」ですが、どんな意味があるんですか?

ヒャンムン-あぁ、私は幼いころ、光州の香林寺に送られました。その寺の名の「향 (香)」、そして「良い門中になるように努力しなさい」という意味を込めて향문(ヒャンムン)とされています。私の名前だといいます。大人の僧侶たちから聞いた私の漢字の意味を見ると、「향(香)」という字は木の首の上に払いがあり、日を書くのですが、日というのは「毎日」という意味があって、「毎日木の枝に集まってくる鳥のように、いつも良い出会いが続く」という意味が込められているそうです。

キム・ナムギル-そこで、その意味と人生が同じだとすれば、そのように生まれる運命だったんだと思ったかも知れませんね。


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ヒャンムン-そのように受け入れるまで時間が長くかかりました。そして、一番上の僧侶の本貫が咸平(ハンピョン) 李氏なので、私の名字もそのように真似て書き、名前はヒャンムンで、幼い頃から「イ・ヒャンムン」として暮らしていましたが、高校2年生の時に正式に髪を剃って僧侶になり、自然にその2文字をそのまま使うようになりました。ずっとお寺で暮らしていたので、別に法名をもらう必要はありませんでした。

キム・ナムギル-放送で「私を苦しめる人を貴人として受け入れなさい。」というお話もされたじゃないですか。7歳の幼い年にお寺にいらっしゃって、あまりにも大変なこともたくさん経験されたので、そのような話をされたのではないかと思いました。

ヒャンムン-幼い頃、辛かった心は本当に幼少期の経験です。私を苦しめる人を貴人として受け入れろという話は約20年後に、大変な時間の旅路を振り返りながら言える言葉でした。
私たちが生きていく中で「境界」というものを経験することになるのですが、その境界には私に順風のような「順境界」があり、私をとても難しくする「逆境界」があります。
私の旅は逆境の時代の方がもっと多かったです。振り返ってみると、私の幼少期じゃなくてまるで前世のような …。かろうじて生き残ったんです。情緒的に渦巻く様々な感情や考えの中で良い大人たちにも出会い、それなりにとんでもない考えもたくさんしたんです。「みんな死ぬんだね。死んだらどうなるんだろう?」という。

キム・ナムギル-ところで、最近の10代もそういうことをよく考えているようです。

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悩みの質や方法では違いますが。それでお坊様は勝ち抜いて、気運を受け入れる過程まで来られたのですが、最近の若者たちは、実際よく耐えられず、間違った選択をしたりもします。

ヒャンムン-絶対にしてはいけないことが比較することです。過去と現在、大人になった今と現在の子供たち、他人と自分までです。みんなじっとしとけばみんな1位なのに、その1位を集めて順位をつけます。

キム・ナムギル-比較は人間の本性のようです。ある意味優越感も不安から出てくるようです。不安を鎮めるために人と比較するしかないし … 。

ヒャンムン-比較自体をしないわけにはいきませんが、ストレスというのでしょうか?それが医学用語を借りると病気や疾患のように感じますが、音楽用語としては強調するという意味でも使われるそうです。それをどう解釈するかによってストレスになるじゃないですか。気を引き締めて良い素材を発掘して新しいことを把握したりもしますが、そのような源泉自体を選別する能力が落ちるので、誤って組み合わせると非常に良くない方向に陥りやすく、両極的な姿があるようです。

キム・ナムギル-お坊様は幼い時点を「逆境」だったと表現しましたが、具体的にどんな大変さがありましたか?


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━━━━━

刺激を受けずに恒常性を
維持すること。
つまり、どんなに熱いものも、
どんなに冷たいものも置いておけば
平均温度に戻るその地点を
探さなければなりません。



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1300年の古刹 美黄寺

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ヒャンムン-親の情というものを感じたことがないから、幼年期には欠乏があったし、それがお寺で団体生活をしながら、多分もっと大きくなったと思います。交感というのは非常に重要じゃないですか。赤ちゃんが泣いていても、お母さんの心臓の音を聞くと安定を取り戻し、子供の勉強を望むなら親が勉強する姿を見せて、そんな平凡ですが関係の中でつながる感情です。ところが、私の部屋では木鐸の音が近くに聞こえ、9歳の時から念仏を覚えて祈り、僧侶たちに漢字を習って、こういうことが世の中との乖離感(かいりかん)として迫ってきたのです。

キム・ナムギル-でも、その大変さを乗り越えて博士にまでなったじゃないですか。

ヒャンムン-それは、俗世においても意味があるんです。学問そのものをあまねく知らなければならないのに、あまねくどころか固執ばかりできては(笑) …。私が学位を取った理由は、海南大興寺が行政的に一つの地域の本寺に該当します。その本寺で大韓仏教曹渓宗の大きな寺院の中に所属している末寺があります。美黄寺が4年ごとに行う高察で、大興寺の末寺です。私は大興寺門中所属です。壬辰倭乱のとき、僧侶の身分にもかかわらず僧兵として大活躍した西山大師(ソサンテサ)という方がいらっしゃいました。
その方の衣鉢と舎利を含む遺訓がここ大興寺に伝わり、朝鮮中期以降、韓国仏教を代表する地位を持つようになりました。私は大興寺所属の僧侶として、その方を宣揚しようと勉強し、資料を整理しながら突然学位論文まで準備することになりました。


p.159
キム・ナムギル-ありがたい方々も多かったと思います。先生や僧侶様方、このような方々が両親の役割もしてくれて、友達の役割もしていたと思います。

ヒャンムン-そうです。私を専担して育ててくれて、勉強させてくれた方もいましたし、また、地域の信協で知らず知らずのうちに助けてくれた方もいらっしゃいますし、すべての名前を列挙するのが難しいほど、私の息がごくりごくりするごとに、度々そのような水滴のような貴人たちが現れたようです。

キム・ナムギル-「竹馬の友」のような方もいらっしゃいましたか?

ヒャンムン-ありますね。三銃士がいましたが、今はみんな僧侶です。7歳の時から一緒に住んでいました。一人は漫画家のクォン・カヤ先生を慕って、本人も漫画家になろうと、今はウェブトゥーンを描きながら、釜山で僧侶生活をしていて。
また、もう一人は道を悟らなければならないと言って山の中に入って3年を生きて出てきて、今は大興寺の大きな場所にある一枝庵にいます。実はその友達が本当に面白いんです。私は平凡なほうで、ハハハ。

キム・ナムギル-友達も尋常ではないですね。友達に会うと分別のないあの時代に戻ったりするじゃないですか。僧侶様も友達に会うと幼い頃に戻るんですか?


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ヒャンムン-心が戻る時もあり、またその心を大事にしておく時もあります。あまりにも人生が多彩だったので、また同じ時期に一緒に出家せずに自分だけの分野に陥っていた期間があるので、その時代をよく大事にしてお互いに尊重してくれるのがいいです。人と人の間にはすべて島があります。自分の島に足をよく置いて、ただ行ったりきたりすればいいんです。同じ島で過ごすことはできません。実はその当時、同年代が8人いたのですが、幽冥界を異にした(死別した) 友達もいて、見つけにくい友達もいれば、結婚した人もいて、人生は様々です。そのうち3人が出家しました。

キム・ナムギル-人と人の間に適度な距離を置いた方がいいということですね?では、生きていれば誘惑も多いはずなのに、そんなことはどう向き合っていますか?

ヒャンムン-誘惑の強さが弱いからお寺に住むんです。誘惑は弱いが何か一つだけ爆発すればこれは間違っている、祈ろう、百八礼をあげなければ、もっと奥深いお寺に行かなければならない。そのため、それがそれなりの免疫システムになり、また、大人たちの教えと世の中の方々とのコミニュケーションの中での間接的なアドバイスが予防するフェンスになったようです。人生の九九が早く作動するようです。

キム・ナムギル-最近は誘惑される状況も多くなり、誘惑をどうやって乗り越えればいいのかわからない人も多いような気がします。