〈CUP vol.2〉その4

俳優 キム・ナムギルの
対話集 後:) 談話


p.50


作家「チョン・ジア」、登山家「パク・ジョンホン」、詩人「イ・ウォンギュ」
彼らが生きる人生の姿と似ている場所
智異山(チリサン)

江(ソムジンガン)アユ村(ウノマウル)まえの連谷川(ヨンゴクチョン)


p.52
求礼(クレ)艮田面(カンジョンミョン)から眺めた智異山の絶景

p.53
求礼(クレ)陽川里(ヤンチョンリ)前を流れる渓谷



p.54
江(ソムジンガン)沿いの河東(ハドン)から求礼(クレ)に行く村の街角で

p.55
江(ソムジンガン)沿いの小さな漁船


p.56

母のように
人々を抱く山
その下に寄りかかって
暮らす人々



p.57
・・・   智異山(チリサン)は韓国初の国立公園であり創造神「マゴハルミ」神話が伝わる韓民族の霊山として「母の山」と呼ばれる。数多くの伝説と歴史の場となり、「雪岳派」、「智異派」という言葉があるほどマニア層も厚い。また、その山の下に寄りかかって暮らす人々も数えきれないほど多い。

江(ソムジンガン)の流れに沿って美しい花々が広がり、くねくねと曲がる淵その先の古刹、季節ごとに変化に富んだ智異山の変奏には終わりがない。周辺の村は「花開市場(ファゲジャント)」の歌詞のように全羅道(チョルラド)と慶尚道(キョンサンド)が接して隣接しているところで、河東(ハドン)と求礼(クレ)は情緒、言葉遣い、風習までまるで兄弟のように似ている。

また、山の中でも智異山は平野が多く、食べ物が豊富で、昔、盗賊や逃避、隠とんする人が多く隠れていたという。それで、谷ごとに人々が入り込んでここには秘められた人々の足跡と人生に対する話がいっぱいだ。
山ではなく故郷が喜ぶような、いつも人々を暖かくほぐしてくれるような「母の山」。美しい自然と歴史、人々の日常まで網羅する「智異山の懐」は、どんな物語を抱いているのだろうか。




挫折と傷から
脱け出したいあなたに
:
偏見に対抗して
世の中と和解するだろう、
作家「チョン・ジア」


p.60
2022年9月、32年ぶりの新作
〈父の解放日誌〉に戻ってきた
作家 チョン・ジア。パルチザン出身の
報道を掲載した彼女は1990年のデビュー作
〈パルチザンの娘〉で全身に
力を込めて理念と闘争に
ついて記録した。そして今は
ペンの力を抜いて「人」に対する
話を書く。父を
理解し 世の中と和解することが
苦しくてつらかった人生。
偏見に立ち向かわなければならなかった至難な
歳月は 今やどんな意味で
残ったのだろうか。


チョン・ジア



p.62
キム・ナムギル-本をどのように構想し、どのように書いて
このような質問はうんざりでしょう(笑)?私は他の話を一度してみようと思います。MBC〈なんでも残そう〉ドキュメンタリーで作家さんは偏見に関して何度も言及されましたが、最近、人々があまりにもたくさん争うじゃないですか。世代間の偏見と偏向に対する作家さんの考えを聞いてみたかったです。

チョン・ジア-う~ん… 質問が新鮮ですね。でも、難しいね(笑)。偏見があるから偏向が生じるだろうし、また偏向があるから味方に分けるようになるようですが。偏見というのも色々な種類があると思います。
しかし私がドキュメンタリーで言及したのは、「私が選択しなかったことによって、他の人々が偏見で眺めること」に対する話でした。例えば「顔がブサイクだ」、「太っている」というようなものなんです。実は太っているのも結構遺伝子の働きが大きいんですよ。体の管理を手から離して太る人もいるんですが、それも考えてみると前に何かがあったんじゃないんですか。でも前後を見ようとしないようです。誰かが嘘をつつくと「嘘つき」といいますが、その人もただ嘘をつくことはないと思います。例えば「お前のお母さん何してるんだ?」と聞くが、うちのお母さんは工場に通ってる。でも他のお母さんたちは弁護士や医者だ。そんな時、「うちのお母さんは学校の先生だよ」と言いたいでしょう。それが嘘になるんだけど、実は。しかし韓国社会はあまりにも画一的です。金持ちが最高の大学を出なければならず、きれいでなければならず、その基準に及ばない人を、彼らの苦痛を覗き見ようとしません。とにかく貧しいと子供たちが非難されるじゃないですか。親を選んで生まれるわけでもないのにです。そうすると、子供たちは親を非難するのです。お金もないのに子どもを産むと。韓国社会があまりにも貧困を非難するので、子供が親を非難する結果が出るのです。貧しい家の子供たちとは一緒に遊ぶこともできないようにして。民営アパートと住公、賃貸アパートを分けて。このように画一的な基準を強要するために生じたことだという気がします。これからはそのような価値基準をちょっと変えなければならないのではないでしょうか。
なぜそのように画一的になったのかを考えてみれば、私たちは民主主義の歴史が短いです。西欧は数百年に渡ってその価値を作ってきましたが、私たちはわずか100年にもなりませんから。もう一つは後発走者として資本主義宗主国に早く追いつこうとする時、封建的マインドや画一的価値を唱えることが力を集めやすいじゃないですか。お金集めとかするときもそうだし。画一主義が肯定的に表れたのがお金集め、2002年のワールドカップの場合ですね。否定的な場合も多いですよね。
多様な価値を認めないこと。これが組分けと偏見の気持ちではないでしょうか?私たちがあまりにも早く金持ちになろうと、豊かに暮らす国になろうとあくせくしました。他のことは振り返らず、物質的な不満を追求してきた結果だと思います。

キム・ナムギル-そういう結果物がSNSやYouTubeなどを見ると、たくさん出てくる気がします。見せるための人生に慣れているように見えます。私もそうなんですが、

p.64
俳優職業のために仕方がない部分があるんですよ。でも、作家さんも有名人じゃないですか。私たちのような人を誰かが公人だと言いますが、私はその言葉を聞くとカッとなるんですよ。そんなとき、「私たちは公人ではない。有名人だよ。」そうですよね。韓国は有名人に対する物差しが厳しすぎるというか?やや少し厳しいと思います。
ところが、その理由が物質的な富と関連があるようです。有名人は貧しくないと思うんじゃないですか。でも貧困というのは相対的なものなんです。芸能人はみんな家もあるし、建物もあると思うでしょう。でも私にはまだ、自分の名義の家がありません。
とにかく、有名人に相対的な剥奪感を感じながらも、厳しい物差しを突きつけたりするじゃないですか。作家さんもうんと知られてから、周りの視線が変わったことを感じたことはありますか?また、人々が有名人になぜこのように異なる物差しを適用するのか考えたことがあるのか気になります。

チョン・ジア-私の場合は芸能人が話題になっても、「芸能人にいったい何を期待するの。エンターテイナーで演技をうまくやればいいんだ!」と思います。暴力や盗みをしない限り、何をそこまで。そして、芸術というものは自由でなければならないのですが、ああやって枠のなかに閉じ込めてしまえば道徳的演技だけするのか?こんなことを考えたことはあります。
これにはいくつかの理由があるようですが、一つ目は先ほども言いましたが、自由民主主義の歴史が短すぎる。個人が自分の思い通りに人生を生きるようになったばかりなんです。朝鮮時代までは生まれつきの身分があって

p.65
そのバウンダリー(境界)の中で生きるしかないんですよね。奴婢は奴婢で、両班は両班で、王は天から授かった人で、そんなマインド。個人が人生を生きていく主体として登場し始めたのが西欧の近代資本主義以後に可能になったんだって、西欧は数百年の時間がかかってそんな心を持つようになったから自由じゃないですか。ハリウッドのようなところ、ヨーロッパはもっと自由です。ハリウッド進出に成功したオランダ出身の俳優がいます。その俳優が休暇は毎年オランダに行くのは誰も知ったような態度をしないからだそうです。国民俳優のときもそうだったと。市民インタビューをしたら「あの子も人間じゃないか。ここに俳優として仕事に来たのではなく、休みに来たのに私たちが知ったような態度をしてどうするの。」 このように個人の私的生活を認めて、そこに入らないようにする認識自体が違います。これが西欧資本主義による政治体制、民主主義の肯定的な面ですね。
ところが、私たちはまだ自分を主体として考える力がはるかに弱いと思います。だから、しきりに「名声」を持った者たちに左右されるのです。そして、私たちの社会はお金さえよく稼げば大抵理解します。隠すことさえできれば、明らかにならなければ、許します。これも、民主意識の未成熟が招いた結果だと思うのですが、特にそれが芸能人にもっと強く表れています。
顔が綺麗なので、時々、広告で稼いで、数年ぶりにビルを買って。こんな人たちにとても憧れますが、そういう人たちが少しでもミスをすると、憧れが非難に変わるんです。簡単に稼いだからそれだけ重い責任を負わなければならないという気持ちではないでしょうか?そうしてこそ、そのように稼げない自分の境遇に

p.66
耐えることができますから。普通の人は一生享受できないものを享受した者に対しては、はるかに苛酷な物差しを突きつける大衆の心がそうなのではないかと思います。

キム・ナムギル-そんな、すでに準備しなければならないのに…。ところで作家さん、最近MZ世代に人気が高いんですよね。今回出た本のおかげだと聞きましたが、秘訣はありますか?私も今回の本がよく売れないといけないので。ハハハ。

チョン・ジア-〈父の解放日誌〉のためだと思います。真剣な話をちょっとユーモラスに書いたのが功を奏したのではないでしょうか?

キム・ナムギル-それが最近のコードではあります。本当に重要です。私は子供たちに「座って。」ってから真面目な話をするタイプなんです。

チョン・ジア-私もそうやって怒りました。文芸創作科で弟子たちと話していたら、学生たちが私の本を読んでいないことがわかりました。それで気分が悪くなりました。いや、もちろん私が読めとは言わなかったけど、でもそれは私の品位を維持するために話さないのであって、読むなという意味ではないじゃないですか。「読んでくれるのが礼儀じゃないの?私なら親しい先生の本は全部読むのに」と思いました。
「あなたたち、ひどくない。私がおごった酒と飯がいくらだと!」て言ったら 「あぁ、つまんないんです。」って、言うんですよ。とても真面目だそうです。私の本が。なんでもかんでも

p.67

━━━

上手く書くことがなんだ。
こんなふうに思った。
ただ人として豊かに暮らせばいい。


p.69
真正性・・・うんざりするから、真正性のない小説を書いてほしいそうです。
それで「小説自体が真正性を追求するものなのに、真正性がなければそれは小説なの?」と聞いたら「アラモン(あ~知らない)」だって。弟子たちが先生のは難しくて、とても真面目で、硬くて嫌だと。それで私たちも読める小説を書いてくれといいます。
それで何年間かは文句をいったんですよ。「君たちの首の上に載せてるものは装飾品か。」と。でもそれから2、3年は経ってるから「あっ、私が年寄りなんだ」この考えが年をとってるんですよね。このままだと今の世代と疎通できず、この時代を生きていく子供たちにそっぽをむかれる。小説に「60 only」と書くこともできないし。お年寄りはみんな自分が正しいと思うんです。
でもそれは、自分の時代の自分の経験だし。この時代の経験は違うと思うけど。それで、「あの枠はなんでもアラモン(あ~知らない)なのか」「なぜ世界観は必要なく、真剣なのはいやなのか」 こういうことを理解してみようと努力をたくさんしました。本はその結果物で。

キム・ナムギル-では、どんな努力をされたんでしょうか?

チョン・ジア-まず「なぜたろう」と思いました。最初は「いったい君たちどうしたんだ」と言って演説をしたとしたら、「なんでそう思うんだ」、「小、中、高校の時、どんな本を読んで大きくなったのか」、「どうして読まなかったの」 こんな風に子供たちを知って行こうと努力しました。知れば理解することになるんですよ。