小さい頃はきゅうりが嫌いでした。
そんな子どもは日本中にごまんといるでしょうし、珍しいことではないと思いますが、私がきゅうりを嫌いになった理由は少々特殊で、今でも忘れられない記憶となっております。(いま思い出しただけでも、少しきゅうりが嫌いになりました)
少々長い昔話になりますが、お時間のある方はどうぞお付き合いくださいませ。
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私が小学4年生のころ、二週間ばかり家族と離れて暮らす時期がありました。
父は長期の出張、兄は肺炎で入院、母は弟を連れて病院に泊り込みで付き添い、といった感じで、私の初めてのおひとりさま生活は、突然やってきました。
といっても特に寂しかったわけではなく、【ゲームは土曜日に30分しかやってはいけない】という木村家の鉄の掟を堂々と破れるなんて、なんて素晴らしい日々だ! ぐらいにしか思っていませんでした。
小さい頃から身の回りのことはしつけられてたため、ひとりでも特に困ることもありませんでした。この頃には料理も自分で作り始めていて、マヨネーズハムウインナーチャーハンという、当時の自分の好きなものをただ詰め込んだだけのジャンクフードを量産していた記憶もあります。
しかし今回のケースは両親が長期不在で食材もないため、食事は隣の山田さんちでご馳走になりなさい、という指示が出ました。お隣さんといっても、うちは父親の仕事の関係で引越してきたばかりで、面識を持ってからまだ2ヶ月くらいしかたっていなかったと思います。
少し居心地が悪いな、と思いながらも、毎食お世話になるので、礼儀正しく過ごしていました。
「けんちゃんは何が好きなの?」
「カレー!」
「じゃあ今夜はカレーね!」
といった会話をしたことを覚えております。カレーというのは家によって味が違うので、子どもながらに、他の人の家で食べるカレーは新鮮味があって、とても楽しみでした。
そして、初めての夕食。
初めて見るカレーが出てきました。
その時の気持ちは、いまでは正確に思い出せません。思い出すには少々時間が経ちすぎています。もう20年も前のことですから。ただ、間違いないことがひとつだけあります。
カレーにきゅうりが乗っていました。
脳内に写真が投影される、という表現が正しいかはわかりませんが、それぐらい鮮明に思い出せます。そしてもうひとつ確実なことがあります。
きゅうりは、2本乗っていました。
とても青々しい、新鮮なきゅうりです。それは、黄金色のカレーに堂々と乗っかっていました。
「さあお食べ」
という号令が、地獄へいざなう悪魔の言葉のように、幼い木村少年にのしかかってきました。
私は食べました。食べ切りました。お残しは、許しまへんで!と育てられてきた私に「食べ残す」という選択はありませんでした。
「どう?美味しかった?」
その問いは、フェルマーの最終定理よりも困難な問いかけでしたが、言葉を飲み込むよりも早く新鮮なきゅうりを飲み込んで
「美味しかった!」
と答えました。とにかく、一刻も早くこの食事を終えないと、と思っていました。新鮮なきゅうりがスパイシーなカレー味と混ざりあう新世界の味を、一体どう表現できましょうか。今でも私は答えられません。
そして次の日の夜。
きゅうりカレーが登場しました。
その絶望は、今でもはっきりと覚えています。なぜなら、もっと恐ろしい出来事が発生したからです。
きゅうりが、3本乗っていたのです。
はたから見ると、きゅうりが1.5倍になっただけですが、その絶望は単純に比例するものではありません。幼かった私は震える手でスプーンを握りしめていました。
「さあお食べ」
その号令は、終末を告げるラッパのように、私の脳内に響き渡りました。
このとき私が言った「いただきます」は
「父さん、母さん、短い間だったけど、ありがとうございました。お先にいかせていただきます」
という言葉と同義だったと思います。
私は食べました。食べ切りました。お残しは、許しまへんで!と育てられてきた私に「食べ残す」という選択はありませんでした。
「どう?美味しかった?」
その問いは、ケプラー予想よりも困難な問いかけでしたが、言葉を飲み込むよりも早く3本のきゅうりを飲み込んで
「美味しかった!」
と答えました。その時、私はどんな顔をしていたのでしょうか。
笑っていたのでしょうか。
それとも泣いていたのでしょう。
今となっては、もうわかりません。
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◼︎秋のきゅうり祭り
きゅうり 2本
★ごまきゅう
ごま油 大1
ごま 適量
塩 小1
★うめきゅう
梅干し 2個
鰹節 適量
★みそきゅう
麹味噌 適量
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スプーンでくくり抜き
そんな感じで過ごした隣の山田さんちの体験は、私をきゅうり嫌いにさせるには十分でした。
最近ではきゅうりをおしゃれに調理してカレーと合わせる料理もあるようですが、そんなイケてるものではありません。
みずみずしい、きゅうり。
スパイシーな、カレー。
よく、「味が喧嘩する」という表現がありますが、そんなチャチなものでは断じてございません。私の中では「味のトロイア戦争」と言っても良いほど、両者の闘いは熾烈でした。
あれから20年、いま私はきゅうりが嫌いではありません。むしろ好きなほうかもしれません。
しかし時々想像してしまうのです。
私の頭の中でマクスウェルの悪魔となってしまったきゅうりが「おれ、カレーに乗っちゃう? 乗っちゃう?」と不敵に笑かけてくる姿を。
これは、私が一生背負い続ける「業」なのでしょう。
もうずっと会っていない山田さん。もしまた会える日が来たら私はためらわずに言います。
カレーには
きゅうりを乗せては
いけません!
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