【第1章 第8話】嘉音
嘉音はリハビリテーションセンターで膝関節の整形外科医として働いていた。医療関係の仕事は適性検査を受け、長期の専門教育を受けなければならない。身体的や精神的負担が大きいことから一時は志望者が減っていたが、最近は多いという。
病気の診断や治療方針提示は診断補助装置がしてくれる。主に予防的な医療を、医師、看護師、検査技師、カンセラーなど医療チームが分担して行うようになっている。
嘉音は、母、父、姉と同居していた。とはいっても同じ建物の中での個室生活で、みんな生活パターンは異なり一緒に食事する機会は滅多になかった。テニスをしたり、旅先で絵を描いたりもしていたが、最近は医学研究に没頭することが多かった。毎日30分の自転車通勤を愉しんでいる。嘉音には特定の相手はおらず、性的関係をもったことはなかった。
ヒトは、いつから性的関係をあまりもたなくなったのだろう。いまでも男女間、同性間で性的関係を頻繁にもつヒトもいるが、性的な満足感をマスタベーションによって得ているヒトが大半である。マスタベーションのための視覚的、触覚的なツールが多く開発され、相手に気兼ねしなくてよいことからも広まった。性感染症は既に克服されており、このために関係がもたれなくなったわけではない。また、人工授精や体外受精は性的関係をもたない生殖を可能にしている。
必ずしも生殖を前提としないヒトの性的関係は、狩猟社会、農耕社会、産業社会、情報社会、そして現代社会にと社会変革に伴って大きく変化してきた。狩猟社会における移動生活から農耕社会では貯蔵文化で定住化し、一夫一婦制で子どもを育てるようになった。腕力が必要とされ、また権力機構も生まれた。
権力者にとって都合がよいようにされながらも、
一夫一婦制は情報社会まで長く維持されていた。いまでは腕力が必要とされることはなく、女性は経済的にも完全に独立し、男性に依存しなければならないことは何もない。性的関係においても男女の関係は平等である。特定の相手を互いに決めることも自由にできるが、性的関係をもつこと自体が敬遠されるようになった。(つづく)