澤田美喜氏。
岩崎弥太郎の孫にして、威厳と慈愛に満ち満ちた心優しき女傑。

まにあ管理人別宅


1948年、沢田さんは岩崎家が国に物納した大磯の別荘を400万円(当時の大金)で買い戻し、
混血孤児たちの施設「エリザベスサンダーズ・ホーム」を創立しました。
今の若い人などは「ふーん、三菱のお嬢様がボランティアごっこね」なんて言いかねないので
軽く説明します。
あっでも、面倒くさいので、やっぱ各自で検索ください→戦後の財閥解体

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岩崎家のお嬢様とはいえ、そういう時代背景ですから財源は乏しく、
実際、自分の持ち物を処分したり多くの人たちから膨大な借金をしたり、
教会を中心とした人脈から寄付を集めたりしてお金を工面したという事実に驚かれる方も多いでしょう。
そしてこの施設には、最初に寄付(遺産として)をしてくれた英国人女性エリザベス・サンダースの名が掲げられることになりました。※昨今話題の鳩山ママのように潤沢な資金があった訳ではなかったのです。
(ついでに言えば鳩山ママは己の息子可愛さだけ)

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今でもそうですが、
当時の日本においては混血孤児たちに対する謂れのない偏見やきわめて厳しい差別がありました。
市井から向けられる相次ぐ罵声、心ない中傷、批難、暴力。
それは、孤児だけでなく沢田さん自身にも向けられ、
日本政府やGHQからの迫害も相当なものだったようです。
そのような中にあって尚、述べ2000人以上の孤児たちを守り育てあげていったのです。

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外交官(廉三氏)の夫とともに世界各地で華やかに過ごしてきた澤田さんは、
ロンドン滞在時に「ドクター・バナードス・ホーム」施設を見学したことで孤児救済活動に目覚めます。
終戦を迎えGHQ支配下の日本では、多くの孤児が生まれ捨てられるような状況で、
帰国して間もないある日に澤田さんが乗車していた汽車の網棚から
風呂敷に包まれた黒い肌の嬰児の死体が膝の上に落ちてきました。
大きなショックを受けた澤田さんは、この衝撃を孤児救済を「天命」と捉えたのでした。

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「私の旅……それは、この子どもたちのために、誰からも何も言われない国、いやな見つめる目のない国、そして、大手を振って歩ける国を求めて歩く……これが私の旅になりました」
1980年78才。スペインのマジョルカ島没。



こっから、独り言

私は今、沢田さんが天命を受けた年と同じ46歳です。
自分のことばかり、家族のことばかり考えて日々暮らしている多くの皆さん同様、
人間として、女として、本当に恥ずかしい限りです。
唯一胸を張って言えますのは、私には人種偏見が無い事。
これは欠点だらけの私の中で数少ないジマンかも知れませんが、
音楽がもたらしてくれた最高の恩恵の一つと断言します。