このブログは引き続き着付師・モモが、着物に関することなどを記録することにいたしましたキラキラ

 

季刊 きもの(繊研新聞) 73号P208 ― 山村靖の世界

『遠い先祖の人びとが辛い生活にもめげず、知恵を出し合って作り出した布には、生きるための強い執念と逞しさがあった。

技術的には未熟だが、素直で、素朴さにあふれ、大きな自然と小さな人間がしっかり結びつき、調和して生み出される煌めく美があった。

 

きものさえ使い捨てにされることに懐疑した。

粗雑になり、失ってはならない暖かさえ消えていくことが淋しく虚しかった。

このままでは織物は駄目になる。

ぬくもりこそ織物の生命だから。

心をとりもどさなくてはならない。』

 

私は23歳で着物にときめき、勉強を始めた。

そして、着物のことを知れば知るほど、現代の着物の在り方に対して疑問を感じ、違和感をずっと抱き続けてきた。

たしかに着物姿は美しい。それは美しく模様が描かれた高級な布自体がもつ美しさ、それを着用した人のシルエット・・・着物がもつ”様式美”、によるところが大きいだろう。

いわゆる「見た目の美しさ」だ。

 

一方で「目に見えない美しさ、美意識」については薄れていくばかりだと感じる。

・・・魂の抜け落ちた着物文化

 

以前、あるご年配の方の着物の講義を拝聴したことがある。

雑誌『美しいキモノ』が発刊されたとき、「あぁ、着物は”美しいモノ”になってしまった・・・」と大きく嘆いたそうだ。

それは日常着、普段着としての着物が消えていくことを意味する。

普段着向きの織物が廃れていく、といったこともあるだろう。

また、着物とともに生活していた時代・・・人々は着物を自分で着たり、人に着せたり、縫ったり、手入れしたり、作り替えたりといった技術があった。汚れたら洗い張りをして、傷んだ部分を見えない場所に置き換えて作り替えたりといった、布を大切にする心もあった。どんなに貧しくても、見えるところには一番きれいな布を使ったりと、女性は懸命におしゃれをした。そういった心の文化が失われていく、ということもあるだろう。

彼女はずっと着物とともに生きてきたから、着物の魂がまた一つ失われていくことを深く感じ取ったのだろう。

 

『着物は美しいモノになってしまった』・・・・この言葉が忘れられない。