その偉大な大打者の身長は、およそ168cm。
プロ野球界に置いては小兵と言われるサイズでした。

しかし、そんな彼が目一杯長く握りしめるのは1kgの大ハンマーみたいな特大バット。
オールスターでは彼の打撃を知らぬセ・リーグのキャッチャーが思わず飛び退いてしまうほどの強烈なフルスイング。

バット一閃、とてつもない炸裂音が球場に轟き渡り、ミサイルのような打球が空気の層を破りながら外野スタンドの上段に突き刺さる。
そのドスンという音はかなり離れた場所にもはっきり聞こえ、観客は歓声と共に驚嘆の呻き声を上げる。

これは漫画の話ではありませんし、ことさらオーバーに表現しているのではありません。

これこそが我が目で何度も何度も目撃してきた、かつての南海ホークスの主砲、門田博光さんの毎度のバッティングなのです。
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火の出るような当たりなんていう、陳腐な言葉では表現できない凄い打球でした。

この人の打球の速さは、様々な大打者のバッティングを生で見てきたボクがハッキリ断言しますが、桁違いにNo.1でした。

とにかく音が違うのです。
普通、球場で聞く打球音は、カ〜ンとかパカ〜ンという感じに聞こえます。
パワフルな人の場合、ポッカ〜ンと聞こえる事もありますが、門田さんの場合はもっと空気を切るような感じで、スパカーン❢って感じの鋭い音がしました。
特に大阪球場はスタンドの傾斜が急なので、音の反響があって球場全体に轟いたものです。
当時、生で彼のホームラン見た事のある方ならボクが大袈裟に話しているのではないとお分かりのはずですね。
あの音や打球の速さは余程のスイングスピードがない限り絶対出ません。

ご出身は山口県ですが、奈良の名門天理高校の四番打者として甲子園にも出場されました。
ただ、高校在籍三年間で何とホームランはゼロでした。
そんな彼が、日本プロ野球史上第3位の567本塁打を記録する大打者になるんだから世の中わかりませんね。

ホームランを打てるようになりたいという願望を持ち、ノンプロのクラレ岡山で4年間過ごします。
1968年に阪急ブレーブスにドラフト12位で指名されましたが、この時はプロに行ける状態でなく断っています。
そして翌1969年のドラフト2位指名で南海ホークスに入団したのです。

そして1年目、大阪で万博が開催された1970年。
春から俊足、強肩、好打の一軍選手として出場、5月13日、何とボクの誕生日に、大阪球場の対東映フライヤーズ戦で高橋直樹投手からレフトスタンドへ流してプロ入り初ホームラン。

このルーキーイヤーに結局8ホームランを記録して翌年レギュラーを掴む足がかりとしました。

2年目は彼のその後の運命を左右する大きな1年となります。

野村南海の方針として、門田は3割を打てる理想の2番打者に育てるという計画になっていたのですが、何しろバントが下手くそだった。
ブレイザーコーチが自ら打撃投手を務めたのですが、ギブアップ。
当時の南海の1番打者は、球史に残る名選手の広瀬選手がいましたし、小柄な門田は1〜2番タイプと思われていましたから2番がダメとなると構想が崩れます。
そこで野村監督は、こいつはヒットだけはやたら打つからワシの前の3番打たせよかと言い出した。
南海の3番打者と言えば、前年、田淵、山本浩司と共に法大三羽カラスと呼ばれた富田勝選手が定着したばかりで、打率,287、23本塁打という見事な成績を残して、この後10年は南海の3番は安泰などと言われていたのです。

その富田を差し置いて、3番打者を任された門田は、自宅に前年の富田選手の打撃成績を記入したカレンダーを張り出し、毎日去年の富田の成績と本日の自分の成績を見比べながら挑戦したらしい。
結果、打率.300、31本塁打、そして120打点で打点王を獲得して全てにおいて富田選手の成績を超えたのでした。
彼の一本足打法はこの年に完成したものです。

しかし、ホームランに魅せられた門田の大振りに閉口した野村監督との間に軋轢が生まれます。
野村監督はヒットの延長がホームランと諭します。
しかし門田はホームランの打ち損ないがヒットだと主張し、頑として忠告を聞き入れませんでした。

巨人とのオープン戦で野村監督は巨人の王選手に助言を頼み、門田を説き伏せようとしましたが、王さんと示し合わせるなんて監督はずるい、とまで言われ、王さんはこりゃ大物だと笑うし説得を断念しました。

また、オールスターの時に近鉄の大砲、土井正博にも説得を依頼するも、またしても不発。

野村監督曰く、あいつは何か言えば反対の事ばかりする頑固者、だそうです。
江本孟紀、江夏豊、門田博光はちっとも言う事を聞かない南海の三悪人だそうです(^^)
あれ(^_^;)ご自分はどうなのかな⁇

ボクが南海ファンになったのは実はこの頃なんです。
オールスターでは南海の3番打者である門田が全パの4番を務め、ホームランも打ちました。
その後、パ・リーグの4番と言うのが門田選手の代名詞になります。

南海の誇る2門の大砲、門田と野村。
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やがて野村監督はチームを私物化していたなどの問題の末、南海ホークスをクビになり、ロッテ→西武と渡り歩いてユニフォームを脱ぎました。

野村に付いて江夏や柏原までがチームを去り、門田の双肩にチームの浮沈が掛かりましたが、そんなタイミングで、キャンプ中、門田はアキレス腱断裂という重症を負ってシーズンを棒に振りました。
また貧乏臭い話ですが、パ・リーグを代表する大打者が倒れたと言うのに、担架の用意もなく、戸板に乗せて運ばれたそうです_| ̄|○ il||li
南海ホークスの暗黒時代はこうして始まったのです。

これによって三拍子揃った名選手は姿を消す事になりましたが…
しかし、足に負担を掛けずに活躍する方法がひとつありました。
ホームランを狙うのです。
かつてあの野村でさえも認めていたのは門田の恐るべき努力です。
そして、理論家である事。
口うるさい野村の下で門田は中距離打者に甘んじていましたが、これで大っぴらにホームラン道を極める事ができるのです。

ラッキーはもう一つあったと思います。
元々門田選手にフェンスギリギリなんてのはありませんでしたが、この1980年はM社製のボールが飛び過ぎると言う事が問題になりました。
大阪球場の南海戦はM社製のボールではありませんでしたが、阪急や近鉄はこのボールで記録的なホームラン数を生み出していました。
このホームラン量産の流れに上手く乗る事ができたと思います。
工夫して試した事がすぐに結果に出やすくなったのですから、ホームラン打法を追求する門田選手にとってこの流れは歓迎だったはずです。
この年41本。
特にシーズン終盤、西宮球場で見た一発にはゾッとしました。
低めの球をバックスクリーン左のスタンド中段へライナーで軽々と叩き込んだのです。
左打者があんな所へあんな当たりで放り込むなんてのは見た事もありませんでした。
パ・リーグの4番打者は見事復活です。

その翌年、春先はあまりホームランは出なかったのですが、7月にギネス級のペースでホームランを量産しはじめました。
2度に渡る5試合連続を含み、オールスターまでの間に日本タイ記録の月間15ホームランを記録。
当時ドーム球場なんてありませんので、この梅雨時にえらいペースでした。
あれだけ勝負を避けられながら少ない試合数でこの記録です。
そしてオールスター休みが明けて、7月31日のたった1試合に新記録に挑みます。
さすがに無理かと思っていたのですが、西武ライオンズの左腕杉本から満塁ホームラン。
月間16本という記録だけでも凄いのですが、試合数の少ない7月に達成というのがボク達ホークスファンが一生忘れられないところですね。

この年、結局44ホームランで、日本ハムファイターズのサモアの怪人ソレイタとホームラン王を分け合いました。
高校時代、ホームランゼロだった小柄な選手が、遂にプロ野球でホームラン王となったのです。

この頃からボクは単なる門田ファンと言うより、尊敬の念を抱きはじめていたのです。

その翌年も40本でホームラン王でしたが、さすがに年齢でしょうか、その後25本程度に減っていき、いつまでこの勇姿を見られる事やら、なんて考えがよぎり始めました。

ところが終わるどころかある時、彼はボクの中で神になりました。

それは1987年の春先の大阪球場での対阪神タイガースオープン戦の試合前の事です。

どうした訳か、その日は物凄く早い時間から開門されていて、いつもなら滅多に見られないホームチームの主力選手のフリーバッティングが見られたのです。

門田選手のバッティング、まだ春先だし、当時39歳やし、無理はせんだろうと思っていました。

すると、かつての宿敵、あの天才打者、加藤英司がこの年ホークスに入ったのですが、門田と並んで鳥カゴ(打撃ケージ)に入ったのです。
このパ・リーグを代表する大打者二人が並んで打つところが見られるなんて♡

余談ですが、門田は阪急の指名を断って南海の主砲に、加藤は南海の指名を断って阪急の主砲にと言う因縁がありますし、この二人は打者同士では最大のライバルだと今でも思っています。

先ずは加藤のヒデさんからスイングしはじめます。
鋭いライナーが、右中間方向へ伸びます。
その中で角度が上がった打球は軽々とスタンドに飛び込みます。
嬉しいな〜、門田さんはどうかな?
丁寧にバントしてるな〜。
あ、構えた。打つぞ♡
スパカーン❢
うわ、打ちそこないかな、めちゃくちゃ高く上がった。
こりゃ内野フライかな??
…え?…落ちてこない…

打球は左中間スタンドの最上段の通路でポーン。
な、何やあの飛距離は〜!!
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↑これはその時の写真では無いですけど、参考までに。
左中間最上段に毎日牛乳の看板がありますが、あの看板の下の通路でボールが跳ねました。
左打者が流し打ちで、内野フライと間違う位高々と打ち上げてそんなところまで飛ばしたのです。

しかし、驚きはこんな物ではなかったのです。

次の球もまた同じように高く上がり、先程と全く同じ場所にポーン。
その次の球も、その次も…
結局20ほどのスイングがあったと思うのですけれど、ハズレなしで全て同じような打球で半径5mほどの誤差で同じ場所に運んで見せたのです。

よく、スポーツ新聞で、◯◯選手が20スイング中10本柵越えとかいう見出しがありますが、…じゃあ、これ何なん??

飛距離にしたって、流し打ちなのにどう見ても130m以上軽く超えてますし、百発百中だし、ほとんど同じ場所に着弾してるし。

まだ春先なので、引っ張らず軽く左中間へホームランする練習だったように思うのですが、これは最早人間技とは思えません。

その後、阪神のフリーバッティングを見ました。
真弓、掛布、バース、岡田。
なるほど、素晴らしいですが、彼らもまた、加藤英司さんと同じく力一杯鋭いライナーを打ち、角度のいいのがスタンドインする打法でした。
門田さんのはボールを高く上げる、打球の回転を確かめる、ヘッドの入射角度を工夫する…何か凄く高度な物を追求する打撃練習だった事がわかります。
因みに別の日に見た練習では、今度はバックスクリーンの土手っ腹にドスンドスンとライナーをぶつけまくっていましたし、その日毎に何かテーマを持って練習しておられるのは間違いないと思います。

2年前にセ・リーグ優勝を勝ち取った脅威のダイナマイト打線の連中を含めても、何だかメダカの中に鯉が一匹…
そんな風に見えてしまい、その日の入場料分はそれだけで堪能したように思いました。
試合の方がオマケみたいな気がしました。
その日からボクは門田教の信者みたいになってしまったのです。
この年、門田は久々に30本以上のホームランを記録しました。
そして、その翌年、我々は更に恐るべき奇跡を目のあたりにする事になるのです。

その嫌な噂は以前からよく耳にしていましたが、その年1988年、その噂は一気に具体性を見せ、現実のものになってしまいました。

南海ホークス身売り。

本拠地は福岡に移転。

その南海最後のシーズン、我が神、門田博光40歳は嵐のように打ちまくり、「不惑」孔子の40歳にて惑わずと言う言葉が流行語になるほどでした。
さすがに三冠王は叶いませんでしたが、ホームラン王と打点王に輝きました。
打率も惜しかったんですけど。
そして優勝した西武の選手を差し置いて、MVPまで獲得したのです。

しかし門田選手は翌年、家庭の事情で福岡へは帯同せず、ホークスを出てオリックスブレーブスの一員となります。
ここでも強力ブルーサンダー打線の中核として活躍、2年後に再びホークスに帰ってきますが、さすがに年齢的な衰えは隠せなくなってしまいました。
ダイエーホークスで2年プレーした後、とうとう引退の時を迎えました。

ホームランと言えば我が日本ではやはり王貞治さんがリードしており、彼の方法論が何より正しいのだと思われがちです。

王さんがよく口にされたのは、ホームランできる球は1試合に何球もないから失投を見逃さない事が大切、と。

それはとても正しいと思います。

しかし、門田さんの口からその言葉はあまり出なかったような気がするんです。

近鉄の鈴木啓示❢ ロッテの村田兆治❢
西武の東尾修❢ 日本ハムの高橋直樹❢
そして阪急の山田久志❢

凄い名投手達との熱い対決をとことん楽しみ、彼らの一番の決め球を狙い撃って来たのが門田博光です。

偉大な投手達が口を揃えて門田さんとの対決が最も楽しいと証言しています。
打たれるはずのないボールを持って行かれた!なんて話、何度もありました。
失投待ちの打者ではなかったと思うのです。
王、野村に次ぐ歴代3位の567本のホームランはこうして紡がれて来たのだと思います。

野茂英雄のような凄まじい新人が近鉄に入団するや、あいつからの第一号は俺が打ったると決め、オフの間にゴルフ場を借り切って毎日早朝から走りこみ、記者から野茂の球種などを詳しく聞き込み、そして初対決でものの見事にホームランしたり、長嶋一茂がヤクルト入りした時はオープン戦で当たるや、サード一茂前にセーフティバントしてみたり、ロッテに入団した小宮山悟がノンプロもプロも似たような物と言ったと聞くや、じゃあプロの打球を進呈しようと強烈なピッチャー返しをお見舞いしたり。

この人の野球には夢が溢れている。

ホームランはヒットの延長と言われ、ハイそうですかとならず、狙って打つ方法をとことん研究し、完成させた唯一の打者。

ホームランに憧れつつも打てなかった高校時代、しかしその夢を諦めず、遂にその道を極めてしまった素晴らしい夢追人。

ボクの最大の憧れの人です。

最後にこの1枚。
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2013年福岡ヤフオク!ドーム、ホークス創設75周年記念イベントにて。
ホークスとは1977年の監督解任以来、絶縁状態だった野村克也氏と共に参加する門田博光氏。

散々不仲が伝わった二人のこの姿に一筋涙がポロリ。
わかる人にはわかるよね。

ほなさいなら(^^)/