名草戸畔を巡る















 










由来
当神社は、杉尾明神・八幡宮を主祭神とし、一村の氏神にして社殿美麗なり。
奥に建久2年(1190~1199)鎌倉時代初期に書せしを永禄(1558~1570)室町時代に寫しかえたるよし書せり。
元亀年中(1570~1573)室町時代末期棟礼あり又慶長7年(1596~1615)江戸時代初期に書せる祭事の記録ありて其巻末に去年大守浅野候より検地ありて神事の料なし困りて略式を新にする。
『南紀神社禄』に云う「杉尾神社はいづれの神なることを知らず元亀年中、八幡宮の当社修造の棟札いまにありその銘に曰く、二品仁助親王とありこは仁和寺号、厳島御宝、すなわち伏見院貞敦親王の御子にして後、奈良院御猶子なり」
伝説として、(おはらさん)お腹の神様として今でも御杓子をお供え祈願している。
多分食養生からであろうが、由来については、昔紀の川の河口に1匹の大蛇が川岸に流れついた。

玉をくわえ腹部に金色に光る杉織状になった輪があり、立派な足もあったと伝えられ、


これぞ神の化身と
小野田に頭部、
杉尾神社に腹部、
千種神社に足、と3体を埋め神として祭った。


今でも神社地である玉輪山には大蛇の好物とする「たにし」があり、夫婦であるとされている大蛇が生息しているのかもしれない。
又、氏子中より浅野家に嫁いでいた娘があり、嫁ぎ行く前夜はげしい腹痛におそわれ、うわ言に「北の山に埋もれている古い器があるから、それにて亀の川の水を汲み神社に供えてほしい」言われた通りすると、不思議にも激痛がおさまり無事赤穂に嫁ぐことができた。
それ以来お腹の神様として崇敬されてきたとも云う。
いづれにしても説は沢山あるが、「お腹痛けりゃ杉尾のお宮、腹のくろいのはなおりゃせぬ」とある。
いくら霊験あらたかなおはらさんでも、はらのくろい奴は古今東西通じてこのかぎりではないということである。

和歌山県神社庁引用。



記紀の物語

神武東征の際、九州を勢力下に収め、各地を平定していった東征軍は、大和を目指していた。

しかし、紀国(キノクニ)【紀伊国、和歌山】でこの地を治めていた勢力の反撃を受ける。名草邑(ナグサムラ)【現在の和歌山市と海南市の一部】を支配していた豪族である名草戸畔の軍勢である。名草戸畔は随順せず、東征軍との死闘の末、討伐された。その名草戸畔(ナグサトベ)の胴を当社で祀っていると言われ、「おはらさん(お腹の神様)」として信仰を集めている。


絵馬とともに「しゃもじ」が奉納されている。

"お腹の神様"として広く知られていることが分かる。

なお、お腹の神様としての由来は、紀ノ川の河口に流れ着いた大蛇の腹部を当社に祀ったというものと、当地から赤穂へ嫁ぐ娘の腹痛を治したという2つの言い伝えが残されている。
和歌山観光引用