kimkimです。記事とは関係ありませんが、フランスで行われた競馬の凱旋門賞、本当に惜しかったですね。日本馬のナカヤマフェスタが首差だけ及ばずに2着でした。日本馬による初の凱旋門賞制覇はなりませんでしたが、とても嬉しいニュースでした。2400メートル走って、ほんの数十センチの差、悔しいですが大健闘です。
さて、今日は地区長さんが今回は、教会に来て下さり暖かいメッセージを語って下さいました。
色々なメッセージがありましたが、考えさせられたのは責任心情ということです。人間始祖のアダムとエバが堕落した時に、アダムを自らを騙したエバを責め、エバは自らを騙した天使長を責めました。
ですから、私たちには根本的に自分が悪いと素直に言えない責任転嫁の要素があります。
教会内でも、あの人が悪い、強制された、嫌なのにこうしなさい言われたなどと教会の組織やアベル兄弟姉妹を批判することもあるでしょう。しかし、批判する人たちの心にあるのは、たいていは責任転嫁の心ではないかと思います。
私自身もいい訳をしたり、こういう理由があってと知らず知らずに責任転嫁をし、後でしまったと後悔することがあります。
故・久保木会長は、オウム真理教の事件が起こった時に、こんな事件が起きたことは私たちのせいだと思ったそうです。それは、多くの若者を導くことができずに、こういった事件に加担させてしまったことに対する責任を感じたそうです。会ったこともない他人が犯したことに対して、私が悪いと思える心情。これこそが責任心情ではないでしょうか。
文亨進世界会長は、呼吸をするたびに生かされています。愛されていますと唱えながら瞑想をすると聞いたことがあります。私たちに必要なのはその謙遜な心ではないでしょうか。
愛されて、赦されて、こうして神の道を歩ませて頂いている。「やらされている」のと「やらせて頂いている」のでは、外見は同じでも心の世界においては天地の差があります。
教会を批判する人の大半は、私は悪くない、誰だれが悪いと名指しで攻撃したりします。
しかし、責任心情が本当にあるのならば、この現実をどう越えるのか、そこの意識を向けるはずです。かつて三男の文顯進様が登壇されるどころか、世界を本気で変えようという人が100いたら必ず世界を変えるとができるとおっしゃいました。
人を批判したり、人を責めたりするのではなく、すべては私の責任だということが出来れば世界を変える原動力になるのではないでしょうか。

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