不思議なタイトルを付けました。私たちは知らず知らずのうちに、他人にこうして欲しい、ああして欲しいと自分のことを棚に上げて他人に要求してしまうことが多いのではないでしょうか。
私たちが陥りやすい傲慢さがあると思います。真理のみ言を知っているがゆえに、それ以外の人を裁きの目で見てしまったり、自分の正しさを認めるために躍起になることもあるかもしれません。
日々の生活の中において、我々は真に謙虚であるべきだと思います。世界会長の亨進様でさえ、まだまだ自らの中にある傲慢性を悔い改め、最近も8日間の断食をされました。
ましてや、我々はどれ程までに謙虚にならなければならないでしょうか。それなのに、相手が素直でない、言う事を聞かないなどと、自分の足りなさを悔い改めることはせずに、誰かを責めてしまうことがありますね。
真に認められる教会になるためには、もっと謙虚でいなければならないし、他人の非を認める前に自分自身の足りなさを素直に認める勇気が必要だと思います。
教会を批判する人に対しても、私たちは弁解をしたり、むやみに反論してはいけないのではないかと考えるようになりました。
牢獄の中で文先生は、囚人たちの前にもいい訳一つせずに、それでも全ての人から信頼を勝ち取ってきました。それならば、私たちも教会に対して、暴言を吐くもの、非難するもの、反逆するものに対して、広い心を持って対するべきではないでしょうか。
教会に反対する者に対して、論戦に勝とうとしたり、何とかして言い負かせようなどと、自分の正しさをアピールすることに必死になるかもしれません。私自身もそうでした。しかし、最近は何と言われようがいいではないかと思っています。真に敵を愛した時こそ、相手を飲み込むことができるのかもしれません。
これからは、本物のみが通じる時代。私たち一人一人が真の意味で謙虚になって、実体の姿で示すことができるようにならなければと思います。個人の成長や努力がみ旨を進めると信じて、頑張りたいと思います。
敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。(マタイ5章44~45)

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