忙しい毎日ですが、いかがお過ごしですか?今日は久しぶりに半日時間ができたので、兄弟姉妹と共にスーパー銭湯に出かけ、お昼は外食しました。
「無添くら寿司」の小金井店によりました。全国に店舗が広がっていて、地方でも何か所も見たことがあります。お寿司は基本100円で、添加物にも気を遣っているので、安心して食べられます。味も良かったです。(^O^)
さて本題です。
創造本然の価値を持った人間はどんな感じなのかと考えることが良くあります。私たちがイメージするのは、イエス様や統一教人ならば文先生でしょう。
個性を完成した人間は、私がいないと神が悲しむ、そして自分で自分に惚れ惚れするような人格だとも言われます。日々成長した自分の姿を思いながら、信仰生活を歩んでいる時はとても嬉しいものです。
反対に、自分自身の幼さや弱さを感じることも、多々あります。自分自身がうまくいかない時、喜べない心情の時、相当努力したことが実らずに、他の人が自分以上に恵みを受けている時、比較してしまう自分がいることをこれまで何度も通過して来ました。
統一原理の「アダム家庭」の中で、堕落性を脱ぐための方法として、“神の立場でアベルを愛する”という内容があります。平たく言えば神様の立場に立って、神側の人や恵みを受けている人を愛し祝福するという感じでしょうか。
私たちはどうしても私の幸福を願ってしまいます。普段はそうでなくても、自分が不遇な立場、愛されない立場、神から見捨てたのではないかと思うような時に、その環境をどう感謝して越えていくのかが問題ですね。そういう試練が時々やってくるように感じます。
それは神様の視点で相手をみつめる、親の立場ならどう感じるか。そこまでは行くには、難しいこともありますが、顔が引きつりそうな瞬間でも自分の思いは捨てないといけないと思わされます。苦手な人や愛し難い人であればなおさらですね。
本来は相手の喜びが私の喜び、それが本然の人間の姿だと思います。信仰を持ちながらも他人を恨んだり、感謝できないで霊界に行くと、その心情を持って永遠の世界に行くとも言われます。
愛の減少感、様々な心情を通過した時に、自分は不幸だと思うのか、それとも自分が成長するための環境だと捉えたり、課題を越えることで大きな人間になれたり、多くの人の心情を理解することのできる自分になれると信じて、一歩一歩階段を進んでいきたいと思います。
悲しいことや苦しいことが多ければ多いほど
神様に愛され同情される条件になります。
Rev. ムーン(心の四季②より)
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