男なんてものを30年も続けていると色恋のひとつやふたつ経験済みであるのが世の常だ。顧みて計らずも目尻に恍惚のシワを刻んでしまう恋もあれば、学校の木机についた傷を指の腹でなぞるような、いくつになってもそんな想いが消えない恋もあるだろう。
『口吸い』ひとつを遂げるのに鴨川の石畳を何往復もした夜もあった。初めて訪れた女性の部屋に入れ込み過ぎて脳内がホワイトアウトし、『紳士の嗜み』と行きの道すがらに購入した『ゴム製品』を小出しに整理することを失念し、彼女の前にドンと豪快にダースごと置いてしまい、光の速さで部屋を叩き出された、そんな切ない夜に涙したのも僕だけはないだろう。
兎にも角にも、かような夏の日の夕立ちのごとき清々しい経験を経て、僕たちは今現在、とても可愛らしい三十路のおっさんと成り果てたわけである。そりゃ、恋愛に関して多少の熟(こな)れた感のひとつも出るってもんです。
そんな僕たちが生き恥を晒し、耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで手に入れた『熟れた感』は間違いなく神々しい。『経験は何事に代え難い財産である』、と言えばより解り良いだろう。
にもかかわらず、にもかかわらず、アナタ方、婦女子ときたら、この『熟れた感』を忌み嫌うことこの上なし。真にもって、許しがたしである。どうも、平成の御世の撫子たちの心には、
『熟れた感≒不誠実、不真面目』
、反面、三十路を過ぎても、恋愛に気恥ずかしさ、不器用さを感じさせる男を、
『真面目で誠実な人、恥かしがり屋さん』
と肯定的に捉える方程式が蔓延(はびこ)っているようだが、この発想はとんでもない間違い。音速で悔い改めた方がいい。
想像して欲しい。
恋する少年は等しく思い悩む。焦がれた相手が標準装備する『女心』の難解さに立ち尽くす。しかし、棒立ちのままでは何一つ変わらない。意を決した少年は、見たことのない文字で埋め尽くされた『女心』の解読作業に取り掛かる。少年の横顔に『考古学者』のソウルが宿る瞬間だ。教科書も辞書もない状況下で目隠しプレイのような手探りの日々。月明かりの届かない闇夜を彷徨う迷い子のように羞恥を捨て泣きたい夜もあった。答えのない自問に疲れ、お気に入りの春画(エロ本)に溺れ思考を忘れたただの獣に戻りたい、そんな己の『利き腕の誘惑』に抗う夜もあった。もちろん、誘惑にコールド負けした夜もあった。束の間の『慰安旅行』、たまには許して欲しい。
そんな哲学然とした日々の果てに導き出した何かを胸に愛する娘と対峙した日。努力が報われたと思った。しかし翌日、数学的に整然としていたはずの世界が、僅か一日で一変する。
『女心と秋の空』
すべてが振り出しに戻った。全身を覆う残尿感のような気だるさ。しかし、少年は諦めなかった。膝を折って地面に屈しようとする自分を叱咤して、解読作業を再開した。すべては己が心に芽吹いた恋心を枯らさない、この一心で。
かような地道で生真面目な作業を愚直に重ねた経験の上に、僕たち三十路男の『熟れた感』は成り立っているわけである。『熟れた感』、このニュアンスが如何に尊いものであるのか、お解り頂けただろう。
『熟れた感』こそ、誠実、生真面目の結晶、証左なのである。
今まで、三十路を過ぎると自然発生的に身に帯びるおっさんの『加齢臭』のように『熟れた感』を忌み嫌って婦女子の皆さんはこの記事を読み、大いに反省されたことと思う。
今後、恋愛の挙動に淀みがなかったり、日本各地の国道沿いに乱立する、『大人のディズニーランドのお城』への誘導が『恋の警備員』ばりに堂に入った三十路男に出会ったら、
「この人は、とても誠実、生真面目に恋愛と向き合ってきた人なんだわ♪」
と、その人を今まで以上に愛でてあげて欲しい。百歩譲って怒るとしても、
「真面目すぎて面白くない。ガリ勉くんか!」
このニュアンスなら理解できる。
最後に、この記事を読んで、
「大切なのはいくつになっても恋愛に対する初々しい気持ち。三十路男にはそれを感じない」
なんてニヒルなコメントはご勘弁くださいね。
正論はいつも正しい。そして、正しい物言いは聞く者の耳朶をマイルドに刺激し、その胸に心地良く沁み渡ってゆく。しかし、その正しさゆえ、その破壊力ゆえに時として相手を傷つけることも僕たちは知る必要がある。
チビッ子が公園の砂場に作った楼閣のような僕の脆弱なロジックを正論の刃で壊すような無粋はせず、遊び心を持って、『砂遊び』にお付き合い頂けると幸甚です。
『砂遊び』、ついでにどうぞ