「恥の多い生涯を送ってきました」
はしがきの後、この文章で始まる有名な小説の著者が僕は苦手です。ゆえに、件の作品も読破することなく押入れのダンボールに長期に渡って冷凍保存しておったのですが、昨今、思うところがあり、レンジでチンして解凍するが如く再読を試みているところです。
と言っても、まだ読み始めたばかりですので、別に、太宰治について考察を加えようというのではありません。まあ、読破したところで無理でしょうが。
今回は、『恥』です。
行動・思考の規範の側面から、僕たち日本人の文化は『恥の文化』、対して、欧米人のそれは、『罪の文化』などと説明されることがあるようです。
つまり、『他人様に迷惑を掛けるような恥かしいことをしない』、これを道徳基準とするのが『恥の文化』であり、『宗教的戒律や良心』といったものを道徳基準とするものを『罪の文化』というらしいです。
公共の交通機関や施設のおける若者の言動を捉えて、
「最近の若い者は恥を知らない」
などと顔面を歪めて苦言を呈する大人たちが平成の御世には少なくないようですが、異国のとある5000年ほど前の遺跡から、「最近の若い者は・・・」と、当時の大人たちの若者に対する『ボヤキ節』が刻まれた石版だか、壁だかが発掘されたことを考えると、人間なんてものは、さほど・・・ですよね。
それに、『恥』と言う感覚を持たない人間なんて、まあ、存在しないでしょう。もちろん、何を『恥』とするかは、人それぞれの価値観、感性の問題でしょうが、やはり、僕も恥の多い生涯を送ってきました。そして、この歳になっても現在進行形で『恥』を量産していますし、今までに獲得した数々の輝ける『生き恥』たちを自分の記憶、心の中にひた隠しに隠し持っておるわけです。
ですから、僕は心の中を垣間見られるのが非常に困る。既に、清算済みの『生き恥』に再度、スポットライトを当てられるなんてたまったものではありません。その上、心の範疇には、『恥』に限らず、大切な個人情報が多々内蔵されているわけですから、己の内心の領域に土足で踏み込まれることに非常なる警戒心を抱くことは至極、当然なことでしょう。
僕に限らず、内心をみだりに覗かれることこそ、人が一番忌み嫌うものだと思いますし、そうであるだけに逆の場合は、『胸襟を開いた仲』と強調されるわけでしょう。
(ここまでのお話に共感くださった方は、下へと読み進めて下さい。「僕の、私の感覚とは違う」と思われた方は、ブラウザの『戻る』をクリック、どうぞ)
先日、こんなことがありました。
お酒の席で、覇気の感じられない女子がいたので、心のとても優しい僕は、
「どうした?何か悩みでもあるのか?」
と、紳士的に彼女の身を慮ってみたところ、彼女は、
「少し気持ちがブルーなんです」
と、さも意味ありげなため息とともに心情を吐露した。
僕は彼女のその大胆さ、いや、破廉恥さに愕然としてしまったが、気を取り直して再び問い掛けた。
「じゃあ、パンツの色は?」
「・・・」
返事は口頭ではなく、「この、ド変態が!」との意味を込めた射抜くような視線で返ってきた。
このとき、『一番』他人に垣間見られることを恐れる心模様を、比喩とは言え、
『ブルー』
と惜しげもなく教えてくれたわけであるから他の情報は自動的に『二番以下』となるはずである。ゆえに、それよりは羞恥が劣るであろう『パンツのカラー』くらい、さらっと答えてくれるはず!と読んだ僕の読解力は何一つ、間違いではなかったと思う。
彼女の『恥』のプライオリティ(優先順位)が常人と比べて歪んでいた。これが僕の結論です。
※まともに取り合って、僕に『説教プチメ』など送ってこないで下さいね。それこそ、恥かしいわ。
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