世の中には、『約束事』と言われるものがある。
『人様のものを盗んではいけない』
『挨拶を欠かしてはいけない』
なんてのも『約束事』だろうし、関西圏では、
『ボケたら、ツッコむ』
それがスタンディングの状態なら、吉本新喜劇のように、ひっくり返らないといけない。これは関西圏の小学生なら皆、道徳の時間に先生から、身振り手振りを交えて厳しく教わることである。
「ボケを放置するような、人の痛みのわからない人間になってはいけません」
これぞ、心の教育であろう。
もし、関西圏にお住まいの方で、「こんな教育システムなどワシャ、知らん!」などと、のたまう方がいらっしゃっるなら、それは教育の地域格差。由々しき事態である。早急に、新大阪府知事にでも直訴してみると良い。
しかしながら、この『約束事』なるものには、各世代により多少の差異があるものもある。
例えば、僕たちより上の世代では、映画『仁義なき戦い』を観賞後は、出身地に関係なく皆が『広島弁』を操っていたそうな。東北人の僕も関西人の私も、一人称は『わし』、二人称は『こんな』、語尾に『じゃけぇ』、『じゃけん』、をつけ、締めは、肩で風を切り裂きながら歩いてキメ。
また、これは森田健作氏主演の『青春ドラマ』の影響だと推察されるが、
「夕日を見たら、とりあえず走っとく」
当時の夕日は、そんな若者達の迸(ほとばし)る情熱と共鳴して、今よりもはるかに赤く朱に染まって見えていたとか、いないとか。
さらに、ブルース・リーの映画を観た翌日は、各自、手製の『ヌンチャク』を作成し、セミヌードになって狂ったようにヌンチャクを振り回し、己の後頭部に無数のコブを作るという『自傷行為』から、人間の肉体の脆弱性と暴力に対する怨嗟を自学する。そんな『約束事』も存在したようだ。
そして、僕たちの世代においては、映画なら、『ロッキー』を観た者は皆等しく翌日から、非科学的な筋力トレーニングによって肉体を虐め抜き、己の秘めた『ドM性』に目覚め、
学生の頃、ドライブの車中、当時のF-1のオープニング・テーマ『TRUTH』 (←知らない方はクリック、どうぞ)が流れると、信号待ちの間はアクセルを空吹かし、グリーン・シグナルに変わると同時に、とりあえず、目の前を走る車はすべて抜かなければならないという『約束事』、不文律が存在した。不文律と書いたが、ひょっとしたら、当時の『道路交通法』には件の作法が明記されていたかも知れない(もちろん、ウソです。青少年は鵜呑みにせぬように)。
(余談ですが、学生の時、フルフェイスのヘルメットを装着して彼女を車で迎えに行ったら、しばらく『いない者』として扱われたことがありました。存外、放置プレイは嫌いではないようです)
僕たちの一生は儚い、『夢幻の如くなり』である。
黙していても、明日は今日になり、今日は昨日に、昨日は過去に。そして、そのうち僕たちは『過去』の中でしか語られない存在となる。そんな儚い僕たちだからこそ、無意識を意識化に引き上げ、『気付き』を得ることで、より人生が芳醇な香りを放つものとなる。そんなこともあるだろう。
普段、見過ごしがちな『約束事』、皆さんにもきっと、多々あると思います。たまには、そんなとても下らない『約束事』を掘り起こしてみるのも楽しいですよ。何か気付いたら、僕にも教えて下さい。
本当は、もう1つ書きたいことがあったのですが、諸般の事情で、それは次回に。
毎度、ウソばかり書いて、ごめんなさい。
いつもクリック、ありがとうございます