「『愛する』という言葉を平気で口に出して言えるのは鈍感だからだ。愛するが日本語になるにはまだ百年や二百年かかる」



これは、コラムニストの故山本夏彦さんの言葉なのだが、この文章を読んで共感する人もいれば、さして印象に残らない人もいるだろうし、ひょっとしたら、眉間にしわが寄る人もいるかもしれない。


基本的に言葉に込める意味の軽重、解釈などは人それぞれの感覚、感性の問題だと思う。己で始まり、己に帰結する範疇なら、言葉の意味内容など好き勝手に解釈・使用すればいい。


しかし、言葉の主たる存在理由は当然ながら、他人様とのコミュニケーション、意思疎通のための道具である。そうであるなら、各々がでたらめな言葉を使用すると、やはり、支障があるわけで、そこで僕たちは円滑な意思疎通のために意味内容のすり合せをしなければならない。


これを怠ると回復困難なトラブルに見舞われる場合もあるから、方法論は幾重にもあるだろうが、やはり、疎かにはできない。


例えば、コンパである男女が出会ったとしよう。


男は、彼女のメリハリのピリリと効いた流線型のバディに情欲を刺激された。女は、男の洒脱な会話と、時折見せる憂いの眼差しに心を奪われた。そして、男は女の耳元で甘い囁きを炸裂させた。


「愛してる」


彼女は、いきなりのこの発言に面食らったが、彼女は彼に魅了されていた。ゆえに、両者の思惑は外形的に合致していた訳である。当然ながら、彼女のデリケート・ゾーンはジュン(潤)となる。


しかしながら、彼の「愛してる」は、『彼女』という個に対する熱ではなく、『性行為』に向けられた熱を意味するものであった。つまり、彼は、「愛してる」を性交における前戯程度にしか認識していない男なのであった。


否、もう一歩踏み込めば、


「(キミのバディを)愛してる」


などと、愛の目的物を有耶無耶にすることにより、


「オレはウソをついていない、ウン」


と、己への言い訳まで具備する周到な悪魔だったのかも知れない。


そして、その後はお約束のパターン。意気投合した二人はコンパを抜け出しホテルへGO。内心の齟齬に気付かないまま彼女は、ベッドの上で柔軟な身体を駆使して『V字開脚』をキメ、一晩中、獣のような情交を繰り広げたのであった。


めでたし、めでたし・・・とならないのが常でしょう。


後日、携帯から伝わってくる、あの夜とは打って変わった彼のぞんざいな態度に驚愕する彼女。


「あの野郎、(色んな意味で)ヤリやがったな!」


部屋の片隅で携帯を握り締め、壁に向かって独り呪詛の言葉を並び立ててみたところで、時すでに遅しである。

加えて、こんな時は、返す刀で友人に電話して、件の彼の道徳、モラルの低さを共に糾弾するのが世の中の定説のようだが、僕などは、かようなスタイルに違和感のような残尿感を感じるタイプである。


もちろん、生来の悪魔的美貌と天才的詐術を用いて婦女子の肉体を篭絡するエロリストもいるようなので、その場合は、別個、ご相談ということになるのだが、通常なら、僕は『モラル』なんて曖昧モコっとしたものを掲げて非難のシュプレヒコールを連呼するより、彼女に『国語ドリル』の問題を解くことをお薦めする。


文章を読んで、『愛してる』が指し示す目的が『彼女』ではなく、『性行為』であることを文脈から読み取れる読解力を、そして、一歩先を照らし、二歩先を自問し、三歩先を見つめるような洞察力、想像力を会得する努力をした方が、幾らか建設的なのでは、と思うのである。


僕は、対象が何であっても、『愛してる』を前戯の如く軽やかに吐き出せるような言語センスの人とは仲良くなれそうにありません。海外生活経験、パートナーが欧米人、外来の信教に帰依しているなどの特段の事情がない限り、通常の日本人は、『愛』を使いこなすには、『愛』なる言葉と寄り添った月日が、まだまだ短か過ぎるのではないでしょうかね。


またダラダラとやってしまいましたが、本日の要点は、


『男の性欲は、時として排泄行為に等しい場合がある』


ゆえに、婦女子の皆さん、お気をつけ下さい&大きなお心で許されたし、ということです。


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