「男は往々にして過去の恋愛を美化したがるものである」
僕たち男は、時にアルコールの力を借りて、また、時には場の興に乗って過去の恋愛を披瀝することがある。語っている僕たちは皆、例外なく目を細める。その瞼の奥だけに再生された思い出が今の自分たちにとって、直視するには眩しすぎるからである。
酩酊したある彼が問わず語りを始めれば、それに呼応して僕の脳裏にも僕と出会う前の若き日の彼と彼女が次第に現れる。僕は見たことのない、そして、今後もおそらく邂逅することのない彼女に、決して届く事のない「はじめまして」の会釈をする。
そんな僕に気付くことなく彼は話を続ける。
互いの溶け合う吐息を確かめ合った初めての夜。もう少し真面目に永遠を誓えば消せたかも知れない悲しい予感。拭えなかったあの日の涙。そして、さよならの口唇(くちびる)。「あんなに愛した人はいなかった」と、文脈は続く。
若さゆえの不器用から、向かい風に逆らうように遠回りをしたあの頃の恋は皆、一様に美しい。そして今、同じ感性で恋と向き合うことは恐らく不可能である。ゆえに尊い。しかし、登場するヒロイン、僕たちの彼女が何故か決まって見目麗しい絶世の美女ばかりなのは、まあ、不可解と言えばそうなのだが。
ここでリアリティに固執するのなら、思い出の中の美女達と現実の世界に存在する美女達は、数の上で全く勘定が合わない。端的に、「美人過多」である。しかし、もしこのシーンで彼の問わず語りを遮ってまで現実との整合性を検証しようとする人がいるとすれば、そんな輩は無粋、今風に形容するのなら、「KY」だと思って間違いない。
記憶の奥底に眠る思い出の所有権は間違いなく当人のみに帰属するものであり、当時の己の未成熟、不見識を棚に上げて過去の己の恋に眉じりを歪めて呪詛の言葉を並べる不逞の輩に比べれば、今は記憶の中にのみ息づく過去の彼女の美醜に多少の改ざんの加える事など可愛いものであって、愛すべき虚言と言っていい。そして何より、決して戻りえぬ過去に想いを馳せる男の横顔を曇らせる権利など、何人たりとも保持していないのであるから。
・・・とまあ、基本的には僕もこのスタンスなのであるが、「例外のないルールは存在しない」と言うのも、また1つの真理である。
例えば、セピア色の恋物語を披露している彼が、僕と旧知の間柄であった場合。この場合、彼の紡ぐ恋物語と僕の記憶は悲しいほどにシンクロするわけで・・・そんな時、彼の思い出の中の彼女と僕の記憶の中の彼女とのイメージに著しい乖離(かいり)を認めた場合、これを「愛すべき虚言」としてやり過ごす事は、残念ではあるが恋愛風紀委員を自称する僕の職責上、許されない。
僕は、己の恋バナに酔っている旧友の横でそっと悪魔の微笑を浮かながら正義の鉄槌を振り下ろす。
「当時のコイツの彼女は、2時間ドラマの重鎮、"大地康雄〟ソックリやった♪」と。
僕に不意の「会心の一撃」を喰らわされて歪む旧友の横顔を垣間見るのは、心優しい僕にとってこの身を引き裂かれるほどの苦痛である。
しかし、わかって欲しい。「お笑い王国」、「笑い至上主義」の関西において、こんなチャンスボールを見す見す見逃すストライカーには、次の試合の出場機会などないという事を・・・。
※またしても、己の恋のお話から大きく脱線してしまいました。申し訳ない。
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