「人生100年。

短すぎるだろ。

神のドケチのクソッタレが!

産めよ増やせよくたばれよ!

と、ろくでもねぇ世界を作りやがって。

他の生物を殺して食わなきゃ生きられない世界を作った上で、

罪だの罰だの語りやがって、

何なんだテメェ。

テメェが作った世界じゃねぇのかよ。

クソッタレが」

と神様にキレてた時期もあるけど、

「数学」

とか

「科学」

とかを學べば学ぶ程、

「世界そのものの美しさ」

とかを発見してしまうのも、

「そうあろうとしなければ、

そうならない世界。

見つけようとさがさなければ、

決して見つからない理」

の宝探しをする気分にもなるのよね。


「信賞必罰」

「人が情を下に定める法なんて優しいモノじゃない」

からこそ、

「死生観を超えて、

世界というシステムを作れる」

のかも知れないなぁ。


と思う様になったよ。


そして、それに気づけるのも

「ちゃんと学問し続けた人だけ」

だからこそ、

「遊び学び問いかけろ。

学問のすゝめだ」

というのが福沢諭吉だったよなぁ。

と思いつつ。


「学問の人」

ではなく

「連続起業家」

を最高紙幣とする世の中は、

「政治家は文民でなければならない。軍人が指揮する民主主義なんて存在しない」

という時代から変化して、

「政治的判断は、軍人であれ文民であれ人が下せば感情に必ず左右されて汚職や不正に繋がる。

議会制民主主義は保持したまま、

デウス・エクス・マキナのAI活用だ!」

と言われる様になるのかもなぁ。