例えば、

「モンスターハンター」

をフルダイブ型のゲーム機で、

「臨場感溢れる体験したいですか?」

と問われたら断固拒否するので、

僕にとってのゲームなどのオタ活は

「一歩引いた目線で、

色んな立場の疑似体験が出来る」

点にこそ魅力を感じてる面があるのよね。



でも、じゃあ

「フルダイブ型のゲームは否定されるべき存在か?」

という問いになった時、

「俺が夢見たゲームではない。

何故なら今あるゲームが、

俺が夢見たゲームだからだ。

だがフルダイブ型のゲームは、誰かにとって夢見たゲームだ。」

と言えるから、

「有ってはいけないもの」

でもないと思うのよね。

例えば、ソードアート・オンラインで印象的だったのは、

「現実の世界では寝たきり生活しか出来ない人で、ゲームの中の自由さや社交が大好きな伝説のプレイヤー」

みたいなキャラもいたから。


今後どんな技術の発展をするか、

俺が想像できるレベルを超えて社会は凄いスピードで進化してるからこそ、

「想像すら出来ない。まさに俺には魔法の世界」

みたいな未来が来てもおかしくない水準に研究は進んでいるのよね。

「ゲーム機に頼らない、リアル異世界転生」

みたいなモノすら誰か編み出す可能性すら考えてしまう。


多分、俺の親世代にとって

「スマホ」

という存在は、俺にとっての

「異世界転生レベルの驚異的発展」

なのかも知れないなぁ。


バクマン。という

「漫画家と声優」

に焦点を当てたアニメの

「現実という名の怪物と戦う者達」

という曲が好きだけど、

「現実」

の認識がアメリカ映画の

「マトリックス」

みたいな感覚になってしまった時、

そこにどんな価値観が現れるのか、

期待と恐怖のどちらもを感じるなぁ。。。と思う。


ちなみに最近思う事は

「俺はアニメ・ゲームなどのオタ活ほのぼの家族生活」

こそが根源的な夢で、

「正社員でバリバリ働いて出世して、島耕作みたいな人間になりたい!訳では無い。」

のだから、

「雇用関係がどうだろうが、

アニメ・ゲーム・漫画などに携わる仕事」

の方が長続きしそうな気がするなぁ。

と最近思う。


だって、俺は終始一貫して、

大学を選ぶ基準すら

「楽しいオタク生活が出来ること!」

に徹底的に拘ったタイプで、

基本的に変わってないパーソナリティだから。


コミケの発端レベルからオタクなのに、

オタクから離れようとするから、

長続きしないんじゃ?

という疑惑がある。


テレ東の株を買ったのもそうだけど、

「アニメ・ゲーム・漫画」

大好き人間として働ける職場を目指したいなぁ。


前から主張してるけど、

「赤ちゃんと僕」

が家庭感的に僕は好きで、

「ママは小学四年生」

が育児的な考え方で起点の人間だからなぁ。


多分俺の周りに集まるオタクは、

比較的

「赤ちゃんと僕」

は割と影響受けてる人多そうだけどね。