憲法が破棄された日 | にっし~の世の中思ったこと考えたこと(西形公一のブログ)

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にっし~(Nissy)が世界のこと、社会のこと、政治のことや選挙のこと、そのほか広く世相のことについて感じたことを、小ネタ中心に書いていきます

筆者は、目の前で憲法が破棄された経験がある。

忘れもしない2006年9月19日の、これである。

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この日は用事があって

バンコクからLCCエアアジアで

日帰りでシンガポールに行った。

 

そして夜半にバンコクの空港(旧空港)に戻ると、

どうも入管の様子がおかしい。

職員がいつになくそわそわして、

手の空いた者はオフィスのテレビの前に

集まって見入っている。

 

軍事クーデターだった。

タイ王国憲法は破棄された。

 

それまでのタイ王国憲法は、

1997年に議論を重ねて制定されたもので、

タイの歩みだした民主主義の象徴だった。

 

タイでかつて頻発したクーデターを意識して、

これを明文で禁止する条項もあった。

政治家は横暴だが、もうクーデターはないだろうという

世論が、大半を占めていた。

15年ぶりの軍の決起の前に、まったく無力だった。

 

そのうえ、空港から自分のアパートに帰れるかどうかも

まったく分からなかった。

とりあえずタクシーはいつもと変わらず列をなしていた。

飛び乗って、高速道路経由で家路についた。

 

約30分後、深夜に検問で止められるようなこともなく、

アパートに着いた。

 

テレビをつけた。

いつものドラマや能天気なバラエティは、

すべて止まっていた。

ただただ、プミポン国王の業績を延々と流し、

ときどき背広姿の見慣れない報道官が

短い声明を読み上げるだけだった。

 

ネットはつながった。

それだけが情報の頼みの綱だった。

 

軍が戒厳令を出したと知った。

 

翌朝、友人からも危ないことはしないでくれと

メールが入ってはいたが、

とりあえずアパートを出て、表通りに出てみた。

 

いつもどおり車やバスが大量に走っていた。

ただ新聞はことごとく売り切れていた。

 

バスに乗って、アパートからそう遠くない、

サイアムの商業地区に行ってみた。

ショッピングモールは普通に営業していた。

 

官庁街には戦車や兵士も出ているところが、

テレビに映っていた。

筆者は念のためそちらには行かなかったが、

欧米人長期旅行者(バックパッカー)には、

戦車の前で上の新聞を掲げて

記念撮影する者もいた(と、その翌日知った)。

 

それが憲法が破棄された日の、

戒厳令下の光景だった。

いったい、何なんだろうと思った。

 

ただ後で聞いた話では、

空港と筆者のアパートのあいだで

不穏な動きもあったという。

その場所の横を、高速道路に乗って、

1~2分で通り過ぎた、ということだったらしい。

 

そもそもテレビ局は軍が押さえていたというのに、

新聞は停刊せずに、朝には発行される。

直前に察知して逃げた大臣もいたが、

政府報道官は事態に対処できず

オロオロして、そのまま捕まった。

流血にはならなかった。

 

野党は何もせず戒厳令を受け入れた。

それまで騒いでいた反政府市民団体は、

その夜を境に、ピタリと動きを止めた。

 

そんな、不思議なクーデターだった。

だが間違いなく憲法はほぼ無抵抗で破棄され、

軍が全権を握る戒厳令が出され、

後に暫定憲法という名前が付いた、

ちょっと憲法とは言いがたい、

新憲法の制定手続きがほとんどを占める法が

軍によって施行された。

 

新憲法は、軍が主導して各界から任命した

2000人の会議から選ばれた

200人の憲法制定会議で議論された。

それとは別に、250人の任命制立法会議ができた。

そのプロセスにはあまり民主主義はなかったが、

いろいろな議論が出るなか審議された憲法は

11ヶ月後、タイ史上初めての国民投票で、

約6割の賛成で承認された。

そこは民主主義的だった。

 

それから5年以上が経つ。

二度の下院選挙、バンコクや空港の騒乱・封鎖、大洪水。

そんなことがあって、今日に至る。

 

ただ、憲法や民主主義による統治システムが、

やろうと思えばどんなに容易に破棄できるか、されるか。

それができたのは、いったい何が理由だったのか。

今でも、そこを気にせずにはいられない。