終戦記念日に平和を祈る
おはようございます
本日もよろしくお願いします
8月15日午前中に配布された
玉音放送予告の特報
日本国民は
1945年8月15日正午
「大統和戦争終結ノ詔書」の
玉音盤(音読レコード)の
現NHKラジオ第1放送を聞きました。
玉音とは、天皇の肉声のことです。
日本では
この玉音放送があった8月15日を
終戦の日(終戦記念日)と呼び、
それ以降、毎年のように日本政府主催で
全国戦没者追悼式を日本武道館で行い、
正午に黙祷を捧げるのが通例です。
大統和戦争終結ノの詔書
全文
この終戦の詔書(しょうしょ)は、
1945年8月14日に御前会議で
ポツダム宣言受諾を決定し、
14日の日付で発布されました。
それを昭和天皇が読み上げた玉音放送が
翌15日、ラジオで流されたのです。
詔書は、天皇が発する公文書で、
大体の内容は
内閣書記官長 迫水久常が作成。
8月9日以降、
内閣嘱託 川田瑞穂(漢学者)が起草し、
14日に
大東亜省顧問 安岡正篤(陽明学者)加筆
同日
天皇の裁可がありました。
1945年8月14日
日本の降伏を正式に決定した御前会議
正式に日本が降伏し、敗戦したのは
対連合国への降伏文書が調印された
9月2日で、
それまでは
国際法上交戦状態だったのです。
8月9日の長崎への原爆の数時間前に
ソ連は日本への侵略を開始しました。
英米首脳は、
「日本の降伏条件を定めた公告」を
スターリンの同意を得ずに
発出していたのです。
それなので
降伏条件を日本が受諾しても
ソ連に対しては有効ではない
というのが理由でした。
ソ連は日ソ中立条約を破棄したのです。
8月8日
クレムリンに佐藤駐ソ大使を呼び、
翌日9日から
日本と戦争状態になるとこを通告、
宣戦布告しました。
樺太庁の一つ真岡支庁(現ホルムスク)
このソ連対日参戦で
日本の本土や満洲国、朝鮮半島、樺太、
千島列島などそれぞれの地域を守備する
日本軍と、ソ連の赤軍の間に
戦闘が勃発しました。
1945年9月2日、
USSミズーリ(BB-63)上で、
天皇の命により
日本政府を代表して降伏文書に署名する
首席全権の重光葵(まもる)外務大臣。
補佐するのは外務省の加瀬俊一氏。
テーブルの反対側には米陸軍
リチャード・サザーランド中将。
ソ連は
降伏調印が行われていた9月2日に
北方領土の歯舞島攻略作戦を発動し、
9月5日 千島列島全島の占領を完了し
戦闘を停止しました。
8月15日以降もまだ戦っていたのです。
戦死者は推定
日本軍は約8万人、ソ連軍は約8200人
停戦後に捕虜となった日本軍人、軍属の
うち57万人以上が、
シベリア、中央アジア、モンゴルなどの
収容所に抑留され、
強制労働を課されました。
厳しい飢えと寒さで、そのうちの
約5万5000人が亡くなりました。
そして
天津の塘沽(タンクー)からの引揚者
満州では
軍民合わせて約24万5000人の
命が奪われました。
未帰還の残留孤児は14000人以上と
いわれていました。
中国と国交がなかったこともあり、
調査が開始されるまで終戦から
36年もの歳月を要しました。
1981年に初来日をし、
それから実に1999年まで
2116人が肉親との血縁関係確認で
来日しました。
判明したのは665人で
この年をもって集団調査は
打ち切りとなりました。
この報道を見ていました。
見ているだけで、いつも
辛い気持ちになりました・・・
戦争が残した痕跡
その傷は
今も癒えることはないのですね・・・
今年、2023年8月8日
訪台中の麻生副総理は
台湾有事を想定し、「戦う覚悟」を表明
日本国民を驚かせました。
防衛費は大幅増額が11年続いており
数年後、
米軍は撤退し、自衛隊は軍になるとも
聞こえてきます。
しかし
終戦記念日の今日、
鎮魂の八月十五日
あなたとともに わたしは
平和を祈ります。
心の底から
福島県会津の水田
___________
ありがとうございました
KIMIÉ
____________
本気で美人になることを望むなら
手探りを繰り返すより
その道に精通した人に習うのが
一番の近道です。
健康美でエレガンス
キミエ・メソッド
あなたの美のパートナー
KIMIÉ