池大雅の忌日
おはようございます
本日もよろしくお願いします
池大雅『春の釣り』
クリーブランド美術館
今日は
江戸時代の文人画家
池大雅(いけのたいが 1723-1776)
忌日です。
教養ある文化人が
水墨で心の赴くままに描いた
線描の山水画
それは
中国の南宗派が成したことで、
自然を写実的に描くことより
自然のリズムを表現することに
重点を置いたのでした。
そこでは
芸術家は、
自分の作品に
深く関心を持っていないかのような
冷淡さが奨励されました。
それは
絵画、書道、詩の伝統を身につけた
知識人 = 文化人
という考えから生まれたのです。
池大雅『楼閣山水図 』左隻と右隻
東京国立博物館
文人集会を開く洞庭湖の岳陽塔
日本の文人画(南画)は
このような
中国の南宗派を由来を
日本的に解釈して
江戸時代中期以降に現れた画派です。
彼らは
伝統的な中国の主題を描き、
風景、鳥、花に焦点を当てました。
書、詩といった重要な要素は、
画家の友人が記すこともありました。
池大雅は与謝野蕪村とともに
この文人画(南画)に創意工夫を施して
完成させた芸術家です。
父を早くに亡くし、6歳で素読を始め、
7歳で本格的に唐様の書を学びます。
京都府宇治市 黄檗宗の総本山の
萬福寺で書と宗教の指導を受けました。
大雅は扇屋を経営し、
印章も彫りましたが、
文人の世界に入門するきっかけは
芸術的著名人だった
柳沢淇園(やなぎさわきえん)との
出会いでした。
(歌舞伎十八番の一)1737年
23歳の時、大雅は
文人画家で茶屋を営む玉蘭と結婚します
これも淇園の紹介でした。
池玉蘭『秋景山水扇面図』
メトロポリタン美術館
二人は京都の社交界や芸術界で
有名になりましたが、
結婚して2年後、大雅は文人のもう1つの
主要な要素となる一連の旅に出ました。
自然と交わって
芸術の霊感を集めようとし、
そして何よりも
文化的で経験豊富な
個人になることを目指したのです。
金沢、日光、富士山を旅し、
しばらく江戸に滞在したおりには
蘭学者から
オランダ美術を学びました。
大雅に劇的な影響を与えた
もう一人の芸術家は、
1752年に大雅の家に短期滞在した
「直指人心、見性成佛」
この文字の意は
禅は人間の心を直接指し示し、
自分の本性を見て仏陀になる
というもの
大雅は残りの人生のほとんどを
旅と登山を続けました。
旅行中に、
同僚と共同作業をしていますが、
その一つが
国宝『十便十宜帖』です。
大雅が
自然と共に生きる人間の豊かさ、
巷の生活よりも便利な
「十の便利」を
絵にした『十便』を描き、
『釣便』公益財団法人 川端康成記念会
記念館蔵 国宝
蕪村が
四季や時間、天候によって移ろう
「十の宜(い)いこと」を
絵にした『十宜』を描いて
公益財団法人 川端康成記念会
記念館蔵 国宝
それらを合作した画帖、
それが
『十便十宜帖』です。
これは
劇団主宰者で小説家で出版者の
清初期の李漁(李笠翁)の詩を、
上 『廬山図』画:沈周
下 『虎渓三笑』李唐様式の絵画
廬山(ろざん)の麓の
シンプルな山居生活の便宜な楽しみ、
自然と交わる生活を称賛した
『十便十宜』。
これに基づいて
それを絵にしたのです。
最後に
無欲の池夫妻の仲をのぞいて
池大雅・命日の回向と致しましょう
玉蘭夫人は旗本の庶子で
良人の大雅に和歌を教え、
互いに対等の立場で影響し合いました。
玉蘭は既婚女性の習慣・引き眉をせず、
固定概念にとらわれない
自由な思考の女性でした。
「池大雅・玉瀾夫妻」
伴蒿蹊『畸人伝巻四』
芸術三昧の
気ままな来し方行く末を選んだ夫婦は
和歌を冷泉家に学びますが、
初めて参上した際、玉瀾は
木綿の着物に魚籠、素足で現れたので、
同家の女房たちは
大いに驚いたとの逸話が残っています。
夫婦ともに欲が少なく、
謝礼金を受け取っても紙包を開かずに
籠の入れておき、
必要な時に出して
用いていたと伝えられています。
『李白の詩との風景』
メトロポリタン美術館
『渓谷の三人の笑い』
デトロイト美術館
いかがでしたでしょうか
文人画と池大雅
芸術の奥義の一端が
垣間見れたでしょうか
そうした感覚があなたに伝わったなら
嬉しいのですが、
ちょっと簡潔すぎたでしょうか
春の終わりに
そして夏の到来に
あなたの心に
うららかな微風を感じていただけたなら
本望
KIMIÉ
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本気で美人になることを望むなら
手探りを繰り返すより
その道に精通した人に習うのが
一番の近道です。
健康美でエレガンス
キミエ・メソッド
あなたの美のパートナー
KIMIÉ