君だけに愛を

 その「田園」で知り合ったのが、のちにザ・タイガースのメンバーとなる岸部一徳、加橋かつみ、森本太郎、瞳みのるの4人だったんです。中でもサリーと太郎は背が高くて目立ってましたね。アイビーとかコンチとかいうスタイルでリーガルの靴履いて、みたいな。彼らは僕の唄を訊いてくれてて、リードボーカルとして一緒にやらへんかと誘われたんです。

 最初はファニーズという名前で活動してました。その間にスパイダースが所属していたスパイダクション(田辺エージェンシーの前身)の人にスカウトされかかったり、有名なプロデューサーにサリー、太郎、僕の3人だけスカウトされたり。でも条件が合わなかったりして見送っていたんです。

 そうこうしているうちに内田裕也さんから一緒にやらないかと声をかけていただいて、「これはすごい」と。それでも連絡待ちをしていたんですけど、全然音沙汰なし(笑)。1週間連絡が来ないだけで焦れて焦れて。こうなったらというわけで、リーダーのピーが東京まで裕也さんに会いに行ったんです。手ぶらではいかんと、スポーツカーの前でニッコリなんかして撮った宣材写真を持って。

 それが効を奏したのか、僕らを内緒でオーディションするために、僕らが出ていた大阪の「ナンバ一番」というジャズ喫茶に渡辺プロの偉い人が訪ねてきたんですよ。「来た来た来た来た」って大興奮(笑)。

 上京してテレビにデビューしたのは'66年。ほんの30秒でしたけど、「ザ・ヒットパレード」の新人コーナーにテレビ出演したんです。タイガースという名前は、出演間際に番組ディレクターだったすぎやまこういちさんが、「ファニーズじゃ弱い。大阪から来たならタイガースだ」って決めちゃったんです。

 改名については僕らも裕也さんと一緒に考えていて、「スティングレーズ」とか「ジャックストーンズ」とかいろいろ提案したのに、タイガースって聞いて、「えー」ってみんなで萎えてたんですよ(笑)。

 すぎやまこういちさんは僕らのデビュー曲『僕のマリー』も書いてくれた恩人ですが、この唄も正直なところ、ピンと来なかったというか。「これまでせっかくリバプールサウンドをやってきたのに、コレ歌謡曲やんか」と思ってね。

 それでも他のメンバーは、「俺たちは日本一になれる」と言ってましたね。スパイダースにもルックス的には負けてないとか。僕は言ってませんよ、そんなこと(笑)。僕は「ザ・ヒットパレード」に出演しただけで既に目標は達成したという気分だったんですから。そんなに上手くいくはずがないと思ってたんです。だからそれ以降の活動はオマケのつもりで、あんなに大変なことになるとは想像もしてませんでした。

 タイガース時代で一曲といわれたら、そーやねぇ、『君だに愛を』かな。≪君だけにぃ~≫と歌いながら会場を指差すと、キャーっと絶叫が戻ってくる。こんな面白いこことが起こるもんなんかと、我がことながら驚いていたんです。

 

祭りのあと

 タイガースとして最初にもらったギャラは、全員一律で6万6666円でした。さすがに大手プロダクションは違うなと思いましたよ。世田谷区の烏山に一軒家を借りて合宿生活みたいなことをしていて、その様子が『明星』や『平凡』なんかの芸能誌に載ったり、空手の恰好をして撮影したりとか、いろんなことをやりましたね。

 でもタイガースとして活動していたのは、実はたった4年間なんですね。'71年に解散した後は、サリーと僕、元テンプターズの萩原健一と大口広司、元スパイダースの井上堯之さんと大野克夫さんとでPYGというグループを結成しました。PYGでの活動を経て、井上堯之バンドをバッグにソロ活動を始めたんです。

 ソロになる時も僕は楽しそうだからそうするかという感じで、大きな賞が欲しいとか、そんな気持ちはなかったんです。時代的に歌謡番組全盛期だったこともあって、ヒット曲が続いたわけですけど。

 当時は、グループサウンズだけじゃなくフォークも流行っていた時代です。吉田拓郎の『祭りのあと』とか『旅の宿』が好きでしたね。でも『結婚しようよ』を聴いた時は、「これ、ポップスやないか ! フォークってもっと筋の通ってるもんとちゃうの ? 」と思いましたけどね(笑)。

 

あなたへの愛

 カミサン(田中裕子さん)との思い出の唄ですか ? 何やろなぁ・・・・・。

 ああ、僕の好きなことをやらせてくれるという条件で、沢田研二ショーというテレビ番組を持っていて、彼女に出てもらったことがあるんです。その時に『あなたへの愛』とかを歌ったかな。「彼女にプレゼントします」なんて言いながら。

 ポチポチつきあい始めてた頃かな。まあ、当時いろいろ問題もあったからあんまり詳しくは話されへんけど、番組を私物化して愛の唄を歌ってたわけです(笑)。

 

明日は晴れる

 この新曲は僕の作詞・作曲です。50代になったら、前向きなだけじゃダメで、諦めるところから始めないかん。とりあえず溜め込まないで吠えて、明日はまた違った気分でやりましょうやという内容で、ちょっとくたびれ路線にしてみました(笑)。

 同世代の人たちが、自分たちが歌える唄がないと言ってるのを聞くと、唄に携わっている人間として責任の一端を感じます。そう言ってる人たちが聴いてくれるといいんですけどね。

 芸能生活35年突破です。さすがにコンサートで走り回るというのは、いつもでやれるか体と相談です。僕の唄が、同世代の「元気」になれば嬉しい。     

 

どの写真を持って行ったのでしょうね