ジュリーは単独スカウトされるはずだった

 

 " ナンバ一番 " では、毎月ファン投票でバンドの人気順位が発表していた。41年の8月まではリンド&リンダースがトップを独占していたが、6月ついにファニーズが1位におどり出す。この月、たまたの出演していたのが内田裕也とブルージーンズだ。

 内田はジュリーの甘いムードと清潔感が、女性ファンに強烈にアッピールするのを見逃さなかった。

 「ジュリーの魅力にぼくは注目した。彼のボーカルを中心にして、新しいバンドを結成したら成功するんじゃないか ? その考えをあたためて、9月に " ナンバ一番 " に出演したとき、彼を誘うたもりだった。ところが最初見たときから3ヵ月で、ファニーズ全体が素晴らしく成長している。これなら5人一緒でもいいと思い直し、バンマスと話し合いたいというと、ピーがやって来た」

 当時のファニーズには正式なリーダーが決まっていなかったが、メンバーが相談の上、ピーを使者に立てたのだ。芸能人の運命はひょんなことで変る。もし、はじめの予定通り、内田がジュリーだけに白羽の矢を立てたら、現在のタイガースはあり得なかったかも知れない。

 内田はいう。「ぼくはピーに " キミたちを絶対に東京へ呼ぶから、ヨソの誘いがあっても断ってくれと釘を刺した。そして帰京するとすぐ、渡辺プロにファニーズはきっとのびると推せんした。ところが池田主任も松下部長も、まだ早期尚早だろうと話にのってくれない。困った、ピーからは " どうなりましたか ? " と何度も問い合わせてくる。ぼくには絶対自信があったが、どうにもならなかった」

 俗にいう蛇のナマ殺しだ。日本一の芸能プロにスカウトされるかされないか ? それは天国と地獄ほどの差があった。不安と焦操にかられて、ジュリーたちは落ちつけない。 " タンポポ " というパチンコ屋で、イライラする気をしずめようと、時間をつぶしては吉報を待った。

 だが、神はファニーズを見捨てなかった。たまたまワイルド・ワンズの人気が上げ潮になったのを機会に、渡辺プロが新グループのスカウトに踏み切ったのだ。チャーリ石黒、池田主任とともに急きょ下阪した松下第一制作部長は、ファニーズの人気を目撃して、はっきりとハラを決めた。

「君たちは必ずプロになれる。上京したら責任を持って面倒を見るが、未成年者だから親のサインが必要だ。近くまた来るから、意見をまとめておくようにといって帰京しました」

 5人の親たちが、京都の菊梅旅館へ集まったのは10月26日のことだ。渡辺プロといえば誰知らぬ者もないが、息子たちにそれだけの将来性があるのか ? プロダクションのいうことを手放しで喜んでいいのか、親たちの議論は沸騰した。結論は「本人たちが真剣にやる覚悟をしているのだから、やるだけやらせてはどうだろうか」ということになった。

 正式契約がすみ、28日には " ナンバ一番 " の社長の肝入りで、ファニーズのサヨナラ公演が行われたのだ。

 田島喜多乃さんは、いまだにその日のジュリーの面影を胸にやきつけている。

「ジュリーの『イエスタデー』『一人ぼっちのあいつ』を、みんな涙をこらえてききました。最後にジュリーが涙の粒を光らせて " みなさん、ぼくたちはきっと日本中に知られるバンドになって、きょうまでのご声援にむくいる覚悟です。お別れに『蛍の光』をコーラスしてください・・・・。 " って呼びかけたの。ステージの5人も泣きながらうたった、ファンもオイオイ泣いちゃって " 東京へ行っちゃあイヤ ! " " 早くまた帰って来て ! " って叫んだのよ」

 11月3日には、京都の植物園でFFCのお別れ会があった。会員のひとり高山広紀さんは、その日のことをはっきりと記憶している。

「涙を見せると余計につらくなるから、きょうはジュリーたちと1日楽しく遊びましょうって、あらかじめ約束したんです。とてもお天気のいい日で、ジュリーたちとファンが子どもみたいに手をつなぎ合い、 " あの子が欲しい、この子かが欲しい " って、無邪気に遊戯をしたり・・・・。帰りはバスで高島屋前まで来て解散という予定でしたが、いざとなったらどうしてもサヨナラがいえないの。 " きっとまた帰って来てね " " キミたちも元気でね " って、寒い夕方の風の中で、1時間以上も別れを惜しんだんです」

 涙、涙のファンに見送られ、ファニーズが京都駅から上り超特急ひかりに乗り込んだのは、41年11月9日のことだ。