3 どん底時代のジュリーを支えた女性たち

 

 ジュリーが『田園』でうたっていた40年の12月も押しつまったある日、彼の前へはじめて現れたのが瞳みのるだ。

 ピーは北野中学校で一緒だった岸部、森本、加橋と4人で、ファニーズというバンドを結成していた。「キミの歌に惚れたんや。ちょうどボーカルを探してるところやが、仲間になってくれへんか ? 」という。ジュリーの心が動いたのは、全員が同じ18歳で、しかも京都っ子だったからだ。

 翌年2月、ファニーズは大阪のジャズ喫茶 " ナンバ一番 " のオーディションを受けたが、そのとき審査に当たった音楽担当の梨羽文郎氏は、意外な話をする。「あのときは2つのバンドが受けに来たが、ファニーズは最初落ちた。ところが採用した方のバンドのエレクトーン奏者が急に他へスカウトされたので、それならとファニーズに替えたんです。当時から沢田君は司会とボーカルをやっていたが、決してうまいとはいえなかった。しかし先天性にファンをつかむ演出を心得ていたんでしょう。さっと客席のファンを指して何かアドリブで語りかける。ワッとわく、エンターテイナーでありたいという勉強は、いつも欠かさなかったようですね」

 3月には専属契約を結んだが、こうなるとめいめい京都から通うのが大変だ。ピーは親に勘当され、他の4人も家出同様にして、釜ヶ崎に近い西成区千本通りの安アパート明月荘へ転がり込んだ。3畳2部屋で家賃6千円、ゴキブリがわがもの顔にハバをきかせていた。

 管理人のオバサンが思い出話をしてくれた。「前から住んでいた宇野山さん(元リンド&リンダース)の紹介で、はじめ瞳さん、沢田さん、森本さんの3人に、1階3畳2つ貸すことにしたんやで。そしたらもう2人泊り込みなはった。みんなとおなしそうなボンでな、よくレコード鳴らしたり、ジャズいうのか、英語みたよな歌を熱心にうたってたわ。まさかあんときは、今みたようなエライ人になるとは思わなかったもんなァ」

 洗濯もやった、自炊もした。むろん練習は死に物狂いだった夢は大きく果てしなかったが、 " ナンバ一番 " のギャラだけでは、空腹でたまらない。ツテを求めて、ダンスパーティーの演奏をしては飢えをしのいだ。

 このファニーズのためにファン・クラブ(FFC)をつくろうと呼びかけたのが、元ビートルズ大阪ファン・クラブ会長をしていた森ますみさんだ。

 「 " ナンバ一番 " でファニーズを声援してる女のコたちが約100人集まって、FFCを結成したんです。他のバンドと違って、あの5人はいじらしいくらいマジメだったわ。でも明月荘へ行ったとき、ジュリーだけが壁に向かって何か考え込んでいるみたいだった。ただ疲れたからというんじゃなくて、もっと思いつめたような感で・・・・。たまに私の家へ招待して、おすしや天ぷらを食べてもらったけど、いまはそれもなつかしい思い出ね」

 もうひとり、FFC時代からのジュリー・ファン(現在はタイガース・ファン・クラブ関西支部長)田島多喜乃さんんはいう。「ファンが学校さぼって行ったりすると、ダメじゃないのってすごく怒るの。テストの時期になると、どうだった、うまくデキタ ? なんて心配してくれたし・・・・。だから私たちもアパートへ押しかけたりしないで、自分たちでこしらえたお弁当や、熱いお味噌汁を交代で楽屋へとどけてあげたの」

 無名時代のジュリーを精神的に支えていたのは、こういう女性ファンたちだった。