GSの急激な失速の理由

 

近田 GSは、タイガースとカップスがデビューした翌年である昭和43年に爛熟期を迎え、明くる44年は急激に失速を始めた感があります。当事者としては、その状況をどのように見つめていましたか。

 やっぱり、あまりにも多くのバンドがデビューしすぎたよね。すぎやまさんにしても鈴木邦彦さんにしても、最初はいい曲書いてたけど、GSブームの後半になると、あまりにも忙しくなって、楽曲もマンネリ化しちゃった。

近田 見る見るうちに尻すぼみとなっていったよね。子どもの話題にも上がらなくなった。

 その流れは、あれだれの社会現象を巻き起こしたタイガースですら止めることができなかった。タイガースの人気が傾くと、親亀こけたらみなこけたっていう具合に、GSというムーヴメントは終息に向かって行ったんだよね。

 当時のエディは、そういう印象を抱いてたんだ。

 GSブームの途中から、英米では、ニューロックが興隆し始めたじゃない ?  ただ、日本には、ああいうヒッピーぽい文化を受け入れる土壌が存在しなかった。体質的に合わないと思うんだよね。

近田 GSが範としていた洋楽は、本場では一時代前の存在となっていた。かといって、最新のサウンドを輸入しようと思っても、そう簡単にはいかなかったということですね。

 そもそも、GSを支えたレコード会社や事務所のスタッフたちは、バンドのメンバーたちが夢中になっていた同時代の洋楽、ビートルズやストーンズには興味がなかった。ロカビリーやカントリー&ウエスタンが中心の世代の人間だったからね。

近田 作家にしたって、すぎやまさんはクラッシック、鈴木邦彦さんや筒美京平さんはジャズをやりたかったわけですもんね。

 GSバンドが、しっかり足腰を鍛えて自立して、周囲から何を言われようとやりたいことをやり通すぐらいの力を持てばよかったんだけどね。要するに会社側は、売れる時に売る、儲けられる間は儲けるってことしか考えてない。稼げるだけ稼いだら、看板をかけ替えて次のことやればいいって安直な発想なんですよ。

近田 業界がGSに見切りをつけるのが早かったってことですね。

 カントリー&ウエスタンからロカビリー、ロカビリーからGS、GSからフォークって、流行りに乗って変わり身ばっかり続けてたら、そんな連中には何も残らないよ。周りの世の中なんて関係なく、馬鹿の一念でもいいから貫き通したなら、ローリング・ストーンズみたいにだってなり得たかもしれない。

近田 ストーンズは、いつだって今が一番カッコいいですもんね。

 それがロックですよ。

 

 ピーの芸能界への復活

 

近田 タイガースが解散した昭和46年、沢田さんたちは、PYGを結成します。タイガース、テンプターズ、スパイダースの元メンバーを糾合したPYGは、瞳さんの目からご覧ななった時、GSの範疇に入りますか。それとも、GSの次の時代へ移行したバンドだったと思いますか。

 結局、GSの残党ですからね、あくまでもGSですよ。

近田 瞳さんは、タイガースの解散後、誰もが思ってみない道へと進みます。慶應義塾大学文学部に入学して中国文学を学ぶ。その後は、大学院を経て慶應高校の教員となり、漢文や中国語の授業を担当します。

 結局、33年間にわたって教壇に立ったんですよね。

近田 僕も、慶應高校の出身なんですよ。一度落第して、4年間通いました(笑)。

 慶應の同窓会である三田会でも、音楽のヒエラルキーの中で一番丁重に扱われるのはクラッシックやオペラの連中。次にジャス、そしてポピュラーが来て、GSみたいな大衆音楽は何段も低く見なされるんですね。それが嫌で、僕は三田会からは脱会しちゃった。

 GSって、ロックの中でも地位が低い。ずっと虐げられてきたよな。

近田 タイガースは、解散後に散発的な形で再結成を繰り返しますが、長い間、瞳さんがそこに参加することはありませんでした。

 そもそも、僕はタイガースのメンバーとの連絡を完全に断っていましたから。2人の息にさえ、18歳になるまでは、自分がタイガースのピーだったことを隠し通していた。

近田 そんな瞳さんが、2011年になって芸能界に復帰することになったのは、何がきっかけだったんですか。

 2008年に、タイガースの初代マネージャーだった中井國二さんが、僕の職場である慶應高校の文化祭に尋ねてきたんですよ。たまたま僕は不在にしていたので、彼は、自分に電話をかけてほしいという伝言を名刺の裏に残し、僕が顧問を務めていた奇術部の生徒にそれを託していった。

近田 それは驚きますよね。

 電話をして、いざ中井さんに会ったら、まず、「仲のよかった5人をバラバラにしたのは僕たちの責任だ」と謝罪する。顔を合わせる前は、ナベプロの回し者ぐらいに思っていたけど、この人は嘘をつかない人なんだろうなと、改めて信頼することができた。

 何か予兆はあったの ?

 その直前、加橋を除くタイガースの面々がNHKの「SONGS」に出て、「ロング・グッドバイ」という曲を歌っていたことを、同僚のフランス語講師から聞かされてはいた。その曲には、ずっと会っていない僕に対するメッセージが込められているらしいと。

近田 そして、メンバーとも再会するわけですね。

 道玄坂の日本料理屋にかつみ以外の面々と中井さんが集まったんだけど、最初は、この会合の目的に対して懐疑的な部分があって、みんな態度が硬いわけ。特に、沢田研二や岸部一徳なんかは、自分が何かいいように利用されるんじやないかと身構えている(笑)。よりによってピーが来たってところに、怪しい魂胆を感じたんだろうね。だけど、杯を重ねるにつれてその態度は和らぎ、バンド結成前の友達同士にみるみる戻っていった。

 

 全員揃った東京ドーム公演

 

近田 2011年には沢田さんのコンサートに一徳さんや太郎さんさもにゲスト出演。2013年には、タイガースのオリジナルメンバー全員が揃い、ツアーを行います。

 加橋に出てもらうのには苦労しましたよ。帝国ホテルに来てもらって、5、6時間かれて説得したものの、首を縦に振らない。うんざりしましたよ。それを聞いた沢田が、じゃあ、俺が代わりに口説き落とすと言う。もう無理だと思ったけど、沢田は偉いよ。執念で加橋にうんと言わせた。

近田 最後の東京ドーム公演には、シロー君も車椅子に乗ってゲスト出演しました。

 今思えば、いい記念になりましたね。

近田 晩年のシロー君は、自己破産を余儀なくされるなど、経済的に困窮しました。

 タイガースのみんなで飯食ったりタクシーに乗ったりした時、あいつが財布を開くところを一度も見たことがない(笑)。飲む打つ買うを一切やらないあんなケチが、何で破産しちゃうのかと不思議でしょうがなかったよ。

藩 借金問題で「ルックルックこんにちは」の司会から降板した後、シローは俺の家によく来てたんだよ。その頃、鈴木ヒロミツが甲斐甲斐しん面倒を見ててさ、「シローに飯でも食わせてくれ」って言うから。

近田 いい友達に恵まれたよね。

 シローは、俺の家に上がって、当たり前のような顔してフカヒレか何か食ってササッと帰っていった。特にサンキューも何も言わずにね(笑)。物怖じしないんだよ。

近田 分かるなあ、その感じ。

 2020年には、残念ながらそのシローも亡くなってしまった。後から入ったシロー以外のオリジナルメンバーは、幸いみんな健在です。

 うれやましいよ。ゴールデン・カップスのオリジナルメンバーで生き残ってるのは、もう俺だけだもん。まあ、カップスはみんな不摂生だったからね(笑)。

 僕も今年(2022年)、76歳を迎えましたけど、3歳の子どもがいるんですよ。

近田 えっ、孫じゃなくて ?

瞳 そう。再婚した妻との間に、72歳の時に息子かが生まれまして。

 俺よりもさらに1つ年上だっていうのに、元気にもほどがあるよ(笑)。

近田 GSの記憶を後世へと語り継ぐために、お二人にはまだまた長生きしていただきたいものです(笑)。