謎の音、エレキにしびれる

 

近田 エディ藩は・・・・というと他人行儀だから、本名の藩廣源から採った普段の呼び方でコウちゃんと呼ばせてもらうけど、バンドを組むきっかけは何だったの ?

藩 横浜中華街の「鴻昌」という中華料理店の跡取りとして生まれた僕は、幼稚園から小学校まで、インターナショナルスクールに通っていた。その後、自分は中学校から関東学院に進んだんだけど、小学校時代の大概の同級生は、山手にあったセントラル・ジョセフというインターナショナルスクールに上がるわけ。

近田 セントラル・ジョセフ、今は閉校しちゃいましたね。

藩 そんなある日、ラジオを聴いていたら、リッキー・ネルソンやエルヴィス・プレスリーが歌う後ろで、グワングワンと鳴り響く謎の音の存在が気になった。

近田 つまり、それがエレキギターの音だったわけね。

藩 そう。その後、自分の目の前で、インター時代の先輩がエレキの音を出したのを聴いた時は、「もうこれはダメだ。俺は一生この音と付き合っていこう」と思ったんだ。

瞳 まさに、エレキにしびれちゃったんだ(笑)。

藩 そして、楽器店でギターを習い始めて、2回ぐらい通った時に、そこの親父が、「ちょつと今日、『クリスサイド』に行ってくれない ? 」と言う。

近田 クリスサイドは、今も元町の坂の上にあるダンスホールですよね。

藩 あそこでやってる音楽っていうのは、グレン・ミラーとかベニー・グッドマンといったスウィングジャズなわけ。つまり、俺には全然縁のないジャンルなんだよ。

近田 何でまた、そこに行かされたわけ ?

藩 俺だってそう思ったよ。「まだギターなんてちゃんと弾けませんよ」と言ったんだけど、「いいから、いいから」と言って、無理矢理送り出された。現場に着いたら、ものすごい人数のオーケストラが揃っている。管楽器だけでも、10人ぐらいいるんだから。

近田 相当本格的だね。

藩 ところが、聞いてみると、本当に吹けるのはそのうちの4人ぐらいなんだって(笑)。

近田 見かけ倒し。外面だけ整えてたんだ。 

藩 さらに、ギターだつて何人もいた。俺も突っ立って、弾いてる振りしてたよ。

瞳 タイガースに入った頃の岸部シローと一緒だよ。まさにエアギター(笑)。

藩 恐らく、楽器屋の親父は、俺の分のギャラを懐に入れてた。つまり、こっちはギターを習う月謝を払ってた側なのに、いいように利用されてたんだよね(笑)。

近田 ひどい話だな(笑)。

藩 その後、桜木町のジャズ喫茶に出入りしたりするうち、音楽の趣味が近い横浜の腕自慢の連中と知り合うことになる。ディヴ平尾とか、ケネス伊東とかさ。

近田 つまり、カップスを構成するメンバーですね。

 

 アメリカでの音楽的原体験

 

藩 俺は、関東学院高校を卒業するに当たって、両親に頼み込んだんだよ。帰ってきたら店の手伝いでも何でもやるから、アメリカに行かせてくれって。親がその条件を飲んでくれたから、サンフランシスコに渡ったところ、偶然、ディヴ平尾に出会ってしまった。

近田 海外旅行が珍しかった当時としては、なかなかない巡り合わせですよ。

(少し省略)

藩 日本に帰って、久しぶりに平尾に会ったら、ファッションが様変わりしていた。完全にアメリカかぶれでさ、ロングヘアに横縞のTシャツ着て、細身のジーンズはいてるわけ。

近田 つまりフラワージェネレーションそのまま。

 「今、バンドやってるから」というから、本牧のライブハウス「ゴールデン・カップス」まで観に行ったんだ。演奏はまあまあだったけど、平尾と他のメンバーの見てくれの落差が激しくてさ。平尾はラブ&ピースな格好してるのに、後ろのバンドはアイビーカットで何だか真面目そうな衣装を着てるんだから。

近田 ちぐはぐですね(笑)。

 平尾に「正直に感想を言ってくれ」と求められたんで、「メンバーのセンスのバランスが取れてない」と返したんだ。そしたら、「じゃあ、お前、新しいメンバー探してくれないかな」と言う。そんなきっかけから俺が集めた面子が、 "平尾時宗とグループ・アンド・アイ」というバンドを結成した。

近田 どんな曲がレパートリーだったんですか。

 ケネス伊東なんかは日系二世で父親が米軍に勤めてたから、アメリカの新しいレコードがいち早く手に入る。ザ・ポール・バターフィルド・ブルース・バンドとか、黒っぽいものを聴いて、すぐにステージに採り入れてたね。

近田 拠点は本牧の「ゴールデン・カップス」だったんだよね。

(少し省略)

近田 それが昭和何年ぐらい ?

 昭和41年から42年にかけての話だね。

 

 デビュー曲「僕のマリー」への抵抗感

 

近田 同じ頃、ファニーズの方はどんな状況でしたか。

 あっという間に人気が急上昇しました。その時分、サベージの姫路公演の前座を務めたことがあるんですけど、僕らの演奏が終わったら、大方のお客さんが帰っちゃった。サベージの連中、みんな気を悪くしちゃってね(笑)。

近田 そんな状況だから、ファニーズにはスカウトが殺到したそうですね。

 ええ。松竹芸能やスパイダクションからもオファーが舞い込んだ。ただ、スパイダクションは、3人だけ来てくれればいいと言うんですよ。沢田と森本と岸部だけで十分、僕と加橋は要らないと(笑)。(これはスパイダクションではありません)

近田 ずいぶんはっきり言いますね。

 やっぱり、それは沢田が断りました。どうしても5人じゃないと嫌だということで。

近田 結局、寺内タケシとブルージーンズのヴォーカルとして、「ナンバ一番」に出演していた内田裕也さんに見染められて、渡辺プロと契約することになります。

 その頃、作詞家の橋本淳さんも、東京からわざわざ観に来てたんですよ。

近田 フジテレビの「ザ・ヒットパレード」のディレクターだったすぎやまこういちさんに私設アシスタントとして、こき使われいた時期ですね。

 僕らに会ったら、藪から棒に「私は奴隷です」とこぼす。驚いてよくよく聞くと、すぎやまこういちさんの代理として観に行ってこいと命じられたんだという。その奴隷が、翌年、僕らにデビュー曲「僕のマリー」の歌詞を提供するとは思わなかった(笑)。

近田 あのシングルの作曲は、親分のすぎやまこういちさんでした。その曲想を得るために、子分を大阪まで遣わしたってことなんでしょうね。

 考えてみれば、昭和41年の2月から「ナンバ一番」に出始めて、その年の11月には上京、翌年2月にはデビューしたから、下積み期間はあんまりなかったんですよ。苦労が人を成長させるという面はあるけど、私見では、下積みがあまりにも長いと、性格がひがみっぽくなる場合が多い(笑)。その意味では、僕らは恵まれていたと思います。

近田 「僕のマリー」を受け取った時は、どんな感想を持ちましたか。

 すごい抵抗感を覚えましたよ。何でこんな歌謡曲やらなきゃいけないんだと思った。

近田 僕も、まるっきりそう思ったんですよ。当人が同じ気持ちを抱いていたと知って、自分の印象は間違いじやなかっんだとお墨付きを得た気がします。