加橋さんの脱退が終わりの始まり

━━次の「青い鳥」(S43年12月)では、何か変化を付けようと思ったのか、メンバーの森本太郎さんが自らの詞曲を手がけています。

近田 スパイダースやブルコメみたいに、メンバーも曲を作れるんだということを見せつけたかったのかもしれない。これもまあ、童謡っぽい楽曲だよね。その次の「美しき愛の掟」(S44年3月)は、同時代のサイケデリックなロックを意識した大袈裟な曲だよね。

━━ちょうどこの頃、昭和44年3月には、加橋さんがタイガースから脱退します。

近田 傍から見ていても、ここに至る1年間ぐらいの加橋さんの顔から表情が失われて いた。リードヴォーカルが2人という体制になったことで、新たな軋轢が生じたのかな。加橋さんの脱退は、タイガースの終わりの始まりだったと思う。

━━代わりに加入したのが、岸部おさみさんの弟である岸部シローさん。

近田 俺、個人的に親交があったからシロー君と呼ばせてもらうけど、彼は、タイガースへの参加以前にアメリカで生活していたこともあって、ヒッピー的な感覚を持っつ自由人だった。でも、GSって、統一されたユニフォームからも分かる通り、連帯感を売りにするようなところがあるから、その価値観において齟齬があった。

━━加入時点では、シローさんはまだギターが弾けなかったそうですね。その後に練習を重ねて演奏できるようになったと聞きます。

近田 やっぱり、加橋さんのリードギターには、ワン&オンリーなものがあった。それが抜けた時、シロー君で埋め合わせをするのは難しかったことは確か。ちなみに、加橋さんの後任を探すに当たっては、すぐにシロー君が抜擢されたわけじゃなくて、実は、ザ・ゴールデン・カップスのエディ藩にも声がかかっていたらしい。

━━これ以降のシングルは、正直、後世に名を残しているとは言い難いですね。

近田 「スマイル・フォー・ミー」(S44年7月)は、ビー・ジーズのバリー・ギブとモーリス・ギブが書き下ろした英語詞の楽曲。もともと、タイガースのコーラスワークには初期ビー・ジーズの影響が非常に色濃かった。この曲、沢田さんがリードヴォーカルだけど、本当だったら加橋さんが歌うのにふさわしいタイプのナンバーなんだよね。

━━その後の数枚を経て、「誓いの明日」(S45年11月)が最後のシングルとなります。

近田 申し訳ないけど、俺ですら聴いたことがない。もう、完全にGSから気持ちが離れていたんだね。GSに関するその体感温度の変化は世間一般も同様で、ちょうど加橋さんがタイガースを辞めた昭和44年春あたりから、急速に熱が冷めてきた。

━━セールスも急降下しますね。

近田 加橋さんが抜けてからのタイガースのサウンドは、GSっぽさがだんだん薄くなっていった。それはそれで、いい味わいがあるんだけどね。そこには、シロー君の加入が影響を及ぼしていたと思う。もうちょっと、岸部シローは評価されてもいいんじゃないかな。

━━タイガース解散後、シローとブレッド&バター名義でリリースした「ムーンライト」(S47年3月)は、和製フォークロックの名盤として再評価を受けています。

近田 彼は、洋楽的な視点から日本の音楽を眺められる、稀有な人材だったんだよ。

━━タイガースが武道館公演をもって解散したのは、昭和46年1月。レコードデビューから4年後のことでした。意外なほどに活動期間は短かったんですね。

近田 GSというムーヴメントがここまで続いたのは、ひとえにタイガースの存在ゆえのことだったと思うよ。彼らがギアを入れてなければ、GSは「ブルー・シャトウ」で終わっていた。スパイダースとブルー・コメッツ、タイガースという三本柱があって、そこにいろんな要素が付け加えられていくというのが、GSの歴史的構図だったんだよね。

 

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