kimi-303のブログ 目覚まし時計のいらない朝

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1年だけと親に言い、スーツケース一つで渡米して憧れだったアメリカ生活、気がついたらあっという間にアメリカ生活の方が長くなってしまった。優しい旦那君とワンコ達との生活と私の感じたアメリカ、私の経験したアメリカを記載していきます。

私は大分心配性である。まだ起きるかどうかわからいのに、色々考えてしまう。心配だからそれに備えて準備万端にしてしまう。そうやってどうにか自分でコントロールができる形にもっていければ、まぁどうにか安心できる。

 

しかし時には、その準備ができないことがある。どうなるのだろう?と想像を巡らせることはできても、「これでなんとか大丈夫だろう」という落ち着きみたいなものが取り戻せない事がある。

 

なんとそれが今なのである。そして気が付いた・・・ありゃ?なんだか何も手につかない状況にいる?なんていうの?頭の中で文字や単語がプカプカ浮いちゃっているみたいな。やらなきゃいけない事リストを作らなきゃって思うんだけど、なかなか行動に移せない・・・

 

あと3週間で帰国するといった時に、母が風邪をこじらせ衰弱、脱水症状を起こし、緊急入院となり、入院した当日トイレで転び、右の足の付け根と恥骨を骨折してしまうという一大事が起きてしまった。

 

不幸中の幸いとはこの事か?もし母の人生で不幸にもいつか「転ぶ」という事が組み込まれていたとしても、それが病院内で起きたという事。それも今日から入院生活という日に、ナースコールがついているトイレで転倒したという「幸い」。

 

しかしここからが手探りの世界にはいってしまうのだ。

 

母も私も妹も、転倒して手首を骨折した経験がある。「あっ!やっちまった!」と思った時は体は宙を舞い、哀れにも無様な姿で落下し、手首骨折。手首の骨折は中高年者の女性によくある骨折ということらしいが、完治までに時間がかかるし、痛いし、なんていっても生活するのに不自由である。

 

母は複雑骨折で、手首に工事現場で使うような金具が装着された状態だったし、妹に関しては両手首を骨折。何もできない状態で3ヶ月も入院生活を送った。私が一番軽いといっちゃぁ軽かったが、それでも金具で骨をつなぐ手術をした。

 

今回の母の骨折は右足の付け根と恥骨。骨折だけど、なんていうの?ヒビが入ったような感じの骨折らしい。それも歩くのに絶対動く骨。でもギブスができない箇所。おまけに骨粗しょう症。骨が砕けなかっただけラッキーだったのかもしれないが、入院2週間目に入った今でも、痛くて立てないし、トイレには看護師さんの介助がないといけない状態だということだ。もちろん歩けないので車イスである。

 

妹と私は毎日、「転ばないようにね!」と言っていた。母も転んで骨を折ってしまって、入院でもしたら、もう家に帰ってこれないよねぇ~なんて言っていた。それが現実となってしまったのだ。

 

転んだ事は責められない、不注意とかそういうものではなく、「あっ!やっちまった!」なのだから。

 

体が衰弱していて、フラフラなのに、トイレには行きたくなる。ナースコールをすればよかったのだが、多分自分で行けると判断してしまったのであろう。

 

町の包括支援センターの母を担当してくれるケアーマネージャーの方には父の頃かお世話になっている。父は要介護4の介護の資格だったが、母はずっと要支援1だ。

 

昨年、CTスキャンで脳にかなりの萎縮がみられるということで、正式に認知症と診断されがが、それでも介護保険の認定資格は変えてもらえなかった。母がしっかりしすぎていた事と、町の介護に当てる予算の関係なのだろう。

 

要支援までは町の包括支援センターの管轄だが、要介護となると、指定の看護支援の団体に管轄が変わる。父の時に経験したのだが、看護支援の団体は問い合わせや相談をするのに、電話かFAXのみで、今の包括支援センターのようにメールで対応してもらうことが出来ない。私のように海外に住む家族にすると、不便である。

 

しかし今回はもう要支援では生活は無理。医者からは退院後に一人で暮らすのは無理ですとはっきりと言われてしまっている。ケアーマネージャーにも病院から直接診断状況が伝えられている。

 

私も妹も、母の認知の症状は把握している。というか実は今に始まったことではないのだ。もうかれこれ10年くらい前から「?」という行動、言動がみられていた。もちろん主治医の先生にもケアーマネージャーにも伝えていたが、彼らはプロ。何十人、何百人という高齢者を見ている。母なんてもう軽い、軽いだったのであろう。変化がわかるのは家族だけ。

 

最近ガクっと出来なくなったのは、「食事」をちゃんと取る事と「歩く」事。

 

母のマンションから300mくらいのところにある、スーパーマーケットにも行けない(行かない)でも、700mのバス停までは、病院に行くためにがんばって行ける(苦笑)。それも最近は歩く事に自信がなくなり、それこそ何かあってはと、タクシーを使うように言っていたので、病院にはタクシーを使っていたようだ。

 

何か「やらなきゃならない事」がないと、家から出ない。だから新聞の購読は続けていた。マンションの8階に住んでいる母は、1階の郵便受けまで新聞を取りにいかなければならない。もちろんエレベーターがあるが、部屋が一番エレベーターから遠いので、歩く運動には丁度いいのである。なんども「新聞いらないか?」母は聞いてきたが、新聞を取りの日課がないと、本当に歩く機会が少なくなっちゃうから、新聞はエクササイズだよっと言って、購読を継続していた。

 

困ったのは「食事」。

 

これは若くても、一人暮らしだと自分の分だけ作るっていうのはめんどくさい。お弁当の配達も週に2回「見守りサービス」の一環でお願いしていたが、食欲がないといって、手も付けず、食べるという努力をしなくなってしまった。

 

歩行が困難、食事や健康管理ができない(これには認知症も深く関係しているのだと思う)。これでは88歳の高齢の母に一人暮らしは難しい。

 

問題は母にそういう自覚がないことなのである。あれだけ骨でも折って入院したら、もう帰ってこれないよねぇ~って自分でも言っていたのに、今正に自分がそうなっちゃっているって、なんだかわかっていないようなのである。

 

そして介護支援施設に入所することが、もう人生の最終地点にいってしまうみたいに思っている母は、なんとしてでも入所したくないのである。

 

私も妹も「もうさ、一人で生活は無理だよ」と喉から手がでるほど言いたいが、母の性格からそんなことを言ったら(もうだめなんだ・・・)って鬱になってしまうだろう。

 

私も妹も、なんとか自分から今まで以上の生活介助が必要になってくると自覚するように、毎日遠回しに、ほのめかしているのだが、今のところ、「そうねぇ?」とか「どうしようかねぇ?」という言葉は一度も出てこない。多分自分が置かれている現実を把握するということが出来なくなってしまっているのか、それとも現実逃避なのかもしれない。

 

脳の萎縮は「思考」する場所にかなりの萎縮がみられるということだった・・・こういう事か?

 

そろそろ色々と準備していかなきゃなぁと、今回在留カードが申請できるビザを取得したわけだが、まさかこんなに大きな問題にいきなり衝突してしまうとは・・・

 

心配性の私はやらなきゃならないことを頭の中で整理しなければならないのに、なんだか「何も手につかない」。主治医の先生やケアーマネージャーから話を聞くまでは、そして実際に母に会ってどんな様子なのか確認するまでは、なんとも落ち着かないのである。

 

今後の母の生活が「苦」や「悲」の生活にならないようにどうやって母の心のケアをしていくか、そしてどうやって「介助のある生活が必要になってきちゃったね」って自分から感じるように導いていくか・・・とにかく出来る事をやっていこう。私たち家族があきらめちゃったらダメだ。頑張ってサポートしていかなきゃ、もうそれしかない。