仕事終わりの改札を抜けると、ポケットの中でスマホが明滅した。

――『今日は会えるよね?』
――『不死川くんと過ごす時間が本当幸せ』

画面に浮かぶ文字をしばらく眺め、実弥は短く息を吐いた。
足は、わかっているのに同じ方向へ向かっていく。
自分で選んだはずの道が、今は妙に狭く感じられた。

待ち合わせの角。
女の子はすぐ見つかった。
明るい笑顔で手を振り、当然のように腕へ絡んでくる。

「不死川くん! 来てくれてありがとう」

並んで歩き出すと、足どりは恋人同士のそれにしか見えない。
街灯が二人の影を寄せて、舗道にひとつの線を作った。

「ねぇ、不死川くん」

女の子が横顔を覗き込む。

「私たち、付き合ってるよね? 私は恋人だと思ってるよ」

言い切ってから、さらに踏み込む。

「今日はずっと一緒に居たい。帰りたくない」

その瞳には疑いがなかった。
――ここまで、ずっと曖昧にしてきた自分の影が、胸の内側で音を立てる。

実弥は立ち止まった。
袖に残る彼女の手が、わずかに引かれる。

「……勘違いさせて悪りぃが……」

声は低いが、揺れなかった。

「俺が愛してるのは一人だけだ。お前に甘えてたんだ。すまない」

女の子の瞳が見開かれる。

「……え?」

「もう二度と連絡してくんな」

水紋を見つめたまま、静かに続ける。

「俺には、帰る場所がある」

実弥はポケットからスマホを取り出した。
護岸の手すりに近づき、夜風をひとつ吸い込む。
次の瞬間、黒い板は弧を描いて川面へ落ちた。
水音が短く弾け、灯りが輪を広げる。

「え? 今までなんだったの?」

女の子の声が震えた。

「ずっと会ってくれてたじゃない。……私、本気だったのに」

返事はしない。
実弥は一度だけ軽く頭を下げ、踵を返した。
背中へ投げかけられる小さな嗚咽が、夜風にほどけていく。

家の灯りが見えたとき、胸の奥に絡みついていた縄が、ようやく少し緩んだ気がした。
鍵を回し、扉を開ける。

「あ、おかえり」

あなたが小走りに玄関へ出てくる。
エプロンの裾が揺れて、湯気と洗剤の匂いが混じった温かい空気が流れ込む。
実弥は何も言わず、あなたを抱き寄せた。
腕が自分でも驚くほど強く震えている。

「??? どうしたの? 仕事でなんかあった? 大丈夫?」

戸惑いながらも、あなたは背中をゆっくり撫でてくれる。

「よしよし」

胸の奥で、堰が切れた。
実弥は子供みたいに、顔をうずめて泣き出した。

「……ごめん」

喉の奥で擦れた声が、何度も何度もこぼれる。

「ごめん、ごめん、ごめん……」

あなたは驚きを隠せないまま、それでも腕に力を込めて抱きしめ続けた。
額に落ちる手のひらが、熱を引き受けてくれる。
玄関に置き去りにされた冷たい夜風が、いつの間にか遠ざかっていく。

「大丈夫だよ。ここにいるよ」

耳元で落ちるその小さな声が、ようやく実弥の呼吸をゆるめた。
帰る場所は、たしかにここにある。
泣きじゃくる息の合間に、それだけがはっきりと残った。