●鈴木麻里の観劇ノート●

●鈴木麻里の観劇ノート●

市井の俳優・鈴木麻里が観劇の感想文を綴るノート

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空を見上げてたら、
突如そうとしか思えなくなった。



少なくともこの歌は、
浄土真宗のお葬式ではご法度である。
亡くなった方はただちに仏さまになるという宗旨にそぐわないということもあるけれど、
お寺さんは『千の風になって』とタイトルを聞くだけで表情がこわばる。
職業以前に生理的に受け付けないように見えるほどだ。



亡くなった人を悼む歌なのか

自らの命の終わりと世界の終わりとを一致させたがる
思考停止の呪文なのか

 マリーの口から出る言葉の真偽は措くとして、私の興味を掻き立てるのは目の前で上演されたラストシーンの真偽である。

 欣也は、マリーの元へ帰って来なかったのだと思う。

 テネシー・ウィリアムズ作『欲望という名の電車』のイメージを重ねながら観劇した。バスタブ、雨嫌い、経済的破綻、虚言癖……虚飾故の儚さが際立った美を湛えるマリーの姿にブランチを想い起こしたのは、私だけだろうか。
 ブランチはラストシーンで、精神病院へと連れ去られる。彼女は迎えの職員に大人しく附いて行った。彼が自分を身請けしてくれる紳士だと解した為である。ブランチの世界に於て、あれは飽くまで白馬の王子様の来訪であった。

 マリーが語る身の上話を立聞きして家出した欣也が、「欣也!」と呼ばれると何故か帰ってくる。ぼろぼろのなりをして、押し黙っている。戯曲のト書きに「喜んで」とある様に、マリーははしゃいで欣也にちやほやする。
 この場面に就て私は従来、育った場所から永遠に逃れられない空恐ろしさを感じていた。「ほんとのお母さんを探し出」すと言って欣也は家を出たが、それを「標本にしてしまわなきゃ」とする彼の思考は、やはりマリーに支配されている。

 今回の上演でも、確かに欣也は帰って来た。三人組の不良に絡まれた様子で、マリーは何と、日本刀を持ち出してそれを追っ払ってやった。女装をさせると、欣也は泣いた様であった。客席からは、さやかに見えない。ただ、マリーが「どうして泣いたりなんかするの?」と項垂れた少年に言ったのである。


  マリー (……)どうして泣いたりなんかするの?
           坊や
           おまえは今にこの世で一ばんきれいになるんですよ。

  笑いながら、しだいにくっきりと人形に目鼻立ちをつけてゆくうちに、ゆっくりと幕
  になる
                                                                       (寺山修司『毛皮のマリー』)


 ところが、幕は降りなかった。マリーは遂に笑っていられなくなった。何を話し掛けても答えない欣也を目の当たりにして狂乱の態となる。何処からか、子ども達のかくれんぼする声が聞こえて来る。鬼になったマリちゃんは目隠しして屈んだまま、じっと動かなくなってしまった。平たく言えば、狂ったか死んだかしたのである。

 相応の理由が必要となろう。大切な子どもが折角家に帰って来た。少々元気が無いからと言って、絶望する必要は無い。欣也は遺体となって帰って来たのである。そこへ努めて明るく話し掛けていたのである。
 いや、遺体すら帰って来なかった。欣也を追って来た不良グループを追い返すマリーの形相は凄まじかったけれども、一睨みで事が済むなんて簡単過ぎやしないか。欣也を誘惑しに来た美少女だって、マリーの威嚇でそう直ぐには逃げ出さなかったのである。

 助けを求めて帰って来た我が子を悪から守り抜く、あの出来すぎた光景はマリーの妄想だったのでは無いか。欣也は帰って来なかった。外の世界で無事に生き延びたかと言うと、残念ながら遅かれ早かれ野垂れ死にしたであろう。
 マリーが目隠しして屈んだままじっと動かなくなってしまうと、それを見た欣也はどうしたものか戸惑っている様子だった。やがてマリーに寄り添う様にそっと屈むと、一緒に目隠ししてじっと動かなくなった。これを欣也の優しさと見る事も出来る。非力と見る事も出来る。

 児童虐待が取り沙汰されている昨今、戯曲のラストシーンで描かれた不条理に、現実がすっかり肩を並べてしまった。人形と化した欣也を前にマリーが笑ったままでは、幕が降りなくなってしまった。

 毛皮のマリーの真剣こそ、現代の見世物である。マリーは日本刀を持ち出して我が子を守った。幻想の中で見せた、母としての真情である。現実から逃避して生きる脆いマリーが見せた、子を守る為の鬼が如き強さである。

 欣也を殺したのも、マリーであった。真偽の判らぬ身の上話を立聞きして、欣也は家を飛び出した。言い寄る美少女を絞め殺す残忍さは、差し詰め母に幻滅したハムレットの様である。ガートルードは母であり女であった。彼女は、自身がハムレットを死へと後押しした事にどれだけ気付いていただろうか。

 毛皮のマリーの真剣こそ、現代の見世物なのである。


引用文献 寺山修司『寺山修司 〈ちくま日本文学全集〉』(一九九一年二月、筑摩書房)