485冊目 金閣寺/三島由紀夫 | ヘタな読書も数撃ちゃ当る

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ある日突然ブンガクに目覚めた無学なオッサンが、古今東西、名作から駄作まで一心不乱に濫読し一丁前に書評を書き評価までしちゃっているブログです

「金閣寺」三島由紀夫著・・・★★★★★


恥ずかしながら、日本文学を代表し、名著の誉れ高い本書を読んだのは初めてである。

この文庫本は十数年前に買ったのだが、難解さに負け途中で放り出し、それ以降読まずに本棚に置き忘れたままになっていた。

何故か内飜足の男が出てきた事だけは記憶に残っている。

十数年ぶりでやっと本書を完読した訳だが、さて、何を書けばいいのだろうか?


取り敢えず(少々長いが)最も印象に残った記述(P134)を引用しておきたい。


そのとき金閣が現れたのである。

──近いと思えば遠く、親しくもあり隔たってもいる不可解な距離に、いつも澄明に浮んでいるあの金閣が現れたのである。

それは私と、私の志す人生の間に立ちはだかり、はじめは微細画のように小さかったものが、みるみる大きくなり、あの巧緻な模型のなかに殆ど世界を包む巨大な金閣の照応が見られたように、それは私をかこむ世界の隅々までも埋め、この世界の寸法をきっちりと充たすものになった。巨大な音楽のように世界を充たし、その音楽だけでもって、世界の意味を充足するものになった。時にはあれほど私を疎外し、私の外に屹立しているように思われた金閣が、今完全に私を包み、その構造の内部に私の位置を許していた。

下宿の娘は遠く小さく、塵のように飛び去った。娘が金閣から拒まれた以上、私の人生も拒まれていた。隈なく美に包まれながら、人生へ手を延ばすことがどうしてできよう。美の立場からしても、私に断念を要求する権利があったであろう。一方の手の指で人生に触れることは不可能である。人生に対する行為の意味が、或る瞬間に対して忠実を誓い、その瞬間を立止まらせることにあるとすれば、おそらく金閣はこれを知悉していて、わずかのあいだ私の疎外を取消し、金閣自らがそういう瞬間に化身して、私の人生への渇望の虚しさを知らせに来たのだと思われる。人生に於て、永遠に化身した瞬間は、われわれを酔わせるが、それはこのときの金閣のように、瞬間に化身した永遠の姿に比べれば、物の数ではないことを金閣は知悉していた。美の永遠的な存在が、真にわれわれの人生を阻み、生を毒するにはひとたまりもない。生が垣間見せる瞬間的な美は、こうした毒の前にひとたまりもない。それは忽ちにして崩壊し、滅亡し、生そのものも、滅亡の白茶けた光の下に露呈してしまうのである。


本書の素材となったのは、昭和25年に起きた金閣寺放火事件で、主人公は犯人の金閣寺の見習い僧、溝口養賢である。

ストーリーは溝口の独白文により、出家から放火に至るまでの日々を内省的視点から綴られている。

もちろん、この作品は事件を元にしたフィクションであり、主人公の半生や語りは三島自身の創作であり、犯人にインタビューして書いたものでは無い(たぶん)が、その犯行に至るまでの主人公の心理状態を精緻に描いている。


果たして犯人の心理状態がこんな難解さを持っていたとは思わないが、事実を超えた人間心理の不思議さと複雑さを感じる。

正直、私にはこの心理(記述)は難解過ぎてよく分らないのであるが、主人公が抱える苦悩は充分に伝わってくる。

主人公には生まれつきの吃音があり、それによる世間との齟齬が彼の中で肥大化され、無言で佇み精彩を放つ金閣の美は彼にとって憧れでもある反面、嫉妬すべき存在でもあり、ある種ストーカー的な心理状態だったのかもしれない。


若者の苦悩を描いた作品には、太宰治の「人間失格」、ドストエフスキーの「罪と罰」、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」など著名な作品が幾つかあるが、本書は一人の青年の苦悩を描いただけでなく、金閣の日本的な美を見事に描写した事で日本文学のみならず世界的にも誇る事が出来る一冊ではないだろうか。

ただ、非常に難解である為読みこなすには労力がいる。


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