さらりーまん
( 千鳥ヶ淵の夜桜 )
先日見たテレビの感想です。新橋のとある飲み屋では、全国の高校別ノートがあって勝手に書き込めるようになっていて、飲み屋に来る客が自分の卒業した高校のノートを天井一杯の棚から探し出して、そのノートに自由に書き込むことができるのだそうである。酒場というのは、酒をたしなめない自分には無縁の場所なので、番組の内容よりも高校ノートを売りにしている酒場の集客術に先ず感心をしたのでした。
この高校ノートはいわゆる落書き帳で、酒を飲んだ勢いで家庭や職場で抱いている日ごろの不平不満を書き連ねたものであろうとは、おおよその推測はつくものです。
そのノートの中から面白そうなものをピックアップして番組は構成されて、二人のサラリーマンが紹介されたのでした。一人は証券会社と思われる会社の窓際族で、もう一人は航空機会社のリストラされたパイロットでした。二人のサラリーマンがノートに書き込んだのは現在の不本意な状況でした。
二人の生い立ちや家族の様子まで放映されたので、この二人は自身のプライバシーがテレビで放映されることには無頓着であるのかと驚かされましたし、テレビで放映されることで自身を一般世間に売り込みたいという気持があったのかなとも思いました。
第一に感じたのは過去に固執しすぎではないかという点でした。
高校生時代に描いた夢なんてものは妄想もいいところで、普通は現実社会生活の中で忘却のかなたに消え去っていくものだろうと思い込んでいる私には、高校時代を懐かしむというのは想像すらできませんでした。
数十年も過ぎての高校同窓会シーンがテレビでは紹介されていました。学校の失業生で酒を飲むという行為は、生活地域で行われるサークルの飲み会同様、普段の社会生活で積み重ねた意識しないストレスを発散される場所として、もっとも自然な形としてしか理解できません。同窓会に顔を出して懐かしむのは、お互いに顔かたちが昔とは違っているのを認識するくらいで、あとは自慢話しか無いと思えるので、そういう事をよしとする者の集まりでしかないと思えるのです。
現状の不満からの脱却手段として、古い過去の利害関係の無い仲間と会話をするということが自然と受けられていくというようにも感じられました。翻って考えれば、現在よりも少し前は自信満々の満足する生活を送っていた事に対する、現状の不満のはけ口という側面かあるかももしれないという事です。
二つ目に感じたのは、こういう自分の状態を飲み屋のノートにしか書けないとという人たちの不幸さというtこでした。職場や家族には言えない辛さに対するはけ口が飲み屋のノートというのは悲しいことだな感じました。自分の近くに相談したり話したりする相手はいないのでしょうか?とも思えてしまいました。
そういう場所や場面が無いので、酒を飲んだついでに高校ノートに不平不満を書き連ねていく人がいるのかと知ったのでした。勿論、高校ノートには不平不満ばかりでなく、どうでもいいような事が大半であることは十分に理解はしているつもりです。
私も同世代として身につまされるような番組でしたが、サラリーマンとして幸福な生活を送ってきた人ほど、晩年に不遇な状況になると逃避行動として過去に逃げ帰るように思われてなりませんでした。サラリーマンの哀情ばかりが感じられた番組でした。