釧路臨港鉄道 番外篇 《知人》 | 気儘堂主人のブログ

気儘堂主人のブログ

気儘に過ごせるのはブログの世界だけ・・・
日々のことをつれづれと・・・

 




 釧路臨港鉄道のシリーズでお約束した「知人」について書きます。


 「チジン」とは読みません。「シリト」です。実は、子どもの頃「シリト」なのか「シレト」なのか迷っていました。市立図書館で、1955(昭和30)年の「広報くしろ」(釧路市の広報誌)に掲載された佐藤直太郎氏の「郷土の足あと」のシリーズが冊子になってまとめられているのを発見したので、そのまま転記します。

 シリエト
  シリは「陸地」エトは「出鼻」で、即ち「陸地の出鼻岬」のことをいうのです。漢字で「知人」
 と書いていますが、これをシレトと発音する人もありますけれども、シリトという方が正しい
 です。

 シリエトと言うと、どこかで聞いた有名な地名があります。そう「知床」ですね。北海道庁のHPのアイヌ語地名の説明を見ますと、
  シりト 「シリエトゥ」「シリトゥ」 =sir-etu=  地の鼻=岬
  シレトコ 「シリエト」「シリト」 =sir-etok= 地の突出部=岬
と微妙に違いますが、大意としては同じですね。「知床」の地名は礼文町や白老町にもあります。


 さて、知人町と言っても北側の釧路港に面して石油タンクや造船所がある区域と、西側は海、背後に急峻な崖に挟まれた南側の地域に大きく分けることができます。ここでは、南側のかつて臨港鉄道の知人駅があった周辺を取り上げます。


 知人と言うと、子どもの頃は昆布の浜と言う印象が強くありました。昆布漁が解禁の日、浜から大勢の船が白波をたてて全速力で漁場へむかう勇壮な写真の印象。漁期になると、「昨日、家の手伝いをしていくら貰った。」と言う、知人に住む漁師の子どもの話に羨ましさを覚えたものです。

 では、その昆布漁の拠点だった知人の浜に行ってみましょう。

 

 浜自体が狭くなったような気がします。今は昆布漁はしていないようです。昔のように多くの船もありませんし、2艘だけ陸揚げされた船も長いこと使われた様子もありません。作業小屋も荒れるに任せたままです。

 
  旧知人駅の線路の間に昆布が干してありました。砂利の上は乾燥が早いようです。昔は、弁天ヶ浜でも線路の間に干しているのを良く見かけました。今干している昆布は、海岸に打ち上げられたものでしょう。



 
  知人の南端、あの向こうは弁天ヶ浜になります。





  

 浜から米町の丘の上を見ると釧路埼灯台があります。初代は1891年に点灯したそうです。2代目は、白と黒だったような・・・ 



 灯台に背を向け海を眺めると、その延長線上のブイが浮かんでいます。

 


  このあたりは岩礁が多いのですが、特にブイが浮かんでいるところは「カムイルイカ」と言う岩があるそうで、昔は干潮時には岩が突き出ていたそうです。前述の佐藤氏の文章を引用します。
 
 カムイルイカ
  ・・・アイヌの伝説によるとレブンカムイ(沖の神様)がキムンカムイ(陸の神様)にあいにい
 く時に、お通りになる橋であるということであります。
  これは灯台の下あたりから、沖の向かって日本の岩が突き出て、満潮に時は暗礁になっ
 ているが、干潮の際は点々として破損した橋杭の残されたものの様に見えます。
  一名義経の橋杭橋とも呼ばれて、昔源義経が十勝の岬に向かって橋をかけようとして失
 敗した名残だといわれています。この伝説は、今から百年ばかり前にできた東蝦夷夜話と
 いう本にも載っています。なお、このカムイルイカは現在では、水成脈岩といって珍奇な自
 然現象であって、地質学上大切なものですから、近く天然記念物として保護されることに
 なっています。(1955年11月)《カムイ=神 ルイカ=橋:筆者》

 残念ながら天然記念物に指定されたと言う話は聞いていませんが、義経さんは衣川以降北海道各地に名前を残しています。



 


  臨港鉄道知人駅があった辺りです。「横綱印わた」は、北海道に住む年配の方にはおなじみだったと思います。このホーローの看板、旭川にある骨董屋さん「家どん船どん」に持っていけば幾らになるでしょうか。でも、建物があの状態でははずすのはかなり危険ですね。


 
  崖に作られた細い道。登りきると釧路埼灯台に出ます。同級生たちは、この坂を昇り降りして東栄小学校、弥生中学校(共に廃校)まで通ったのでしょう。でも、当時は欄干なんてあったのでしょうか?


 
  前にも御照会した石炭のストックヤードです。実は今、釧路炭田のことを調べているのですが、1896(明治29)年現在の釧路コールマインの前身「春鳥炭鉱」が操業を始めた当時から、このあたりまで石炭を運び船積みしたそうです。釧路港開港3年前の話です。勿論、臨港鉄道開業前でもあります。
 


 
  小、中学校のときの同期生の実家。この地区唯一の商店でした。錆びたシャッターが寂しいですね。道路が狭くて、正面から撮れませんでした。
 

 
 床屋さんもありました。こちらも、数年前に廃業してます。



 かつては活気のあった知人の町も、今ではひっそりとしていて、この文章を仕上げるために2回行きましたが、人の姿を見かけたのは昆布干しをしている人と畑仕事をしている老婆をそれぞれ一人ずつでした。昔と変わったところと言うと、賑わいがなくなったことと住宅の造りが変わったことです。昔は、どの家も昆布の作業場が家の横にありました。駅前からバスも通っていました。そして、釧路市内にこんな場所があることさえ知らない市民が大勢いることと思います。