神仏のめぐみは拝むことからは生まれない。

神仏にたのむことからは生まれない。

たのむより自分が育つことである。

神仏からよころんでもらえるほど心が育つかどうかである。

たえず真理を勉強することである。

真理がわかってそれを守れば、

そこにいくらでも幸せが準備されている。

(「常岡一郎一日一言」より)



神社やお寺にいって拝むことはとても良いことです。

その多くはパワースポットなので元気になれると思います。

ただ、拝むことは日々のお礼であって、そこで突然神様仏様にお願いごとをしても

なかなか、かなえてはもらえません。

それでも一生懸命努力していれば、気が付けば希望がかなっているものです。

全力を尽くすことが大事ということが、ひとつの真理だからです。

「誠」というのは、全力を尽くす、全身全霊で真剣に生きるということで、昔から、

「心だに誠の道にかないなば、祈らずとても神や守らん」(心が誠であれば、神様に祈らなくても守ってもらえる)

と言われています。

神社にいかなくても、誠の道を実践していれば、神様に守っていただけるということです。

さらに、たまには神社に顔を出して心から拝むようにすれば、神様にすごく喜んでもらえると思いますよ。

宇宙は真理の海である。無限の理で包まれている。

人間には今わからないことでも、

一切は整然とした理に貫かれている。

だから、たゆまず真理追及の感激をもやしつづけたい。

我々は、自分の信念を強めることよりも、

真理にすなおになることが大事である。

真理が理解できるように心魂をみがくこと。

悟った理をあくまでも見失わず実行してみること。

一つの真理から次の真理をたぐり出すこと。

これがすなおな生き方であって、固陋な信念に邪魔されて、

勉強も工夫も怠ることが一番あぶない。

(「常岡一郎 一日一言」より)


「真理にすなおになる」とはどういうことでしょうか?

これは「天地の理をすなおに感じる」ということだと思います。

自分の我欲は置いておいて、静かに自然の声を聞いてみてはどうでしょう。

花も木も虫たちもみんなそこにいますよ。

みんなすなおに楽しく一生懸命いきているでしょう。

実際に声は聞こえなくとも、何か感じることができるかもしれません。

人間社会も、この宇宙にあるかぎり本当は同じ真理に従っているはずです。

それが理解できるようになると、もっと明るくて軽々と楽しい人生に変わることでしょう。

上に枝葉が伸びる、繁る、栄える。

これは下に、大地に、暗がりの中に根が拡がっているからである。

その拡がりがなければ、枝葉の繁りは許してもらえない。

対立と調和。これが宇宙秩序の大法である。

自分と他人は対立のはじめ。

その自分は生まれた時は何も知らず、何も願わず、何も図らずにいた。

相対立するすべての人の心に光りを付け、

その光の反射で自分もたのしく生きていける。

(「常岡一郎 一日一言」より)

「対立があるからこそ調和が生まれる」そう考えると、

対立すること自体に大きな価値があると思えてきます。

誰かと対立することは、人生のなかでいくらでもあることです。

なかには、縁を断ち切ることを考えるべき対立もあるかもしれません。

でも、対立のなかから調和を見出せたとき、自分も相手にも大きな成長があるはずです。

単に対立を避けるのではなく、調和をもたらすきっかけと考えるようにしたいものです。

99人が、川の向う岸で騒いでいようとも、 

自分1人はスタスタと、

わが志したこちら側の川岸を、

わき眼もふらず、

川上に向って歩き通すほどの覚悟がなくてはなるまい。

(「森信三一日一語」より)

特に大事でないことは、周りに流されてしまっても、まあ、しょうがないでしょう。

でも、自分が大事にしたいこと、目指したいことだけは、周りに妥協してはいけません。

もしかすると、仲間外れにされるかもしれません・・・だから何か問題でも?

一人だけで自分の道を進むことは、信念、覚悟、勇気のいることです。

孤独感を味わうことも多いと思います。

でも、それだけの価値があることを見つけられたこと自体、とても素晴らしいことですよ。

もし周りにそういう人がいたら、そっと応援してあげたいものですね。

雑事を忘れなかったら、大切なことが頭に入らない。

尊いことまで忘れてしまう。

だから、くだらないことは早く忘れたほうがよい。

頭のなかは常にさわやかに、ゆとりを持つべきである。

(「常岡一郎 一日一言」より)


確かに、頭のなかは、常にさわやかな方がよいと思います。

くだらないこと、嫌な思い出は、さっさと忘れてしまった方がよいです。

でも、嫌なことを忘れようとすると、ますます気になったりもします。

どこかに逃げる気持ちがあるときは、ますます追いかけてくるものです。

なので、無理に忘れようとせずに、逆に「堂々と」思い出してみてはどうでしょうか?

逃げずに堂々とした気持ちで向き合えば、何かスッキリした気分がでてきます。

そうすれば、意外に忘れてしまいやすくなります。

このように、自分で色々工夫してみることも大事なことだと思います。
 

人間は、自分に都合の良いことが起これば「神様のおめぐみ」と感謝する。
しかし、自分に都合の悪いことが現れると、人をのろい、天をうらむ。わがままなことである。

どんなことにも妥協せよというのではない。


こんな人、こんな事に出会う自分の運命を反省すること。
そして、こんな人、こんな事に組み合わされた天命を知ること。

組み合わされた天命をよく見つめて、
その天命をたのしむ心を育てなければならない。
 

そこに明るい次の運命が開かれるものと信じている。
(「常岡一郎 一日一言」より)

人生は山あり、谷あり、良いことも悪いことも起こります。

でも実は、悪いこと、嫌なことが起こったときに、
苦しくてもがいて、さらにもがいたときにしか・・・
運命を好転させるきっかけを見つけられないのかもしれません。

どうせ苦しいのなら、暗い顔をして落ち込むよりも
そんな自分を笑い飛ばして楽しむのも大事なことです。

肘の靭帯損傷で今シーズンはもう投げれなくなった大谷選手が、
今日も明るく元気に一生懸命頑張っている姿をみると・・・
こういう人に天は味方するのだなーーと思ってみてます。

人間はいつも、三つ児のような心でいればよいのだ。

三つ児の心はいつでも機嫌がよい。

自分のそばに機嫌の悪い人がいても、それが少しも気にならない。

自分一人が周囲にかかわりなく機嫌がよい。

自分一人の機嫌さえとれない人間が、人の機嫌をとる資格があるだろうか?

こう思う私は、自分自身の機嫌をとることに一生懸命になる。

(「常岡一郎 一日一言」より)


「自分の機嫌は自分でとる」、最近は時々聞くようになった言葉です。

何かが自分の思い通りにいかないとき、誰でも機嫌は悪くなるもの。

そんなときは、是非この言葉を思い出したいものです。

でも、自分の機嫌を自分自身で直すのは、そう簡単ではないのも事実です。

なので、自分なりの工夫をすることがとても大事になるでしょう。

気分が晴れる場所に行く、身体を動かす、美味しいものを食べる・・・

そもそも機嫌が悪くならないように、気にしないのも大事でしょうし、

逆に、堂々と思い切り気にしてから、スパッと忘れるのもよい方法と思います。

とにかく、自分の運命は、色々な「工夫と行動」がないと良い方向に変わっていかないものです。

いつも三つ児のような心を目指して、気分は上々を目指して、工夫したいものですね。
 

育つもの。伸びるもの。

それは常にやわらかさを失ってはならぬ。

固まったら伸びない。我執は人間を堅くする。

草や木も、やわらかな間にのびる。

やさしい新芽から伸びる。

堅くなったら伸びることが止まる。

人の心もそうである。

(「常岡一郎 一日一言」より)


運を良くしたい、幸せになりたいと思うなら、

自分自身が変わり以前の自分より成長するしかありません。

そして、成長する、伸びるためには、心にやわらかさが必要です。

だれにでも、どこかひとつくらいは心に固いところがあるものです。

昔からの思い込みや、嫌な経験から固くなっているのかもしれません。

でも、固くしているのは自分の心の執着です。

もっと、軽く、やわらく生きていくことを選びませんか?

それは別のステージに入っていくということです。

新しい世界に気づいていくということでもあります。

幸も不幸も、病みわずらいも、

もったないめぐみも、

すべて先方から歩んでくるのではない。

いつでも自分の方から歩みよっているのである。

そこに行く道を縁という。

祈っても、願っても、歩みくることはない。

縁だけがある。

(「常岡一郎 一日一言」より)


自分とっての幸福も不幸も、普通は、向こうからやってきているように思えます。

しかし、気づかないうちに、良縁、悪縁という縁に、自分からつながって歩み寄っているとしたら・・・

この「縁」とは、自分がつくりだした原因と、

結果としてこの世に現れる幸・不幸を結びつける役割をもっています。

なので「自分」が変われば、つながる縁も変わり、幸・不幸の現実も変わっていきます。

でも、良い縁につながるには、どうすればよいか?

基本は、良い人と交わり、良い場所を選んで、良いエネルギーを得ることです。

そして、いつも良いことを想い、いつも良い行動をとれば、必ず良い縁につながります。

ウィリアム・ジェイムスの言う以下の流れに沿って縁が働いているのでしょう。

心が変われば行動が変わる・・

行動が変われば習慣が変わる・・

習慣が変われば人格が変わる・・

人格が変われば運命が変わる!!


自分が変われば、つながる縁が変わり、結果として運命が変わるということだと思います。

 

この天地の法則を知って真剣に実行した人が幸せの扉を開く、ということではないでしょうか。

 

 

心を育てる、心に光を与える。

そのためには心の糧がいる。

どれほど光と力にみちた魂の人でも、

心の糧を忘れたら魂はやつれてくる。

心の力がぬけてくれば、苛立ってくる、暗くなる。

心が苛立てば、小石にも等しい不幸にもつまずいて倒れることがある。

一生をあやまることもある。

(「常岡一郎一日一言」より)


確かに心には、栄養分というか何かエネルギーが必要と思います。

心の栄養、エネルギーが不足すると、何故かすべてがうまくいかなくなりますよね。

では、心の糧、栄養分を得るにはどうしたらよいのでしょうか?そこが一番の問題です。


松原泰道先生は、人生には、感動、希望、工夫の3Kが必要とおしゃっていたそうです。

誰かとじっくりお話したり、本を読んだり、映画を見たり、色々な手段によって、

心が感動したり、希望を持ったり、さらに工夫の仕方を学ぶことは、

自分の心の糧、栄養分を得る大事な方法だと思います。


また、心が元気になる自分だけのパワースポットを持ったり、癒されるペットとの時間とか、

瞑想の時間とか、自分なりの方法を持つことも大事でしょう。

こうして心のエネルギーが満タンになっていれば、不思議とすべてが調和していきます。

ですから、自分の心への栄養補給はすごく大事なことで、真剣に自分なりの方法を考えたいものですね。