星石譚・東方の焔 -3ページ目

星石譚・東方の焔

忍法帖風ヒロイックファンタジー、一部ドタコメ風味(予定)

 夢の中、月影は一人の男の姿を見ている。
 半ば白くなった頭髪も、右手の刀も、朽ち葉色の小袖、同じ色の袖なし羽織までが鮮血に染まっている。
 違う――最後に会った姿は、こうではなかった。
 ――父上!
「父上――」
 呼んだ声に、月影かと威吹の頭領は穏やかな笑みを見せる。
 厳しかった――それでいて、どこまでも優しかった父。
「いかがした?」
「父上。今度のお役目ですが、他の者にしていただくわけには参りませんか」
 口にした言葉に、過去の記憶をなぞっているのだと気付く。
 あるいは、あのときの自分の意見が聞き入れられていれば。その悔いが、この夢を見せるのか。
 今さら変えられぬ――変えるべくもない過去を。
「何ゆえか?」
 穏やかに問う冠月斎の後ろには、太い柱がある。もう、二度と見ることはない威吹の館。何ヶ所か刻まれた柱の傷は、翔と呼ばれた少年の日に、せめてこの父に一太刀入れたいと、斬りつけた刀の跡である。
「今度の鬼咒の動き、わたしには些(いささ)か妙に思われます。現将軍家の――武越殿の世となって早や四代。政権も安定し、今さら鬼咒の跳梁(ちょうりょう)する余地などあるまいと。にもかかわらずの、これ見よがしな今度の動き。他に、我等の気づかぬ目的があるのではありますまいか。
 そのような折――まして、戦えるものの殆(ほとん)どが下界へ下りた今、わたしまでが里をあけるのは、不安におもわれてなりません」
「そなたの云い分も尤もとは思う。が、この威吹の地は隠れ里。滅多なものに踏み込ませるものではない。それに、樹がな」
「樹が、なんと?」
「何も云うてはおらぬ。つまりは、里には不安がないということであろう。それより、鬼咒の動きを抑えるのは、我ら《影》のつとめ。心してつとめてまいれ」
 頭領として命じられれば、配下である“月影”としては、はいと頷くより他はない。
「そうじゃ。今度は風太も連れてまいれ」
「風太を……ですか。父上、お言葉ですが、少し――」
「早すぎるというのであろう」
「はい」
 承知の上と、冠月斎は笑う。
「あれは、里一番の手練であった空蝉(うつせみ)の倅(せがれ)。技も、同年の子供たちの間では群を抜いておる。というに、なかなか甘ったれた所が取れぬ。早めに実戦に出して、鍛えたほうが良かろう」
 はあ――と、曖昧(あいまい)な返事を返すのに、
「まあ、親のない子への不憫(ふびん)さ。皆で甘やかすからなのじゃが。そなたは特にあれに甘い。きをつけねばな」
 云われて、はいと答えて苦笑した。
 父と子として交わした、それが最後の言葉だった。
 あるいは、父にも同じ予感はあったのか。
 それゆえに、《威吹》の血を濃く引き、その能力を顕現(けんげん)させている風太を、自分と共に里から出したのか。
 ――父上……!
 深々と、その肩を斬り割る刃。冠月斎は、そのまま相手を抱きすくめる。月影に――云って振り向けた蒼白の顔。口から言葉と共に鮮血が溢(あふ)れた。
「息子(あれ)に伝えよ。生きよ――と」
 忍びの装束には必ず仕掛けられる三本の糸。
 一の糸は忍び装束を変装用の常人の衣に変え、三の糸は元へと返す。
 そして二の糸は自決用。引けば仕込んだ火薬が爆発し、あとには骨の欠片さえ残さぬ。
 爆発の音が重く響き、視界が白く染まる。
 《夢うつし》。弧月に見せられた、父の最期の姿である。
 そのまま――老忍の記憶を己れのものとして、月影は音高く開けられた社の扉の向こうに、蒼白の顔を向ける娘の姿を見る。緋の袴と白の千早の巫女装束。傍らに、同年ほどの娘、篝(かがり)。
「樹(こずえ)さま! お頭冠月斎さま、鬼咒が頭領、羅刹丸と刺し違え、討ち死に……。樹さまには、一刻も早くこの場をお立ち退きを」
「わたくしは退かぬ」
 きり、と色の失せた唇を咬み、一族の巫女は毅然(きぜん)とした貌を見せる。
「樹さま!!」
「里が滅びるのに、なんで巫女のわたくしが逃げられよう」
「なにを“わやく”を仰る。《やまびこ》を送りましたれば、じきに兄上、月影殿も、戻って来られようほどに――」
「兄上は、間に合わぬ」
 例え間に合うても――静かに、どこまでも静かに、少女は云う。
「わたくしは一族の巫女でありながら、この災厄を予知できなんだ。巫女であるわたくしの咎(とが)じゃ。どの顔(かんばせ)もって兄上にまみえようか」
 篝と呼んで、樹は膝前に置いていた錦の袋に入った小太刀を示す。
「威吹に伝わる宝刀《華焔》じゃ。そなた生き延びて、これを兄上に渡しておくれ」
「樹さまは?」
「託宣を違えた巫女は、死なねばならぬのが神代からの定め。ならば、このわたくしの一命を持って、羅刹丸が息子、見事欺(あざむ)いて見せようぞ」
 蹴り開けられる社の扉。押し入ってくる鷹に似た容貌の男。羅刹丸が一子、鬼道丸。
 閃光となって振り下ろされる刃。
 自身の右腕が切り落とされたかのような、激痛。血の匂い。風と土の匂い。そして、切れ切れに聞こえる会話。
「わたくしの命に替えても、神器は渡さぬ」
 妹の――樹の声。
「ならば、死ね」
 鼻孔をつく、生々しい血の匂い。
「冠月斎は死んだ。里も滅びた。汝(うぬ)も後を追え」
「まだ……兄上が……月影がおる」
「月影も死ぬ。知らせを受けて、駆け戻ったところでな」
「《影》は死なぬ。……汝ら《鬼》を滅ぼすまで」
 視点が変わる。見えるのは丘の上の社。かすむのは弧月の涙のせいか。
 突如火柱が上がり、轟音と共に跡形もなく社が砕け散る。
 おそらくはその刹那。里へ駆け戻る途中に届いた――感じられた、術が使えぬはずの妹が最後に送った、紛れもない《やまびこ》の声。
 はたして何を告げたかったのか。
 届いたのは、だたひとこと。
 幼いときの呼び方そのまま。
 翔……おにいさま、と。


 意識が戻ったとき、翔は咄嗟(とっさ)に、己れが置かれた状況を把握できなかった。夢のせいもあったろうか。起き上がろうとして、殆(ほとん)ど体力が残っていないことに気付く。
 横たわったまま見回す部屋は、ほんの欠片ほども見覚えがなかった。もっとも、風太の牽(ひ)いてきた空木の鞍に身をおいたあたりから、記憶は曖昧(あいまい)にかすんでいる。明確に憶えているのは、リサの必死な眸と無謀とも思える賭け。
 その《華焔》で傷を焼いた右腕は、肘から下、殆ど感覚を失っていた。
 どれほど意識を喪っていたものか。
 ほの白い陽射しの中、風太を抱くようにして眠っている曄姫の姿に、ふと笑みが浮かぶ。窓際に丸いのは、風太の青竜。尻尾の先の、包帯らしい妙に几帳面な蝶結びはどういう理由か。クリスは大剣を抱いたまま、壁にもたれて熟睡しているし、リサは寝台の横に突っ伏したまま、翔の左手をしっかり握って眠っている。
 扉が開き、入ってきた騎士が、気が付いたかと、いかつい顔に笑みらしきものを浮かべた。
 リサの手にチラリと視線を向けると、
「なにやら、主をこの世につなぎ止めておこうと、懸命になっておるように見えるの」
 目尻のしわを深いものにする。
 額に手が置かれた。
「いかんのう。まだ熱が高いようじゃ」
 汲みたての水でしぼった布が、額に置かれる。ひやりとした心地よさに、ようやく熱があることに気付く。それほどに感覚が鈍っていた。
 目が合うと、元聖騎士は、ひどく照れくさそうに笑った。
 と、寝台の脇に突っ伏していたリサが、がばっと跳ね起きた。翔と視線が合うと、へたりと座り込む。 
 完全に裏返った声で、ふうたちゃん――と呼んだ。
「風太ちゃん……翔さんの意識が戻りましたよ!」


 完全に灯を消した室内、デイルは鏡の面に見入る。
 映るのは扉。古い、忘れられた神殿の。
 この扉の向こうに――
「魔道師さんよ――」
 声をかけられ、デイルは微かに顔を歪める。
 神殿の内部を映す映像が消え、その場の光景――デイルの顔と、《影法師》の灰色の装束が映りこむ。
 ――この男は嫌いだ。
 デイルは顔をしかめる。
 鬼道丸が扶桑から連れてきた忍者の一人。他人にも自分にも、ひどく冷笑的な物言いをする。
「その呼び方は、不快だと云ったでしょう」
「魔道師に魔道師と云って何が悪いよ。あいつなんぞは、莫迦に莫迦と云わずに、誰に向かって莫迦という――とか、云ってたぜ」
「誰のことです?」
「お前さんのごひいきの威吹の若い鷹――月影よ。どうやら、命を取りとめたらしいな」
「嬉しいですか?」
「ああ。嬉しいね」
「その手で殺すか殺されるかになっても、ですか」
「本望だよ」
 《影法師》は削げた頬を、笑みのかたちに緩(ゆる)める。
「殺し合うほどの仲ってのは、それだけ縁(えにし)が深いのさ」
「理解不可能ですね」
「わかってもらおうとは、思わんよ。俺たち忍びは、所詮(しょせん)人外の化生だ。ああ、それから――」
 鏡面に映った背が、遠ざかりかけて、一瞬止まる。
「一応、忠告をしといてやる。今仕掛けるのは、止めたほうがいいぜ。手負いの獣ってのは、ゆとりがない分容赦がない。やられるのは、お前さんの手下だ」
 いつかのように名。《影法師》は嗤(わら)う。
「一応――うかがっては置きたいのですが」
 云って、デイルは灰色の背を顧(かえりみ)みる。
「少し、遅かったようですねぇ。どこの世界にも、先走るものはいるようで」
 なに――《影法師》が顔を向ける。
 闇ばかりを映す鏡面を覗き込み、チッ……と舌打ちをする。
 見ますか。問うと、不本意と不愉快と不機嫌を固めて面に仕上げたような表情で頷いた。
 ほんの少し――気が晴れた。
 夢を見ている。その自覚はあった。
 夢の中、広がる色彩は血の色だった。
 夕映えというにはあまりに赤い、血の色の空だった。
 裾にたなびく黒雲は、里を焼いた煙――死臭は半里先からさえ感じられた。
 そして、群れる烏。
 《やまびこ》の知らせを受け、駆け戻った月影が見たのは、その光景だった。
 ―遅かった……。
 否。その予感はあったのだ。
 並みの忍びでさえ半日に二十五里を飛ぶ。それを超える《威吹》の俊足を持ってさえ、おそらくは間に合わぬと。
 それでも現実を目にすれば無念の――断腸の思いを抱かずにはおれぬ。
 その感情にまかせて里に駆け込もうとする足を押さえたものは、風太と、率いていた三人の配下の身の安全に対する義務感だった。
 鬼咒の――と、《やまびこ》は伝えてきた。長年の宿敵。里の外へ誘い出されたのが罠なら、里にも必ず罠が仕掛けられている。
 例えば、これ見よがしに晒された子供の死骸――
「月影殿、御免!」
「待て、野分!!」
 配下の一人、野分が制止も聞かずに走り出した。
 里に新妻と三月になる赤子を残している。無理も無いと云えば云えたろう。が――
 その足許、設置された埋火(うずみび=地雷)が、次々と爆発する。
 そして、あと一歩。最期に叫んだと思えたのは、誰の名だったろう。
 足許での爆発に、反射的に飛ぶのは見えた。
 爆風が去った後に残ったのは、下半身を吹き飛ばされた無残な死体だった。
 見るな、と風太の目をふさいだのは、今一人の配下、薄氷(うすらい)。
 莫迦者(ばかもの)が。傍らで呻いたのは薄氷か野火か。
 罵(ののし)りの言葉に隠された無念と涙ばかりを、はっきりと覚えている。
「風太は、里には入れてならぬ。……子供が見るには、惨(むご)すぎる」
 少年を薄氷に託し、野火と二人、入った里の中は無数の死体で埋められていた。
 ひとりひとり、名前どころか些細(ささい)な癖(くせ)さえ即座に思い浮かべることの出来る里人のそれと――同数の敵。
 こんな――野火が絞り出すように声を発する。
 老人の――老いた忍びたちの奮戦は云うまでもない。女たちの尽く、そして年長の子供たちの手に武器があるのが、かえって無残だった。
「野火。母御を探しに行け」
 月影殿は――問われてかすかに首を振る。
 屋形は燃え落ちて、炭となった柱ばかりが残っている。
 丘の上の社は、跡形もない。
 ただ父と妹、そして後を託した友の――無月の屍(かばね)が見当たらぬ。
 父は――
 ――父上が、女子供を見捨てて逃げられるはずがない。
 しかし妹は。巫女である樹は――
 不意に、血と煤に塗(まみ)れた死体がふたつ、むくりと起き上がった。
 死体を装い、鬼咒の目をくらましたものであろう。
「弧月か! 篝(かがり)も――」 
 よく無事で、と云いかけて言葉を喪う。
 老忍、弧月は右腕を肘近くから落とされている。妹の乳姉妹であった女忍の篝ばかりが、かろうじて無傷のようであった。
「月影殿。遅う……、遅うござった……!」
 血を吐くように云って、弧月は残された左の腕を地に叩きつける。
「父上は!? 樹はなんとした!?」
「お頭、冠月斎さまは――」


 馬の世話を終えたクリスが部屋に入ってきたのは、リサが何とか一通りの手当てを終えた後だった。
「どんな具合ですか?」
 気がかりそうに覗き込むのに、まだ――と、まなざしだけで答えて、リサはかぶりを振る。不安は口に出せない。風太がいる。
「まさか、このまま死んだり――」
「クリスさん!!」
「この、大莫迦もの!!」
 ダブルの叱責に、赤毛の若者はひゃあと首をすくめる。
「……なんてコトは、絶対にありませんよねって、云おうとしたんですケド」
「出来るだけのことはした。あとは、祈るだけじゃ」
 聖騎士の言葉に、祈って聞き届けられるのだろうかと、リサは思う。
 神様は、本当にいるのだろうか。いるのなら、どうして――
 翔が苦しげに身じろぎをした。
 手当てをしているあいだに、異常なまでに冷え切っていた体は元の体温に戻り、今度は熱が出てきている。
 唇がかすかに慄え、切れ切れに言葉をつむぎ出す。
 うわごと――扶桑の言葉だ。
 かろうじて聞き取れたのは、ひとこと。こずえ――。
「たしか、妹の名じゃの。それから、なんと云うておる?」
 聖騎士の問に、
「父上……って。それから、里の人の……」
 風太が、泣きそうになりながら答える。
 ――父上!
 熱のせいだけではない。こんなに苦しそうなのは――
 辛い夢を見ているのだ、この人は、こんな時にまで。
 たまらなくなって、リサはぎゅっと風太を抱き寄せる。
 傍らでは曄姫が顔を背ける。
 どういうことじゃと、聖騎士が顔をしかめる。
 クリスも、きょとんとした顔をしている。
「父も妹も、神器を奪いに来た者たちに殺されたのじゃ、と。里の――一族も、その時に。その仇を追って、こちらに来たそうじゃ。当人から直に聞いたことではないがな」
 おいらたち、と風太が顔をあげて云う。
「おいらたち、戦えるものはほとんど、里の外へ出てた。おびき出されたんだって、あとで月影さんが云ってた。《やまびこ》の知らせを受けて急いで戻ったら、もう、その時には、里は……」
「もうよい、風太。云うでない」
 遮る曄姫に、違うんだと少年はかぶりを振る。
「違うんだ。おいらは見てない。見るなって、子供に見せるには惨すぎるって、月影さんが」
「そんな子と――」
 クリスが呆然とした声で呟いた。
 そんなこと、翔は一言も云わなかったと。
「……水臭いじゃありませんか。ぼくだって…仲間なのに」
「そういうことではあるまい。……まだ、口にするには辛い。そうして男はの、辛いとか悲しいとか、そういったところを、人には見せたくない――見せられんのじゃよ」
 云ったのは聖騎士で、灰色の目には、我がことのような苦痛の色が見えている。この人もまた同じ痛みを――辛さを知っているのだと、今さらのようにリサは気付いた。
「妹は、一族の巫女をつとめておった、と云った。――おった、とな。あまりに何気ない口ぶりじゃたので、儂は、妹は巫女の職を辞して嫁いだものとばかり思うておった」
「この間だって家の――お父さんの話を、笑いながら……。リサさん! リサさんは知ってたんですか!?」
「曄姫様と同じだけのことは、うかがっていました。それに……お二人とも、本当に気付いていらっしゃらなかったのですか!? 夜営のとき、目が醒(さ)めると、時々ですけど、じっと火を瞶(みつ)めていらっしゃることがあるんです。翔さんじゃないみたいな、ひどく冥(くら)い目で。それなのに、わたくしが見ているのに気がつくと、微笑うんです。どうしたんだい、眠れないのかいって、とっても優しく微笑うんですよ、翔さん。きっと、ご自分のほうが辛いのに」
「……僕には、到底真似できません」
「当たり前じゃ」
「はい………」
「大切なものを奪われて、辛くないものはおらぬ。まして、里長の息子じゃというもの、里の大事に居合わせられなんだと、己を責める思いも人一倍であろう。それを胸にたたんで、愁嘆場は苦手と笑っておるような男じゃもの。――のう、風太」
 泣きそうな顔で、それでも懸命に堪えている少年を、曄姫は抱き寄せる。
「大丈夫じゃ。風太の大事な翔じゃもの、そなたを置いて逝ってしまうものか。それどころか、すぐにでも目を覚まして、皆、何を深刻な顔をしておるのかと笑うに決まっておる。のぉ?」
 こくん、と頷いた少年の頭を、曄姫は二三度、荒っぽく撫(な)でる。
「せめて夢だけでも、平和なときの里の情景ならよろしいのに」
 翔の傷ついていない方の手に触れながらリサがいうと、それはと、リサの両肩に手を置いて、スランが小さく嘆息した。
「それはそれでな、醒めた時にひどく辛いものなのじゃよ」
 云われて、自分の軽率さと幼さを、リサは少し恥じた。
 宿の主人が提供してくれた隠れ家は、待ちの外れにある元の星系神殿の廃墟だった。何十年か前、街の拡張に伴い神殿が参拝者に便利な西側に移動したあと、取り壊しに費用がかかると放置されたもので、外見はひどく荒れていたが、内部はまだ人が住むに充分な美観と強度を保っている。 その神殿の、半ば崩れ落ちた門の前に立ち――
 迫ってくる闇に包まれて、リサは蹄の音を待ち続けていた。
 翔が傷を負った。
 宿の主人の案内で神殿に入ってきた風太は、それだけを告げると、翔の空木(うつぎ)と自分の疾風(はやて)、それに俊足の曄姫の月牙(げつが)を借り受けて、即座に引き返していった。
 曄姫が険しい顔つきで何かを云いかけ、口を閉ざすと、そのまま貝のように押し黙る。 
 尋常のことでないのだと、リサはそれで理解した。
 ――翔さん……。
 それだけを――青年の名前だけを、胸の中で祈りのように繰り返す。それ以外何も考えられない。――考えるのが怖かった。
 遠く蹄の音が耳に届き、そうして、気が狂うほどの長い時間が経過してから、ようやく騎影が見えてくる。
 夜の中、ほのかに白いのは翔の空木。月牙と並んで疾走し、それを風太の疾風が先導している。
 リサを蹄にかけんばかりの位置で、少年が馬から飛び降りる。
「姉ちゃん! 翔さんが――」
 泣きそうな顔になって、リサにしがみついた。
 飛び出してきた青竜が、戸惑ったようにチイ……と鳴いて、ばたばたと空中静止(ホバーリング)している。
 騎士が翔を馬から助け降ろす。
 その肩を借りてようやく歩いている翔の姿に、リサの心臓ははねあがる。
「おじ様。翔さんは――?」
「ワイバーンにやられた。が、この有様は尋常ではない」
「どういう――?」
 皆まで聞かぬうち、馬蹄(ばてい)の音を聞いたのだろう、飛び出してきた曄姫が、とにかく部屋へと云う。
 馬を頼む。ついて出てきたクリスに云って、くずおれかかる翔を支え、スランは曄姫たちの後に従う。
「なにが――いったい、どういうことですの?」
 訊くリサに、
「ワイバーンの尾にやられたんじゃ。一応の手当てはしたはずじゃが、この有様じゃ。他に思い当たることと云えば――」
「そんな! ワイバーンなんて、とっくに絶滅して――」
「……死霊召喚魔法…」
 部屋の寝台、横たえられた翔が言葉を発した。
 体を起こそうとするのを、寝て居ろと騎士が叱りつける。
「あの……魔道師の、呼び出した……。目の前で、骨に変わった:
 何ですってと、リサは悲鳴に近い声を上げる。
 アンデッド! よりにもよって、そんなものに傷を受けるなんて。
 ――このままでは、翔さんは――。
「姉ちゃん……」
「大丈夫。大丈夫ですから」
 心細げな視線を向けてきた風太に、そして自分に云い聞かせる。
 大丈夫。何か方法はある。必ずあるはずだ。
 アンデッドの類いに傷を受けた場合、待ち受けているのは傷口から腐ってゆく無残な死。あるいは当人がアンデッドと化すとか。
 この人が、そんな目にあっていいはずがない。
 そんなことが、許されていいはずがない。
 ――何か――。
 何か手段が――おろおろと見回した目に、細長い包が飛び込んできた。
 動かした憶えもないのに布が解け、中身が――黄金の小太刀が覗いている。
 預かったままだった火の神器。《華焔》。
 ――これが、答えだというの?
 どういうことかと眉を寄せたのは一瞬。
「思い……出しました」
 アンデッドから受けた傷は、いわば穢(けが)れ。聖なるもので清めれば良い。その最たるものが神器。ならば――
「《華焔》で、傷を焼けば――」
 何を――云いかける騎士を遮るように、
「曄姫殿――」
 云って、翔が寝台の上に身を起こす。左の腕で、体を支えるようにした。
「風太を……外へ」
「やだ。おいらもここに――」
「わかった」
 了解したふうで、曄姫が少年の肩を抱いて、外へ連れ出す。
 無茶じゃ――と、聖騎士の声。
「ほかに方法はないんです。いいえ、思いつかないんです」
「リサちゃん。やってくれるか。いまの……わたしでは、おそらく……《華焔》は制御できない」
 一言云うごとに、翔の肩が大きく喘ぐ。
「余計に無茶じゃ。もし、制御し損ねたら――」
「どっちにしても死ぬ。一思いに黒焦げになるか、それとも――。そういうことだろう?」
 こくん――と、リサは頷く。それ以上は口に出来ない。口にしても、おそらく翔は動揺したりはしないだろう。それでも、口には出来ない。口にするのが……怖い。
「――だったら、万に一つでも……、可能性のあるほうに賭(か)けてみる。リサちゃん」
 はいと頷いて外した包帯のした。やはり壊死は始まっている。
 死なせてたまるものですか。リサは思う。
 この人に、そんな死に方をさせて、たまるものですか。
「騎士殿、あなたも外へ」
 翔の言葉に、聖騎士は首を横に振る。
「見届ける。せめてもの――努めじゃ」
 しかし、鞘を払っても、目に映るのはただの鋼の刀身。
 どうすれば――無意識に触れた胸もと、衣服の下の硬い手触り。
 風の神器《風伯》。
 火と風は一番相性が良いと云うけど――不意によみがえった父の言葉。
 ローダンの屋敷で、あの時父はなんと云った?
 神器の本来の姿は星石。純粋なる力の具現。共にあれば呼応して力を強める。
 風の器。賢者の当の風変わりな管理者は、リサをそう呼んだはずだ。星石を制御し、その力をふるうものと。
 ならば――。
 わたくしが《器》だというのなら――
 ――《風伯》よ、わたくしに力を貸して。そして《華焔》、お願い、翔さんを助けて!
 風の星石が白く光を発する。応えて火の星石が瞬きを始める。
 願いが通じたのか、炎の色を映して刃が赤く色を変える。
 赤と白、双つの星石の光が、乱舞をはじめる。
 身裡に風の音が聞こえる。
 焔色の刃が常寸を超えて伸びてゆく。クリスの大剣より、さらに長く――
「引きずられるな!!」
 ぴしり。鞭に似て、翔の言葉が飛ぶ。
「光球を……調節…するのと、同じ要領だ。心を細く……《風伯》にだけ…集中して」
 光球と同じ――細く――心を細くする感覚。
 応えるように風の音が静まり、《華焔》が本来の長さに戻る。
 その焔色の刀身を、無残な様相を見せかけた傷に押し当てる。
 肉の――焦げる匂い。
 きり…と、翔が苦痛に歯を食いしばる。
 こんな時にさえ、苦鳴ひとつ洩らそうとしない。
 ――見ていられない。
 投げ出してしまいたくなる。
 つい、手をゆるめかけたリサを、
「しっかりせい!」
 スランが叱りつける。
「そなたが弱気になって、どうする」
 叱りつけながら、手を添えてくれる。
 傷口を焼き終え、《華焔》を投げ出して、リサはその場にへたり込む。
「なんという娘じゃ。曲がりなりにも《華焔》を使いこなしおった」
 半ば呆然とした、元聖騎士の声。その語尾が、お…という声に変わって、
「気を……失うたのじゃよ」
 倒れかけた翔の体を支えて、騎士が云う。
「ようやく――気が緩んだのじゃ郎。いや、むしろ、これまで意識を保てたのが不思議。……よう耐えた」
 意識のない体を、そっと寝台に横たえてやって、感嘆のまなざしを向けてから、こんな――呟くように云って、灰色の目を潤ませた。
「姿かたちも、気性も全く似ておらぬのに。こんな、強情なところばかりが、何やら倅を思い出させおる」
 汗にぬれて額に張り付いた前髪をかき上げてやりながら、しかし、と呟いた。
「体が――こう、体が冷え切っておっては……」
 このままでは、云いかけて顔をあげる。儂も思い出したと騎士は云った。
「竜の血じゃ」
 竜の血。鸚鵡(おうむ)返しに云うリサに、
「竜の血は、何かの万能薬。聞いたことはないか?」
 たしかにと、記憶を探るリサの耳に、
「それって、青のこと?」
 振り向けば、いつの間に戻ってきたのか、蒼白になった風太。
「青の血を飲ませれば、翔さん、よくなるの?」
 小さな青竜を抱き、少年は不安に眸を揺らせている。曄姫が、力づけるようにその肩を抱いている。
「だったら、おいら――」
 待ってと、リサは鞄に駆けつける。
 思い出しかけた、竜の血に関する記憶。何かの物語で読んだ。
 ずる、と引き出されたのは、鞄の要領からすれば、かなり大き目の書物。事態が事態だし、もう慣れっ子なので、今さら驚くものもいない。
 大急ぎで頁を繰って、はやりと頷く。
 そう。昔読んだのは、仕える主君がアンデッドに傷を受けた竜騎士の悲劇だ。必要でないのに、血を得るために騎竜を殺してしまった。
 そうしてまで得た竜の血は、たしか劇薬で――
 探していた頁を見つけ、読み返し、
 一滴でいいんです。云うと、少年は不思議そうな顔をする。
「竜の血は、とても強いから、尻尾の先から一滴だけ血をもらえばいいんです。それから、お水を用意して下さい」
 そうして出来上がったのは、当然のことながら、ただの水のような透明な液体で、
 飲ませる段になって、リサは、はたと当惑してしまった。
 意識のない人に飲ませる方法といえば、つまり――
 口移しじゃなと、常の口調に戻って曄姫が云う。
 瞬間、リサの心臓は一つ鼓動を飛ばして打った。いや。本来不可能なはずだが、リサはそう感じた。
「いかがいたす? 代わってやろうか?」
「では、お願いいたしますわ」
「ほう?」
「接吻(キス)なら、意識がある時にしていただきます」
 からかわれているからと、ちょっとムキになったにせよ、我ながら――と、後になってリサは思った。こういう時に、こういう台詞が出たとは、我ながら一体どういう精神構造になっていたものか。
 ほぉ――と、曄姫は笑ってから、やはりそなたがやれと云った。
「妾の唇は、亡き背の君だけのものじゃ。それに――翔も、不本意であろうしな」
 何が不本意なのか、リサには良くわからない。
 風太はまた、青と聖騎士込みで、室外へ追い出されている。
「全部いっぺんに飲ませようとするでないぞ。少しづつ、一口づつじゃ」
「わっ…わかっていますわ」
 云ったけれど、曄姫が注意してくれなかったら、実際はどうなっていたか、分ったものではない。
 水を含んで、顔を近づける。
 こんなときなのに、心臓の鼓動が早くなる。
 一緒にすごした時間は長いのに、ここまでアップで顔を見るのは初めてで――
 睫毛(まつげ)が長い。今さらのように、そんなことに気付く。
 端正な顔に、憔悴(しょうすい)の色が濃い。
 唇が、唇に触れる。
 荒れてひび割れた唇から洩れると息は、ひどく弱い。
 口移しに水を送り込む。
 ――お願い。飲んで。
 祈るように、念じるように、心で語りかける。
 ――どうか……。
 心臓が爆発しそうに高鳴る。頭が――全身が心臓になってしまったようだ。
 こく――と、喉が動く。水を飲み下す音。
 すうっと、頭の芯が真っ白になった。
 ばくばくと、心臓だけが物凄い音で鳴っていた。
「不覚……だったな」
 血に染まった右腕を押さえて、翔は苦笑を浮かべる。
「咄嗟(とっさ)だと、どうしても利き腕が出る」
 咄嗟のことで風太を庇(かば)う位置に転移して、尾の一撃を籠手で逸らすのが精一杯。
 飛竜も、それが最後の足掻きだったと見え、ぱたりと尾を落とした後は、身じろぎもしない。あるいは翔に傷を負わせるのが目的であったかのように。
 尾の尖端の鉤爪は、棒手裏剣を仕込み、太刀すら受け止める皮の籠手を切り裂いて、翔の右腕、手首から肘にかけて深い裂傷を負わせていた。
「月影さぁん……」
「今度からは気をつけろ。誰でもない、お前自身の命にかかわることだ」
 言ってから、さらに苦笑する。里に残した弧月あたりがここにいれば、次期頭領の自覚がないと叱責(しっせき)を受けるのは翔の方だろう。配下の少年と、将来里を率いることになる立場にある己れの命。いずれが大事かと。
 ――それでも、これが性分なのだから仕方がない。
 特に風太に対しては、なぜか保護者意識が先に立つ。
「大丈夫か!?」
 走り寄ってくる騎士に、
「怪我の多い男だと、曄姫殿なら、そう、一言あるところだが」
 言いながら、傷を布で縛り上げた。
 その三人の眼前、さら……と音を立て、飛竜が骨に変じた。
 死者召喚魔法(ネクロマンシー)
 ――やはり……。
「お察しの通り」
 声と共に、馴染みになった黒の長衣が向こうの岩棚に現れた。
 どう好意的に考えても、再会を喜べる相手ではない。
 どこから湧いたと、スランが唸る。
「失礼な。ゴキブリでもあるまいし」
「そういう言い方こそ、ゴキブリに失礼だろ」
 風太が敵意をあらわにする。
「ゴキブリだってマムシだって、お前みたいな悪いことはしないぞ!」
「おやおや。この世には絶対善も絶対悪もないのです。一方の悪はもう一方にとっては正義。そんなことも知らないのですねえ、少年は」
 教育ができていませんよと、呆れたように口許を歪めて見せた。その魔道師の耳の辺り、翔の撃った棒手裏剣が掠め飛ぶ。武骨な鉄の殺傷用の武器。体のどこかに当たっただけで骨を砕くそれは、頭巾を引き裂いて顔をあらわにする。
 純白に近い長い灰色の髪。青白い細面に手裏剣の掠(かす)めた傷。眸の色は銀か翠か、遠目には判別し難い。
「おや。外れたようですねえ」
「顔が見てみたかっただけだ。鬼道丸はどうしている?」
「存命ですよ。あなたにとっては残念なことに」
 言って、いつか見せたそれと同じ悪意を込めて、魔道師は嘲笑う。
「ああ。ご存じないようですから、教えておいて差し上げましょうね。そのワイバーンの尻尾には毒があります。手当てをしておいたほうがよろしいでしょうねえ。ただし、間に合えば、の話ですが」
 言い終えると同時に、パチリと指が鳴る。
 瞬時に、地面の二箇所から光が吹き上がる。
 魔法陣の発動を示すそれは、魔道師の足元と、飛竜の骨を囲むそこから。
 光が消えると同時に魔道師も消え、代わりにわらわらと刺客が湧いて出る。
 風太が後ろ腰に差していた小太刀の柄に手をかける。
「戦えるか?」
 元・聖騎士の言葉に、翔はうすく笑んで抜刀する。
 相手は幸い、金で雇われたただの渡り戦士らしい。

 そうして――
「きつそうじゃの。やはり傷が痛むのか?」
 スランが翔を気遣って訊いたのは、リシルに下りる山の中腹だった。
 ワイバーンなどの毒のある生物から受けた傷には、治療魔法は使えない。体の持つ本来の治癒力を高めることにより傷を癒すそれは、こうした場合、体に毒の回る速さを高める効果も発揮しかねない。毒消しの魔法は神官クラスの者にしか使えぬし、竜などの魔法生物から受けた傷には効果がない場合が多々あった。
 火薬を使って傷口を焼くなどという荒療治と、所持していた毒消しとで何とか事なきをえたようだが、やはりあれだけの傷である。痛まぬはずがないだろうと、スランは青年の顔を眺める。
 気遣う言葉を口にすれば、大したことはないと無理に笑んで見せるし、風太が済まなそうな顔をする。それで、黙って歩くしかないが、見れば起伏の多い山道、青年の足取りからは日ごろの軽快さが失われているように思える。
「どりゃ。手を貸そうか」
 差し伸べた手が翔の腕に触れる。瞬間、スランは自分の顔色が変わるのを自覚した。
 ――冷たい? 
 熱が出るのならわかる。傷を、あるいは毒を受けたときの人体の正常な反応だ。
 それに対して、この異常なまでの冷たさは何だ?
 それより何より、
 ――この異常を堪えて、歩いておったのか。顔色にすら出さず。
 なぜ早く云わぬ。云いかけたのへ、翔は無言でかぶりを振る。
 先頭を行く風太は、自分の不用意な行動で翔に傷を負わせたと、ひどくしょげている。
 その風太を、
 ――こんな時にまで、気遣うのか!
「強がりも大概にせんかい!」
 叱りつけるように云うと、少年を呼びつける。
「小僧。主は足が速かったの?」
 いつもの抗議の言葉も云わず、風太は真剣な顔で、うんと頷く。
「先に宿へ――街へ行って、馬をしょっ引いて来い。このままでは翔の体がもたぬ」
「…………!」
 目を見開き、翔の顔をまじまじと眺め、すぐに血相を変えると、風太はすっ飛んで行く。
 その後ろ姿を見送ると、スランは、少し休めと青年に云った。
 かぶりをふり、なおも歩き続けようとするのに、
「強情も大概にせい!!」
 怒鳴りつける。
「強情で…やっているわけ………じゃない」
 答える青年の声は、おそらくは苦痛に、ひどくかすれている。
「今休めば……、多分…、もう、歩けなくなる」
 不吉な連想をさせる言葉。はっと見つめなおすスランに、大丈夫だと翔は笑んで見せる。
「主は……」
 ――こんなときでさえ、笑って見せるか……!
 と胸を吐かれる思いのスランに、
「……死にはしない。まだ……死ぬわけには……」
「あ……当たり前じゃ!!」
 怒鳴りつけて、少し休めと、無理矢理、ほとんど押さえつけるように、その場に座らせる。
「構わんから……。歩けぬようになったら、儂が背負う帝ってやるわい」
 云うと、笑みを苦笑に変え、スランの背にもたれかかるようにして、青年はようやく目を閉じた。


 夕刻――
 頬に浅い傷を刻んで戻ってきたデイルを、
「随分遅いお帰りだな」
 たっぷりの皮肉を込めて迎えたのは、灰色の装束の男――《影法師》だった。
 ――この男は嫌いだ。
 胸の裡(うち)でデイルは呟く。
 暗い嗤(わら)いを貼り付かせた薄い唇。削げた頬。冷笑的な物言い。
 痩(や)せて存在感の薄い、名前通りの影のような男。
 もっとも、人を好きになったことなど、なかったが。
「鬼道丸はどうしています?」
「呻吟してるよ。お前さんも弟子も、治療魔法とやらは下手だな」
 直裁的な物言いも出来るようだ。
「死者召喚と治療は対極ですよ。いっそ、死体で戻った方が、わたしとしては楽だったのですが」
「動く死骸(アンデッド)とやらに、鬼咒忍びの指揮を取らせるのか? 可能なのかね」
「実験してみるのも一興かと」
 なるほどねと、《影法師》は口許をゆがめる。
 ウイノアの郊外にあるエーリックのかつての居城。石造りの城の内部は昼夜を問わず暗鬱で、壁にかけられた松明の炎の揺らぎが、面縛(めんばく)を取った《影法師》の削げた頬に、陰気な影を落としている。
「月影を始末してくると出て行ったのは、たしか昼間だったな」
「そうですよ」
「始末はついたのか」
「ええ。一思いに死んだ方が楽だったという目に、ね」
 にんまり頬を緩めると、受けた傷がずきりと痛む。
 何だと――《影法師》が問い返して、顔をしかめる。
 表情が、険悪を通り越して凶悪なまでになっている。
「アンデッドの毒で、じわじわとね。生きたまま全身が腐り果てて――」
「汝はっ――!」
 ――崩れた!?
 冷笑的な表情が。
 ――月影のこととなると、この男。
 胸倉をつかもうとする手を、ついと払いのける。
「別の、あの少年の方でも良かったのですがね。ああ、そちらの方が良かったかも知れませんね。さぞかし彼が苦しんだでしょうからねぇ」
「月影の可愛がってた餓鬼(がき)か……」
「気に入りませんか?」
「気に入らんね」
 低く云うと、《影法師》はその場に唾を吐き捨てる。
「前にも云ったと思うが、あんたのやり方は、虫酸が走る」
 神器が目当てなら、奴らが合流する前に、あの小娘から奪えば済むことだろう。《影法師》の言葉を、デイルは無言で聞き流す。
「――魔道師さんよ」
「なんです?」
「お前さん、月影に恨みでもあるのか?」
 恨みはありませんが――デイルは嗤う。
 頬の傷が疼く。
 月影の――あの青年のつけた傷。
 顔が見てみたかった。そう云った、何かを確かめようとする、あの深い色の眸。
 ――気がついたのか。いや。
 そのはずはない。また、仮に気付いても、もう遅い。
 今頃は、あの――
「誇り高い、若い鷹のような――ああいう人間を見ると、地べたに叩き落として、羽根をへし折ってやりたくはなりませんか?」
「お前さんの首をへし折った方が、面白かろうよ。自分で自分に死者召喚をかけられるか、試してみるのも一興じゃないのか」
 吐き捨てると、《影法師》は背を向けた。


 少女との出会い。それが全ての始まりだった。
 少女を見たのは

            山深い場所だった。

 一目見て、自分だけのものにしたいと思った。
 同時に、何者にも触れることを許されぬ神聖な存在だと知った。
 聖少女は
               巫女だった。

 その少女の心を占める存在が、母を異にする実の兄と知って、激しい嫉妬に似たものを覚えた。

 歪んだというなら、生まれつき。
 だが、狂ったと云うのなら、このときからだったろう。

 手に入れられると思ったわけではない。
 最初から、無理にこの手にした瞬間に喪われるものと知っていた。
 だから――

 出会いも、そして少女の死も共に――
         ――深緑の季節だった。
 リシルは大陸公路沿いにあり、街の東方に星系神殿を擁する大きな街である。
 公路を往来する商人たちと、神殿に詣でる巡礼とで賑わう街の中ほど、大通りを一本逸れたむしろ猥雑(わいざつ)な場所に、翔の指定した宿はこぢんまりと立っていた。この時代の宿屋の例に洩れず、一階が食堂で二階が宿泊用の部屋。味自慢とかで多くの客で賑わう食堂を取り仕切る主人は、奎の人間らしい小柄な老人だった。
 客のすいた頃合を見計らい、曄姫は代金に紛らせて翔から託された紙片を渡す。
『翔からじゃ。――月影と申したほうがよいか』
 奎(けい)の言葉で言うと、主人はそっと頷き、三人を上階の部屋に案内させた。どれほどか立ってから、
「懐かしい故郷のお方。部屋でお茶など差し上げたいと、あるじが申しております」
 老妻が呼びに来る。この妻女も奎の人間に見える。西大陸に入った奎の人間がそうであるように、頑固に故郷の衣服で通しているし、言葉に端々に訛(なま)りが聞き取れる。が――
 案内されてあるじの部屋へ向かう途中、すれ違った女性に、ふと目が留まった。年頃はまだ三十前か。漆黒の髪に象牙の肌の――大陸の、それも男の衣服を見につけているため、奎かあるいは扶桑の人間かは見当がつきかねたが、しなやかな体躯と身のこなしは、何かの武術を身につけている人間のそれである。
「客か、あるいは――」
 店のものかと問うと、老女は耳の遠いふりをした。
 系の風俗を入れて居心地よく整えられた部屋。曄姫を向かえた老人は、奎から求めたという茶を煎れながら、奎の言葉でこう訊いた。
「若頭領――月影殿とは、どちらでお会いなされました」
「ローダンの領主殿の館でな。そなた、やはり《威吹》の者か」
「草、または里隠れと申し、このようなかたちで各地に住まっております。月影殿が一族の仇を報じる為、《鬼咒》を追って大陸に渡られた。そう、知らせがあってより後、何の繋ぎもなく、案じておりましたが」
「一族の……な」
 呟いた曄姫に、お聞き及びではと老人が言う。
「一応のことは、の。父御(ててご)と妹である巫女殿も、その時に亡くなられたと聞いた。ただ、詳しいことは……。《鬼咒》と、どうやら影で糸を引く魔道師のやり口から、むごいことであったろうと察してはおるが」
 愁嘆場と後味の悪いのは苦手と宣言している青年は、旅のつれづれ、一族の成り立ちや里の誰彼の逸話、里の景色は話しても、その里を襲った災厄について詳しく語ったことはない。無論、自身の辛さもあろうが、むしろ風太にその光景を思い出させるのを避けるためだろう。あるいは、曄姫たちに同情的なまなざしを向けられるのが厭なのかもしれない。表現方法は異なるものの、情の強さにかけては道連れになった元・聖騎士に負けず劣らずのようだ。
「さよう。退路を断たれ火を掛けられ、里に残った女子供老人、頭領、巫女様の命で生き延びた二人を除き、尽く。扶桑の内の草のもの、また外に誘い出されておった男どもも、あらかたは―と。なれど、一人でも残っておるかぎり、《影》は滅びませぬ。最後のひとりとなっても、必ず《鬼咒》を滅ぼしましょう」
「月影も、外に誘い出された一人であったのじゃな」
「さよう。遅れて里へ戻った幾人か――一族の仇をと騒ぐものを、これ以上《威吹》の者に犠牲は出せぬと抑えて、単身大陸へ渡られたとか。華焔とご自身を囮に、《鬼咒》を誘い出される存念でおられたのでしょう」
 あの青年らしいと、曄姫はそっと溜め息をつく。
 何もかも一人で背負い込もうとして――風太と言う重石がくっついていなかったら、今頃どうなっていたことか。
 いずれにしても、そもそもの原因が分家の莫迦者――夫の身内のせいであることが、どうにも遣り切れない。これで、あの莫迦者が神器を集めて願うことが世界征服程度だったら、あの二人に、そして息子を喪った元・聖騎士に、何と詫びさせればいいのだろう。
 ――リサではないが、出会うたら、取り敢えずは微塵に刻んでやらねばな。
 遣り切れなさを前向きな怒りに切り換えたところへ、どうぞと茶が差し出される。翔たちと別れた場所と日時を訊かれた。
 答えると、宿の主人は、はて――と言うように首を傾げる。
「いかがなされた?」
「忍びは、並みの者でも日に三十里を走りまする。まして――手前は当代の月影殿とは面識はありませぬが、月影の忍び名を継がれた御方でありますれば、とうに着いておられてもおかしくはない日時か、と」
「当代以外とは面識のあるような」
「先代が――当代殿には大伯父に当たられまするが、ゆえあって大陸に渡られましてな。それはともかく――」
「風太と申す同族の少年、それに、こちらの大陸の元・聖騎士殿が一人、同行しておるはずじゃ」
 あるいは、鬼咒の頭領との対決で手傷を負っていたのかも、と曄姫は予測している。あの青年からの通信には、ものの見事に用件しか書いてなかったけれど。
 常人が一緒ではやむを得ませぬなと、《草》の老人は言う。
「月影殿よりの文には、お手前様方とこの地で合流するゆえとありました。時がかかるようであれば、目立たぬ場所に宿を用意いたしましょう」
 ひとまずは――いって老忍が手を叩く。入ってきた妻女が先に立って部屋へと案内する。
 途中、また先ほどの女とすれ違った。目が合うと、女はにこりと笑みを送ってきた。


 その頃――翔たちはリシルの町まで約半日の峠近くに達していた。
 早く三人に会いたくて気が逸(はや)るらしい風太は、先行し、また駆け戻っては、二人とも遅いよを繰り返す。
「風太。そんな具合だと、途中でバテるぞ」
「そんなこと言って、月影さんこそ、きついんじゃないの?」
「こいつ」
 言うと、こづかれないように、びゅんと逃げ出して翔を苦笑させる。
 曄姫たちと別れてから五日余り。面街道を行く三人に対し、行程としては直線に近い裏の旧街道を選んでなお、一日分の距離差を埋めることができなかったのはやはり、馬に対する徒歩という差、そして常人であるスランという道連れのせいばかりではない。
 それでも、その後数回に渡りスランの魔法治療を受けて、鬼道丸から受けた深傷は、わずかに白い傷痕を残して癒えている。
「それにしても、不思議な娘じゃ」
 スランがリサのことを評したのは、その何度目の治療の時か。
「癒しの――《地》の魔法の使い手でありながら、《風伯》の使い手でもあるとは」
「――とは?」
「稀には、複数の魔法の適性を持って生まれてくる者もないではない。が、大概は相性の良いもの同士。火と風とか、地と水とかの。主も《華焔》と《水呼》が反発したであろうが」
「それが《地》と《風》か」
「さよう。四大全ての適性を持って生まれたのは、伝説の聖女王一人。これも伝説じゃから、事実はどうかの」
「いや。案外――」
「どうした?」
「いや――」
 この娘は特別。翔は、リサの父、ローダン卿の言葉を思い出す。
 あの狸殿、案外そうした含みもあって、今度のことにリサを同行させたのかもしれなが――
「やれ。何とか今日中には、リシルに着けそうじゃわい」
 それやこれやのおかげで、すっかりとは行かないが、かなり隔意の取れたスランが言う。
「あの峠一つ越えればリシルじゃ」
 というその峠に、それは盤踞(ばんきょ)していた。
 馬の三倍はあろうかという赤褐色の巨体。長く、尖端の尖った尾。鋭い鉤爪をもった二本の足。風太の青竜に似た楔形の頭。そして蝙蝠の皮膜を持った羽根。それが、敵意もあらわな目つきであたりを睥睨(へいげい)している。
「ワイバーンじゃ」
 咄嗟に手前の岩陰に身を隠し、スランが言う。
「ワイバーン?」
「飛竜――下等な竜の一種じゃよ。五十年ほど前に絶滅したといわれておって、儂も絵でしか見たことはないが」
「竜って皆ゼツメツしちゃったの? おじさんって、なんでそういうこと、知ってるの?」
「聖騎士たちが竜殺しの称号を求めて、竜退治に血道を上げた時代があっての」
「ゼツメツさせちゃったの? 駄目じゃん、おじさん」
「だ……駄目じゃんというて――」
「生き物には皆それぞれ生きている意味があるんだから、勝手にゼツメツとかさせたらいけないんだよ」
「風太。竜の絶滅はおじさんのせいじゃない。それに二人とも、そういう呑気な会話をしている暇に、退くか進むか――手遅れか」
 いって、翔は苦笑する。今頃はリシルについているだろう旅の仲間。なかなか素直に合流させてもらえないらしい。
「なに。月影さん、どうしたの?」
「こちらに気付いた。……どうやら例の魔道師の召喚獣だな」
 竜が、のそのそと巨体を揺すって前進してくる。
「なぜわかる?」
 羽根があるし、飛竜というからには飛ぶのだろうが、それの盤踞(ばんきょ)する岩山、助走に必要な広さがない。こちらにしてみれば幸いだが、
「騎士殿。あれを倒す方法をご存知か?」
「いや。表皮が固くて通常の武器では倒せんでな、聖別された武器か、魔法の――」
「華焔が手元にあっても、あれの相手は御免だな。――これを使ってみるか」
 球形のものを三つほど、翔は宙に放り上げ、受け止める。
「炸裂弾?」
 風太が訊くのに、新型と短く答える。
 西も大陸ではなぜか、火薬が発達しなかった。その代りとでもいうように、魔法の品を扱う店に、火薬とよく似た効用の薬品が置いてある。爆発には発火呪文か、それに匹敵する《力》を使う。
「主のほうこそ、一人でなんぞやっておると思うておったら、そういう危険物を……。しかし、並みの剣ではかすり傷もつかぬ表皮じゃぞ」
「あいつにしても、腹の中までは特別誂(あつら)えではあるまい?」
「腹――腹の中じゃとぉ?」
「風太。わたしが囮になる。正面を向いたところでこれを投げ込め」
「おいらが行くよ」
 少年が立ち上がる。
「月影さんのほうが制球力(コントロール)確かだもん。じゃあ」
 引き止める隙も与えず、さっさと飛び出してゆく。
「あいつ……」
「あの小僧……」
 呟いて、顔を見合わせて苦笑する。
 初歩の魔法治療は人体の持つ治癒の速度を意思と言葉だけで増すもの。体が受けた負担そのものを消し去ることはできない。そのせいで、まだ体調の万全でない翔を気遣っているらしいのだった。
「気をつけて行け!」
「だいじょーぶ」
 いつもの口癖が戻ってくる。
「小僧。気をつけろ。そいつはな――」
 ごう――と、飛竜の吐いた火炎。熱気がすれすれを掠めて通る。
「――と言う具合に、火を吹くんじゃ」
「最初に言ってやってくれると、有り難かったんだが……」
「いや、その、なんじゃ……」
 大丈夫と言い切っただけあって、風太は巧みに火炎と尾の攻撃を避けている。
 翔の目から見ても危なげのない動きで、右へ走り、左へ跳びしながら、じりじりと飛竜を誘導してくる。
 そして、飛竜の首が正面を向いた刹那、ぱっと転移した。
 一瞬の何分の一か。風太の動きに遅れ、残された影に向かい、飛竜が火炎を吐く。
 吐ききった直後の開いたままの口に、翔面に転移した翔が炸裂弾を投げ込む。
 ぱくん――と口が閉ざされ、ごくりと嚥下音が聞こえるほどに喉が動く。
 続けて低く、くぐもった爆発音が響いた。
 ぼっと、魚でいうえらの辺りから火焔が吹き出し、首から上がきれいさっぱり、跡形もなく吹き飛んだ。数瞬の後、残った胴が重い音を響かせて地に倒れる。
 強力すぎるか――翔は呟き、
「やったあ!」
 風太が歓声を上げた。
「けど、凄いなあ。青も、こんな風に大きく育つのかなあ」
 言いながら竜の死体に近づく。相変わらず好奇心は強い。
「風太――」
 不用意に近づくな。注意しようとしたとき、死んだはずの竜の尾が動いた。
 真後ろから、尖端が風太のほうに――
 警告より、考えるより先に、体が動いていた。
 そして――
 傷を――
「傷を負うたのか!?」
「血は、止めた。……命に…かかわるほどの傷では……」
 押さえた手を退けさせ、当てた布を取り除け、傷を確かめる。
 思わず、顔を歪めた。
 鎖骨を割り、さらに肋骨の二本までを斬る重症である。幸い、傷は肺にまでは達してはいないようだが――
 追い付けぬ――動けぬはずである。
「鬼咒(きしゅう)の――ニンジャの頭領とやらにやられたのか!?」
「こちらも……、一太刀…かえしたが……」
 言う声に、苦痛の喘ぎがまじる。
「もう良い。口を利くでない!」
 遮って手をかざす。口中に唱える呪文。深い傷が、時間を早送りするかのようにふさがってゆく。斬り割られた骨が接合し、傷口にうすばら色の肉芽が盛り上がり――
「すまん。儂(わし)の治療(ヒーリング)では、一度にはここまでが限界じゃ。あの娘――大地母神の巫女ならば、一度で痕も残さずに治せるであろうが」
「いや……」
 青年は――翔は不思議なものを見るまなざしでそれを眺め、少し肩を動かしてみて、
「……ありがとう………」
 少年のような素直な口調で言った。
「お主のためにしたことではないわい。お主に何かあれば、あの小僧と娘が泣くじゃろうが」
 くるりと背を向ける。その背中に、
「ありがとう」
 再び、声がかけられる。わずかに含まれた笑いの微粒子。
 夜の裾が、仄かに白い。
 頑(かたく)なに背を向け続けるスランの視線の先、絡み合って突き刺さっている手裏剣。
 一つは翔の――
 では、あの深傷で、彼はこれを投げたのだ。おそらくは――
 ――儂(わし)を、助けるために。
 十字の形をしたそれを抜くと、土を払って手渡しながら、そうじゃと顔をしかめたまま騎士は言った。
「小僧を探さねばならん。お主を探しに行くというて、飛び出して行きおったわい」
 立てるか――訊ねて、手を差し出す。
 傷はふさげても、あれほどの深手。流した血はすぐには戻らぬし、出血と苦痛は、体に相当の負担を与えているはずである。
 差し出した手を握って立ち上がった翔は、わずかによろめいて背後の岩壁に背を預けた。目を閉じて――眩暈(めまい)を堪えているのかと見れば、どうやら何かを念じている様子。
 目を開けると、来る――と、淡く笑む。
「来る――じゃと?」
「風太だ。近くにいる」
「そういえば、主らは不可思議な術を使うのじゃったな」
 初めて会ったとき、この青年は空中から炎を導き出し、生きる屍を焼き払った。魔法使い、魔道師が使う火球とは異なる、独自の体系の術らしい。
 不可思議という言葉に、青年は声を殺して笑う。傷に響いたらしい、肩を押さえて、ちょっと顔をしかめた。
「不可思議――という言い方をすれば、わたしには、こちらの魔法は十分に不可思議なものだが?」
「それもそうじゃの」
 白々と、夜が明けてゆく。
 夜の女神の黒い衣が払われた後を、暁の女神の彩れる衣が覆う。
 その空に――竜が舞った。
 真夏の海より深い青の、宝石のきらめきの、小さな青竜。
「青――」
 青年の呼びかけにこたえ、サファイア色の竜は差し出された右の籠手に、その羽根を休める。そして――
「月影さあーん!」
 後を追って、小さな体がまろぶように走って来る。
 チイ…と声を上げ、青竜が舞い上がる。
「月影さん! 良かった、無事だった!!」
 飛んできて、しがみつく。
「戻ってこないんだもん。どうかしちゃったかとおもったよ!」
 少年の体重を支えかね、翔は岩壁に背をぶつけている。
「どうしたの、月影さん。怪我?」
「大丈夫だ。騎士殿に治してもらった」
「よかった! おじさん、ありがとう。恐い顔の割には、いいとこあるね」
「風太!」
「月影、じゃと?」
 スランは仏頂面を向ける。
「威吹の月影。わたしの、もう一つの名だ」
 青灰色の少し剣呑なまなざしを受け止め、青年は真っ直ぐな目で笑った。


 空が青い。
 どこまでも、突き抜けるほどに高く。
 その蒼穹(そうきゅう)に、風太は籠手に乗せた竜を放つ。
「ほら、青。姉ちゃん達のところへ行け」
 応えて、小さな青竜は舞い上がる。
 青い――どこまでも青い空の色に紛れ、すぐに見えなくなる。
「さて。どの辺りで追いつけるかのう」
 いかつい顔を少し緩めて、元・聖騎士が笑う。
 青竜の行方を見送っていた翔が、笑みを返すと、行こうかと言った。
「うん!」
 元気に応えて、差し出された風太の手を握る。
「なんか、久しぶりだよね」
「うん?」
「こうやってさ、月影さんと手を繋いで歩くの」
「そうだな」
 ――年の離れた兄弟――いや、それ以上の記絆(きずな)じゃな。
 目を細めるスランに、ひょいと少年の手が差し出される。
「なんじゃ?」
「おじさんも手を繋いであげる。また、迷子になったら困るでしょ」
「お……大人をからかうものではないわい」
 無邪気な好意の示され方に、ひどく狼狽している。武骨を体現したような騎士のその様子に、翔は風太をたしなめねばと思う以前に、吹き出していた。


 その日の午近く――
 互いに知るべくもないが、リサたちは翔たちの居場所から山一つ隔てた峠のあたりにいた。
 石を並べて小さな炉を組んで、鍋をかけて――
 何となくそのあたりに視線を送っていて、
「リサさん、鍋――っていうか、鍋の中身、焦げ付いてますよ」
 クリスに言われ、わぁ! と声を上げる。
「あああ……ありがとうございますぅ」
 ぼんやりしていて、昼食を台無しにするところだった。
「翔のことが心配なんだ」
「そっ、それは……当然のことですわ。大事な旅の仲間ですもの。風太ちゃんだって、あのおじさまだって――」
「そうじゃなくって。リサさん、翔のことが好きなんでしょう?」
「えっ。うっ。あっ。あの………」
 いきなり何を言い出すんだ老、この人は。リサは少し焦る。
 それは好きだ。好きに決まっている。決まっているけど、だけれど、今の含みは――
「――とか言うそなたは、翔が嫌いか?」
 野草を取って戻ってきた曄姫が言う。
「妾(わらわ)は、あの男は気に入っておるぞ」
「ん――。そう言われれば、ぼくも結構好きかな――って、どうしてそういう話になるんですか!?」
「人間の評価は、突き詰めれば好きか嫌いかのどっちかであろ?」
「それはそうですけど」
「な?」
「いえ。そういう話しじゃなくて――って、リサさん、鍋!」
「え? あ! きゃあ!」
 小さく悲鳴を上げて、リサは慌てて鍋をかき回す。
 重症じゃなと呟いた曄姫は、鍋を覗き込んで、本当に重症じゃなと嘆息した。
「どうかしましたか?」
 言うクリスに、そなたも気付かなんだかと呆れ顔になる。
「七人前はあるぞ」
「え!? あ……」
「本当だ」
「つい、うっかり………」
 総勢六名。元・聖騎士が加わる前でも五名。風太も、そしてクリスも結構良く食べるから、大体七人から八人前作るのが習慣になってしまっていた。
「――とか言う曄姫さんだって、それ、やっぱり七人前はありますよ。それに――」
 取ってきた茸の中に、赤地に黄色の水玉模様の妙に鮮やかな――
「それ、絶対に毒キノコだって風太が主張してた――」
「そう言うそなたは、やけに冷静じゃな」
 言われて、イーえとクリスは断言する。
「今朝から、何も手についてません――って」
 きっぱり胸を張って言うことでもないが。
「まあ、いたし方あるまい」
 曄姫はリサの肩を軽く叩く。
「まったく、何をしておることやら」
「そうですね」
 大きく溜め息をついたクリスが、ふと空を仰いで、あれは――と声を上げた。
「あれ。あれ、あれ、あれ。ほら、あれ。あの青いの。青じゃありませんか?」
 指をさす先に、青玉色の小さなものがきらめき、見る間にその大きさを増す。
「本当に。青ですわ。青! ここよ!!」
 リサの呼びかけが聞こえたのか、小さな青竜は、ふっ――と姿を消し、少女の前に転移する。
 うわぁ、とクリスが意味不明な嘆声を上げる。
 青――と歓声を上げて、リサは小さな宝石竜を抱きしめた。
「良かった! ご無事なんですわ、皆さん!」
 ぎゅっと抱きしめられて、リサの腕の中で、小さな竜は苦しがってじたばたと暴れる。チイチイと抗議の声をあげると、目の前三十センチばかりの空間に転移した。
 その青竜をしげしげと眺め、
「あ奴ら……手紙をつけてよこすくらいの知恵は、働かなんだのか」
 美貌を笑みで崩しながら、曄姫が文句を言った。

 そうして――
 足に手紙をつけた青竜が戻ってきたのは、翌日の午頃だった。
 伝書鳩ならぬ伝書竜じゃの。覗き込むスランの前――
 手紙を受け取って開いた翔の、表情の変化が見ものだった。
 一瞬厳しい表情になり、顔をしかめ、改めて手紙に視線を走らせる。唇が微かに動いているのは、手紙の文言を詠んでいるためか。そして、しばしの間をおいて、思い切り脱力した。
「なに? どうしたの?」
 除きこむ風太に紙片を示して、
「お前が教えたのか?」
 少し剣呑(けんのん)な目つきになって言う。
 うん! と、少年の声は、対照的に弾んでいた。
「なんじゃい? どうしたんじゃい?」
 話に割り込んだスランに、これを――と差し出された紙片は、それこそ摩訶不思議(まかふしぎ)な記号で埋め尽くされていた。
「忍び文字――つまり、忍者が使う独特の文字なんだが――」
 と、翔の言う忍び文字、別名『忍びいろは』とは、忍者の使う暗号用の文字で、いろはを七行七段にわけ、偏(へん)に木火土金水人身(水はさんずい)、旁(つくり)に色青黄赤白黒紫の各七文字をおいて構成したものである。が、この手紙は音を大陸共通語に呼応させてあるという。
 現代で言えば、英語の発音を片仮名表記してあるようなものだ。
「リサちゃんと二人で、何かやっているとは思っていたが」
「うん。これを作ったの」
 風太が腰の袋から表を取り出す。スラン言うところの摩訶不思議な記号に、曲線的な簡略化された記号(実は平仮名である)、それに大陸共通の文字を組み合わせて一覧表になっている。
 暗号作製――というよりは、遊んでいただけだなと、翔は珍しく渋い表情を見せる。
「おまけに、この筆跡(て)は、曄姫殿だな」
「……みたい。でも、役に立ったでしょ?」
「………………………心臓が止まるかと思った」
「あん?」
 スランの疑問に、
「忍び文字と言ったろう? つまり、鬼咒もこれを使えるんだ」
「わかった。つまりは、お主とその小僧のほかに、この大陸でその文字を使えるのは《鬼咒》とやらだけということじゃな。それで、あの小娘やら奥方やらが、敵の手に落ちたのではないかと、お主はそう思うたわけじゃ」
「そう。大陸に入れてある《草》は、わたしたちの動きを知らない――そうか! 風太、地図を」
 表情を引き締め、少年に向かって言う。
 道の傍ら、地図を広げて検討すると、
「途中で合流できるぞ」
 ようやく笑みを見せた。
 除きこむ二人に、ウイノアがここ、現在位置がここと指で示す。
「若いの。お主、こちらの文字が読めるのか?」
「地名と、店の看板くらいはなんとか。――それで、曄姫殿たちの現在位置がここ。この、一つ向こうのリシルという街で合流する」
 翔が言った街は、目的地であるウイノアに隣接する、かなり大きな街で、
「闇雲に行ったところで、簡単に合流できるものではないぞ」
「連絡先を決めておけばいいんだ」
 あっさり言って、青年が続けて口にしたのは、どうやら宿の名前。
「何で、そういう場所を知っておる?」
「企業秘密」
「主は――どこでそう言う言葉を仕入れるんじゃい?」
「バルファの、賢者の塔だったな、これは」
「いちいち、答えんでもよいわい」
「聞いたのは貴方だが?」
 言いながら、薄い紙を束ねたものと細い金属製の筒を取り出す。筒には筆記用具――筆が入っている。穂先を噛んでほぐすと、
「悪いが、青にはもうひと働きしてもらうぞ」
 さらさらと紙に綴られる記号――漢字をスランは興味深く眺める。
 忍び文字とかいった、先ほどのそれとはまた違うようだが――
「げ。漢文。――曄姫さんにしか読めないじゃん」
 手元を覗き込み、顔をしかめる風太に、
「いいんだ」
 翔は笑って答えた。

 そして、その通信文をリサが受け取ったのは、その日の夕刻のことだった。
 宿を探しておけといわれて、クリスは一足先に街へ向かっている。
「ごめんなさいね、青。休む暇もなくて」
 飛来した竜を鞍の前輪にとまらせ、足の手紙を外す。
 見慣れぬ――おそらくは《奎》の文字の羅列に、お願いいたしますと曄姫に渡す。扶桑は昔から《絹の国》との国交が深い。扶桑で使われる文字、筆記用具の類いは元もと《絹の国》から伝わったものと、これは以前に曄姫から聞いていた。
 薄い紙に流れる文字に、存外達筆じゃなと曄姫は目を細める。この婦人の通常の言動からしてみれば、これは相当な褒(ほ)め言葉だ。
「宿泊先の指定じゃ。そこで合流しようと。もう一通の手紙を宿の主人に渡せとある」
 そのもう一通を開いて、二人は顔を見合わせる。
 白紙だ。
 何をどうやっても、どこをどう見ても白紙だ。
「どういうことでしょう?」
「つまり……宿の主人は、これがわかる人間ということじゃな」
 再び顔を見合わせていると、宿が見つかりましたとクリスが戻ってきた。
 曄姫は、手紙をそっと懐に入れた。
 来る!
 音でも気配でもない。直感だった。
 足を止め、翔は振り返る。
『紅!』
 叫んだ。
 音もなく、無数の槍が飛来する。
 少女を庇(かば)い、斬り払った。その、ほんのわずかの間の出来事だった。
 警告に黒髪を揺らして紅が振り返る。
 その胸を目掛けて短槍が飛んだ。
 駆けつけて、切り払うだけのいとまがなかった。
 翔にできたのは、槍を胸に受け、くずおれる紅を抱きとめることだけだった。
 何かを言いたげに朱唇がふるえ、伸ばされた手がはたりと落ちる。
「紅さん!?」
 少女の悲鳴が耳朶に刺さる。
 駆け寄ろうとするのを、
「来るな!」
 制すると、
「鬼道丸!」
 鋭く呼ばわる。
 木陰から現れた黒鬼の面、墨色の装束の男。
 まだ何人かの下忍を引き連れている。
 風太――紅を抱えたまま、翔は言う。
「わたしが合図をしたら、リサちゃんを連れて先に行け」
「だって……」
「いいから。わたしの言う通りにするんだ。そうして――」
 わたしを待たずに、目的地に向かえ。
 風太にだけ聞こえる《念話》。告げた言葉に、少年が必死の面持ちで頷(うなず)く。
 手にした炸裂弾。動くな――と、爆発音に続く命令。
 瞬間、下忍の動きが止まる。
『姑息な真似を……』
 鬼道丸が呻く。
 かつて、鳥に襲われたとき、少女達を救うのに使った瞬間催眠(しゅんかんさいみん)である。
 が、さすがに鬼咒の頭領には効かぬらしい。
「行け!」
 視線だけで鬼道丸を牽制(けんせい)しながら言う。
「わかった。姉ちゃん――」
「……………」
「行こう」
 リサの手を風太が引っ張る。
 二度、三度、振り返る少女の視線を、翔は痛いほどに背中に感じている。
 紅の亡骸(なきがら)を横たえ、忍び刀の柄に手をかける。
「どうした、月影? たかが裏切り者のくの一ひとり、目の前で殺されたが、それほど口惜しいか」
 作られた面にも表情があるのか。翔は思う。
 斑(まだら)に落ちる木洩れ陽を受けて、黒い鬼面が哄笑しているように見える。だが、なにを嗤(わら)っている。
 ――女忍ひとり救えなかったわたしをか。
「お前など大嫌いだ。あの娘(こ)なら、そう言うところだろうな」
 立ち上がると同時に、刀を構える。
 口許が、笑みの形に歪む。
 見るものの背に戦慄を走らせる、凄惨な笑みだった。
「《鬼咒》頭領、鬼道丸。一族の仇とは敢(あ)えて言わぬ。今は、わたし自身の、この怒りを持って、お前を討つ!」
 良かろう。答えて、鬼道丸は面に手をかける。
「立ち会う前にひとつ、良いことを教えてやろうか」
 嘲笑って面を外し、焼け爛(ただ)れた半顔をあらわにする。
「威吹の巫女――汝(うぬ)の妹は、兄である汝に惚れておったとよ」
「何を――莫迦な……」
「実の兄である汝への邪恋ゆえに、威吹の巫女は霊力を失い、里の災厄を予知し損ねた。いわば、里を滅ぼしたのは汝の妹――いや、汝自身か」
「妄言(もうげん)で妹を――死者を辱(はずかし)めて、何の意味がある!?」
「妄言、だと? 気付いておったのではないのか、汝も」
「黙れ!!」
 斬り下ろし、切り上げた刃。間合いのわずか外で空を斬る。
 否―― 
 空を斬ったはずのそれが、陣羽織の紐を断ち斬る。
 それほどの剣風。
 そして、三撃目。
 受け止めた鬼道丸の刃。鏘然(しょうぜん)――鋼が鳴った。

 怒りは戦うものから冷静さを奪うという。
 必ずしも真実ではないことを、鬼道丸は知った。怒りに駆られているように見えて、月影の刃は鋭く、そして重い。一撃毎が必殺の意思に満ちている。
 が――
 ――まだ、若い!
 紅の死に、そうして、聞かせられた妹の恋情に逆上しているのが、その証拠。いずれ、太刀筋に破綻(はたん)を生ずる。
 幾太刀目か――
 双の刃が空中に交叉し、音と火花が散った。
 鬼道丸の刀が上。月影の刀を押さえつけるように斬り下ろす。
 須臾(しゅゆ)のさらに何分の一。それだけの差で、月影はその一撃を躱(かわ)す。
 間合いの一歩外。向き直った月影の、着衣の肩が僅かに裂けていた。
「羅刹・真空斬。よく躱した」
 焼け爛(ただ)れ、引き攣(つ)「る口許に、鬼道丸は血笑を刻む。
「が――、次は躱させぬ!」
 今一度、刃が絡み合い、空中に二つの影がすれ違う。
 そうして――。
 刃に存分の手ごたえを感じて着地した鬼道丸は、左肩をおさえ、よろめく月影を見た。
 肩を押さえた手を、忍び装束を、鮮血が染める。
 まとった鎖の着込みを裂き、鎖骨を――おそらくは肋骨の一本までは斬れていよう。
 はっ――と催眠から覚めた下忍が刃をかざす。
 向かってくる下忍を斬り捨てた月影が、傷の痛手に膝を折った。
「くっ……!」
 噛んだ唇から洩れる、短い苦鳴。
 血に染まった手が剣印を結ぶ。
 刹那、その場に火柱が立った。
 真紅に燃え上がったそれは、朱金に、黄金に、そして黒ずんだ赤に色を変え――
 それが消えたとき、月影の姿もまた、消えている。
「頭領。月影めは?」
「逃れられぬと悟って、自害を――」
「そのようははずがあるか! あやつ……」
 呻いた鬼道丸は、点々と地を染めた血痕を示した。
「奴は手負いだ。遠くへは跳べぬ。逃がすな!」
 下忍に命じると、胸を押さえる。
 眼前にかざした掌は、べっとりと血塗られている。
 鬼道丸の刀が鎖骨を割った瞬間、月影の刃もまた鋭く前方に延びた。
 その切尖(きっさき)がとらえたのは鬼道丸の左胸。おそらくは左腕一本と引き換え、あるいは相打ちで心臓を貫く覚悟だったのであろう。
 わずかな位置のずれ、そして太刀ゆきの速さが優ったために鬼道丸は命を拾い、月影は重傷を負った。が――
「月影め……」
 己れの血に染まった掌を握りしめると、鬼道丸は再び呻いた。


「おいら、やっぱり探しに行ってくる」
 風太がそう口にしたのは、藍色の空に最初の星が瞬き始めた頃だった。
 合流先の村はずれに着いたら、自分を待つことなく出発しろ。そう命じた翔ではあったが、
「大丈夫。あの男のことじゃもの、じきに追い付いてくるであろう」
 気丈に言って出発を促した曄姫が、不安を感じるに足るだけの、充分な時間が経過していた。
「姉ちゃん。これ、預かってて」
 翔から託された《華焔》をリサに押し付けると、曄姫のほうを向いて、
「先に行ってて。無事だったら、青を飛ばすから」
 言って少年は馬から飛び降りる。
 優れた忍びは、馬よりも早く駆けると聞いたことがある。ならば、敵地に入るのに馬は不要であろう。しかし、
「風太!」
 そなたが行ってどうなる。言いかけた言葉を曄姫は飲み込む。
 遠い東の国から西の大陸まで、はるばると旅をしてきた二人。
 故国に、幾人かの同胞は残っているとは聞く。
 しかし、この大陸には、この場には――
 いや。おそらくは故国においても、
 風太にはあの青年しか――翔しかいないのだ。
 どれほど人懐っこく、どれほど他の者に懐いているように見えても。他の者がどれほど風太を愛しんでも。
「気を……つけて行きやれ」
 戻るときは翔と一緒に。胸の中で言い添える。
「待て、小僧。儂(わし)も行くわい」
 子供を一人やれるものか。元聖騎士、スランが後を追って馬を駆る。
「ぼくは――行っても、結局、役には立ちませんから」
 少し無念そうな顔でクリスが言う。
 リサは無言で、二つの影が消える方向を瞶(みつ)めている。
 胸にしっかりと、預かった《華焔》を抱きしめている。
「リサ。そなた……」
 いいかけて、曄姫は無言で馬を寄せる。
 ――翔を、慕っていやるのか。
 口にしかけた言葉。これも、胸深くおさめる。
 言ったところで、どうなるものでもない。
 自覚しているかどうかも定かでない、少女の想い。おそらくは、実ることのない。
 翔はまだ、この少女を女性としては見ていないだろう。
 よい。自分の胸に呟く。
 ――想いの向かう先を、曲げることなどできぬからな……。
 他人にも、まして、自分自身にも……。
 だから――
 ――翔。無事に帰ってきやれ。
 今はそれだけを念じる。
 これだけのものが、そなたを案じていると――
 帰ってきたら、そう伝えてやるから。
 自分の命を軽いものに考えてはいけないと、そう教えてやるから。


「やれ……。あの小僧、どこへ行ったものやら」
 思いのほかに俊足じゃと、スランはひとりごちる。
 リサが捕らえられていた洞窟があるはずの岩山。細く通じている山道を避け、山中に分け入るうちに、彼はいつの間にか風太とはぐれていた。
 夜明け前。もっとも闇の濃くなる時刻である。
 細めに調整した光球だけを頼りに、道とはいえぬ道をスランは駒を進める。進みながら、はたして自分が案じているのは少年か、それともあの青年の方かと思った。
 喪った自慢の一人息子と同じ年頃。見れば思わずにはいられないため、つい視線を避ける。言葉を交わすことを避ける。
 決して嫌っているわけではない。いい青年だ。むしろ、嫌いになることが難しい。
 我に返ったのは、愛馬の嘶(いなな)きを耳にした後だった。
 大柄な栗毛が棹立ち、どうと横倒しになる。
 投げ出されて地面を転がり、そうして起き上がった耳に、鋭く金属同士のぶつかり合う音。そして、それが地面に突き刺さる音。
 足元の地面に刺さったそれを、何――と視認するいとまもなく、かつての聖騎士は、襲いかかってきた旋風に剣を叩きつけている。
 からくも彼の剣を逃れたそれは、夜色の装束をまとった人間となると、宙返りをしてさらに間合いから退く。
 一瞬の制止の後、地を蹴った。
 振り下ろされる刃を紙一重、剣を真横へ払う。
 夜目にも黒く、血がしぶいた。
 胴を両断されたそれが、声も上げずに横へ転がる。
 剣を拭っておさめ、改めて倒した敵を検分する。
 闇に紛れる色彩の独特の形の装束。黒く塗った片刃の剣。神器を奪った一味の《鬼咒》のニンジャとやらのものである。そしてその《鬼咒》とやらは、翔と風太――遠い異国から来たというあの二人に、関わりが深いものでもあるらしい。
 愛馬は、喉に奇妙な形の武器を受けて、絶命していた。
 さらに――
 スランの足元、二歩ばかりの距離。変わった形の金属片が二つ、絡み合うようにして突き刺さっている。その一方に見覚えがあった。
 ――翔というた、あの青年の!
 手裏剣ってなんですか。連れのクリスと言う若者が尋ねた時に見せたものと同形。両端の尖った金属片を二つ、中心で金具で留め、投じるときは十字の形に開く。変わった武器だと見た記憶はまだ新しい。それが、この場にあるということは――。
 ふっと、何かを感じて背後を振り返る。
 無人であったはずの岩陰。それとも、見過ごしただけだったのだろうか。ともかく、そこに人の姿があった。
 岩にもたれ、うずくまるようにしている。
 まだ若い、痩身(そうしん、)の――
「翔か!?」
 初めて呼んだ名に、影の中、端正な顔がうっすらと嗤(わら)ったような気がした。
「なんじゃ、こんなところで。皆がどれほど心配――」
 言いながら近寄って、顔色が変わるのを自覚する。
 肩を押さえた手を、着衣を染める黒ずんだ色は――
 ――血か。
「翔……」
『頭領』
 眼前に膝をついた灰色の装束を、黒い鬼面が無表情に眺めた。
 これを、と差し出される黄金の小太刀を手に取る。柄の半ばに、赤黒く血がこびりついていた。
『月影は?』
 頭領の問に、爆風で木っ端微塵(みじん)にと下忍は顔を伏せたままで答える。
『馬頭鬼(めずきどの)も、ともに――』
 果てたとの下忍の報告に心動かされた様子もなく、鬼咒(きしゅう)の頭領は《華焔》を眺めると、
『これで、あの小うるさい魔道師とやらの鼻をあかしてやれるわ』
 傍らに控えた紅を顧みる。昼夜の別も定かでない洞窟の中。岩壁にかけられた松明(たいまつ)の揺らぎが複雑な陰影を落とし、鬼面が哄笑を放っているように見える。
 鬼道丸は、岩室の一隅に引き据えた少女に向かい、
「月影は死んだぞ」
 大陸の言葉で告げた。
 はじかれたように顔を上げ、少女は大きな目をさらに見開いて鬼面を見る。いくばくかの後、掠(かす)れた声で嘘――と言った。
「嘘。嘘です!」
「嘘ではない。これが証だ」
 血に染まった華焔を示されると、顔色を変える。
 唇を噛み、射抜くようなまなざしで鬼道丸を睨みつけた。
 膝の上に置いた両手が、関節が白くなるほど握りしめられ、細かく慄えている。弱みを――涙を見せまいとしているのだろう。
 一人になったら慟哭(どうこく)するのだろうか。それとも、ただ涙だけを流すのだろうか。
 複雑な思いで、紅は少女を眺めた。
 彼女自身が、奇妙な喪失感に似た思いに、戸惑いを覚えている。
 ――この手で月影を討ち取りたかった。
 言葉にしてみて、それだけではないことにさらに戸惑う。
 精一杯の努力で悲しみに耐えているように見える娘に、紅は再び視線を向ける。
 途中で合流した風の神器の保持者とは聞いていた。現に、取り上げた《風伯》は、洞窟内のしかるべき場所に納めてある。おそらくは幾十日かを共にすごした旅の道連れ。あるいは同志。普通ならば、そんなものだろう。が、娘の悲傷ぶりはそれだけではないようだ。
『娘。そなた――』
 月影の女なのかと訊こうとして止めた。どうせ、言葉は通じない。
「仇なのでしょう。もう少し嬉しそうな顔をしたらいかが!?」
 顔を上げた娘が、噛み付くように言う。
 むき出しの憎悪が叩きつけられる。
 かつて、自分が月影に叩きつけたそれと同質の――
 大切な人を失えば悲しい。殺されたと知れば、なお辛い。殺した相手が憎い。この手で引き裂いてやりたいと思う。
 例えばそれが、直接手を下した相手でなくても。
 この――当たり前の感情。
 ならば――
 ――月影はなぜ、一族の仇の鬼咒であるわたしを助けた……。
 父を討った負い目だろうか。いや、そのはずはない。あの灰色の頭髪の男の言う通り、父・琉鬼(りゅうき)は戦って敗れたのだ。紅に月影を恨む理由はあっても、月影に紅に負い目を感じねばならぬ理由は微塵もないはずだ。
 ならば真実、瀕死(ひんし)の女を見捨てられなかっただけか。
 ――あまい……男。
 頭領――と、紅は鬼道丸の前に膝をつく。
『この娘、如何(いかが)いたされます?』
『火と風。二つの神器が手に入った今、もはや用はない。殺す』
 予想通り。いかにも《鬼》の頭領の答えだった。
『では、わたくしにお命じを』
 垂れた頭に、ほう……と興がっているのが明らかな声が降る。
『憎い月影の仲間。あやつの身代わりに、せめてこの手で地獄へ送ってやりとうございます』
『良かろう』
 応えとともに、《鬼》を束ねるものは背を向ける。
 再度頭を下げて見送り、気配が十分に遠ざかるのを確かめてから紅は、来い、と少女の手を掴んだ。
 リサ。たしか、月影はそう呼んでいた。
 ごく親しい、姉妹にでも向けるようなまなざしで見ていた娘。逃がしてやることは月影への、
 ――供養、とやらになるか。
 自分の感情に、そう折り合いをつける。
『リサ、というたな。逃がしてやる。来い』
「あなた――」
 言葉は通じずとも思いは通じるのか。まじまじと、少女は紅の顔を眺める。奇妙な生き物を見る目。多分あの洞窟で、紅がこの娘を見た――
『紅。わたしの名は紅だ。さあ、来い』
 こくんと頷(うなず)く仕種はひどく幼い。娘と――、一人前の女と思っていたが、実はまだ、ほんの子供なのかもしれない。
 《威吹》の巫女。鬼道丸が斬った月影の妹もまだ十四・五歳。少女と女の狭間の年齢であった。そんなことを思い出す。
 ――頭領は、鬼道丸殿は女子供でも容赦なく殺す。
 こんな少女ですら。
 威吹の《影》の里。一人残らず死兵となって戦った女達を思った。
 完全に退路を断たねば、そんなこともなかったろうに。
 少女の手を引いて隧道(ずいどう)を走る。
 途中、見張りに立つ下忍を何人か、手裏剣で倒した。
 一人倒すごとに、引き返さない道に踏み出した自分を、自覚した。
 洞窟の外、開けた場所へ出たところで、
『どこへ行く、紅?』
 降ってきた声に、身をこわばらせる。
『頭領!?』
 咄嗟(とっさ)に腰帯に差した笛を構える。《夢想》の調べ。聴覚から平衡感覚(へいこうかんかく)を狂わせる秘曲である。
 歌口に唇を当てたとき、ゆら――と、大気が揺らめいた。次の瞬間には、十余の下忍を従えた鬼道丸が眼前に立っている。
 からん、と乾いた音を立てて、笛が真二つに割れる。
 篠笛に突き立つ、極細の針――
『やはり裏切ったな、紅』
『やはり?』
『一旦は月影に捕らえられながら、無事に戻ったその方。あるいはと思い、見張っておったのよ』
『頭領……。お前様は――!』
 配下が――、一族が、そこまで信じられぬのか。
『裏切り者の末路。抜け忍の定め。心得ておろうな』
 重い声音で言って、鬼道丸は刀を抜く。
 染み付いた習性。身を守るためであれ、頭領に刃を向けることはできぬ。覚悟を決めたとき、少女が何事かを鋭く叫んだ。
 真空が、咄嗟に身を躱した鬼道丸の横を通り抜ける。
 下忍を倒し、紅を傷つけた技も、やはり《鬼》の頭領には通じぬのか。
『小娘。汝(うぬ)から地獄へ行くか』
 振り上げられる刃に、少女を背に庇い、紅は固く目を閉じた。


 きん――と。
 鋼同士の討ち合う澄んだ音。
 思わず閉じていたリサの目を開かせたのは、それだった。
 見ると、紅目掛けて振り下ろされたはずの鬼道丸の刃。下忍の一人が、刀を抜いて受け止めている。
 二瞬ほどの唾(つば)ぜりあいの後、下忍が飛び退り、再度振り下ろされた刃は空を斬る。ふわり、灰色の装束だけが刀身に絡み付いた。
 そうして――
「ここだ、鬼道丸! ――どこを見ている?」
 揶揄(やゆ)を含んだ明るい声音は、傍らの岩上から。
 見上げた岩頭、
「威吹の月影、見参」
 忍び刀を手に、墨色の忍び装束の月影が――翔が、居た。
 無事だったんだ! 歓喜が稲妻のようにリサの体を走り抜けた。
 やっぱり、死んだというのは嘘だったんだ!
「おのれ……。生きておったか!」
「《影》は死なぬ。汝ら《鬼》を滅ぼすまでは」
 リサは知らない。巫女の――死に際の樹の言葉。
 鬼面の下、わずかに変わる鬼道丸の顔色に気付いてか、口許に血笑。
 死を装い、下忍に姿を変えての潜入を、
「月水の術。古典的な手だが、実に効果的だな」
 他人事のように感想を述べるあたり、確かに敵の目から見ると、殺してやりたいくらい憎らしいに違いない。
 無造作に岩頭から取り降りると、翔は娘二人を背に庇(かば)う位置に立つ。
 刀を抜き連ねた下忍が、それを取り囲む。
 きら――と陽光を跳ね返して刃が翻(ひるがえ)り、下忍が朱に染まった顔を押さえて後退する。
 と、いきなり。
 ピピピピ、ピーピー、ピピピピ……。
 一切の緊張感を突き崩す、実に長閑(のどか)で間の抜けた音が響き渡った。
 神器探索アイテムの立てる、それである。
 心なしか、音が大きい。
 その途端、鬼道丸も下忍たちも、紅までもが耳を押さえて苦悶の表情を浮かべた。
 同時に、
「月影さん、あったよ!」
 火と風の神器を抱えて、風太が洞窟から走り出て来た。
 行くぞ、と翔が手だけで合図する。
 風太がリサの手を取る。
 そうして、紅の手までを引っ張って――
 一同は火急速やかに、その場から退散した。


 停止、と声をかけたのは翔か、風太か。
 ピピピピ、ピピピピとやかましいアイテムの停止と同時に、三人の足も止まる。
 少し行き過ぎて戻ってきた風太は、息も切らしていない。
 全力疾走後のリサの心臓は、爆発寸前だった。
「大成功だったね」
 少年は笑いながら言うと、両耳に手をやる。取り出したのは、どう見ても耳栓だった。
 まあな、と笑って応じる翔の手にも耳栓。ぽんと放り上げると、空中にあるそれを、ぱしっと掴み取る。
 つまりは、耳をふさいだまま敵の頭領と会話をしていたわけだ、この人は……と、リサは少し呆れた。ひとこと、ふたこととはいえ、よくも会話が噛み合ったものだ。
「大丈夫――じゃ、なさそうだな」
 とは、不機嫌を石膏(せっこう)で固めて胸像にしたような顔をしている紅に向けた、翔の言葉である。
 確かに、延々あの音を聞きながら走るのは、リサでもいい加減うんざりする。特殊な音を聞き取るという忍者なら、なおさらだろうが、
「そ…そん、なに、きつい……もの」
 息が弾んで言葉にならない。
 まあ、と翔は実に厭(いや)そうな顔をする。意気込んで、あれはねと言いかけた風太の口をふさぐと、解説は後でと言った。
 改めて、不機嫌やら不本意やら不服やら、《不》の付く単語を十ばかりも固めて仮面に作り上げたような顔つきで座り込んでいる紅に、何かを言って頭を下げる。リサを助けようとしてくれたことへのお礼かもしれない。
 固まった表情のまま、紅が何かを言い返す。
「なに……を?」
「わたしは無辜(むこ)の者を手に掛ける頭領のやり方を好かぬだけだ――と」
 はずむ呼吸で訊いたリサに、珍しく翔が通訳をつとめる。
「わた……くし?」
 つまり、鬼道丸がリサを殺すように命令をしたという事か。
「そう」
「紅さん、ありがとう!!」
 感激した。
 助けられたことではなく、敵にも人間らしい人がいたということに。
 思わず前に座り込んで両手を握ると、女忍者は顔をしかめて、その手を振りほどく。照れているのか、本当に厭なのか。
 両方なのかもしれない。
「さて。リサちゃんの息が整ったようなら、連中が追いついてこないうちに出かけようか」
「追ってくるかしら?」
 とは風太。
 当然だろうと応えると、翔は
『紅――』
 二言、三言、扶桑の言葉で言い交わす。紅が激しくかぶりをふる。翔が頷く。
 立ち上がった紅が、激しいまなざしで翔をにら(にら上)みつけると、くるりと背を向けた。
 歩きかけ、立ち止まる。
「一緒に来ないのですか?」
 リサの疑問に、風太がこくこくと頷く。
「来ればいいのに」
 こられるわけがない。静かに翔が言った。
「わたしは――月影は、あの娘にとっては父の仇なんだ」
 事実を事実としてのみ見据える、何の感情も伺えない、水のような眸の色。リサのよく知っている――知っていると思っている“翔”ではなく、おそらくこれが“威吹の月影”の貌だ。
 どうするのだろうと、ふとリサは思った。“月影”は。そして紅は。
 多分この先、紅はこれまでのように月影を憎めない。
 どうするのだろう。どこへ行くのだろう。
「可哀相だね」
 風太の言葉に、こくんと頷く。
 頑(かたく)な向けられた紅の背中。なんだか、少し……切ない。
 ――いいえ、それとも違う。
 やるせない――と言う言葉を、リサはまだ知らない。
 胸に迫った感情の行き場がなくて、こつん――と、翔の胸の辺りに頭を預ける。
 慰めるように、宥(なだ)めるように肩におかれた手は、しなやかな長い指の、それでも節の高い――平和な時代しか知らないリサには知るべくもないが、紛れもなく剣を執(と)る者の手だった。
 何か、想いを決したように背筋を伸ばして、紅が歩き出す。
 見届けて、リサたちもまた背を向ける。
 そして――
 振り返ればまた、互いの姿がはっきりと見えるうちに――
 それほどしか遠ざからぬうちに、それは起った。
 さて、風太である。
 若いのを困らせるなと聖騎士に部屋に放り込まれ、熱さましだよと太った目の細いおじさんに妙な色の甘い飲み物を飲まされ、暖かくして寝ていましょうねとリサ姉ちゃんに布団の中に押し込まれ、さらには痩せたおばさんに、おいしいものを作ってきてあげるから大人しくしているんだよと駄目押しされて、それでも一つ寝ると気分的にはすっかり元気。とても寝てなんかいられない。今からでも翔たちの後を追おうかと、周囲の隙を見て屋外へ出た途端に、
「お前の持ってるの、竜だろ?」
 村の子の一人に声をかけられたのが発端で、本当に竜かよそれ? とか、嘘だよ竜は絶滅したって父ちゃんが――とか、ゼツメツって意味知ってるのかよお前とか、だってー羽根あるしー青いしー宝石みたいだしーとか、そんなこと言って宝石見たことあるのかよお前とか、カッコいいよなーとか、うわー初めて見た凄えーちいせーとか言う子供たちに囲まれてもみくちゃにされる羽目になった。
 さすがに子供相手では、投げ飛ばすわけにも気絶させるわけにも行かない。
 何とかやっと逃げ出して、部屋に戻ると、
「あれ? リサ姉ちゃんは?」
「他にも怪我人がおるとかで、世話役が連れて行ったぞ」
 元・聖騎士に言われた。
 慌てて目の細いおじさんを探して、リサの居場所を訊く。
「坊や、熱は?」
「下がったよ。リサ姉ちゃんはどこ?」
 あちらと指さされた小屋に直行し、室内を覗き込んで、
『おまえ……』
 風太は息を呑んだ。後ろ腰の小太刀に手をかける。
 鬼咒(きしゅう)の女忍者・紅。それがリサを抱えて、どこかに連れて行こうとしていた。
 リサはぐったりとして、身動きもしない。
『こいつ! 姉ちゃんを放せ』
 風太の言葉に賛同するように、小竜がチイチイと鳴き立てる。
『威吹の小童(こわっぱ)か』
 冷ややかに、鬼咒のくの一は嘲笑(わら)った。
 苦無(くない)をリサの喉に突きつける。
『退け。娘に傷をつけられたくなければな』
『卑怯だぞ。姉ちゃんに治してもらったくせに!』
 言いながら、じりじりと後じさる。そうせざるを得ない。
『治療など、わたしは知らぬことだ。小童。娘はこの紅が預かる。そう、月影に伝えい』
 言うと女忍――紅は身を翻(ひるがえ)した。
『畜生ー。莫迦(ばか)―! 卑怯ものー!』
 その背中に思い切りの罵声(ばせい)を送ってから、風太は子供らしくもなく溜め息を吐く。
 ――あんな奴、助けなけりゃよかったんだ。
 とは、それでも思いたくはない。翔が――月影が決めて、全員が納得してやったことだ。そうして、今でも間違ったことだとは思えない。
 ――恩をあだで返すって言葉があったよなー。
 だからあいつが悪いんだと、“青”と名付けた竜の背を撫でてやりながら、風太は自分を納得させる。《鬼咒》はみんな悪者なんだ。
 そうして、その悪者につれて行かれたリサのことを思う。
 確かにこの事態、もし残ったのがクリスの兄ちゃんだったりしたら、どうしようもないや。
 そして、元・聖騎士のおじさんも、頼りにはならないみたいだ。
 ここは一番、この風太さんががんぱらなくちゃ。
 チイ……と、同意したように青が鳴いた。


 空間が裂けた。
 一瞬、曄姫の目にはそう映った。
 裂けた空間はたちどころに閉じ、そこから現れた風太の青竜が、小さな羽根を羽ばたかせてチイ、チイと鳴き立てる。
 盗賊として商人を襲ったらしい《鬼咒》が根城とするといわれた山の中腹。途中、馬を捨てねば進めぬほどの細い山道を経て、前方に洞窟らしいものが見えてきた辺りである。
 わずかの間に倍ほどの大きさに育った青竜が、翔の方に飛んでゆくのを、珍しいことと曄姫は見る。親代わり(!)の風太は別格として、この小さな竜が次に懐(なつ)いているのはリサ。ほかの者に対しては、体を撫(な)でるのを容認する程度。こんな風にまつわりつくなど、なかったことである。
「どうした、青。風太になにかあったのか?」
 籠手(こて)にとまらせ、青竜が言葉を解するかのように話しかけた翔が、ふと眉をひそめる。遠く、何かを聞く様子を見せたかと思うと、
「やられた!」
 呻くように言うと、唇を噛んだ。
「いかがした?」
「リサちゃんが拐(さら)われた。風太が追っている」
「風太が?」
「ああああ、あのっ、あの、あの、あの……」
 わたわたと何か言いかけたクリスの口を、ぴたりとふさぐと、
「月影」
 あえて忍び名で呼びかけたのに、青年がまなざしをきついものにする。
「そなた、よもやリサを囮(おとり)にしたのではあるまいな? だったら許さぬぞ」
「可能性があったことは、否定しない」
 威吹(いぶき)の若頭領は、真っ向から曄姫の非難を受け止める。
「ただ、本当に囮にする気だったら、わたしが穏形(おんぎょう)してあの娘(こ)に貼り付いている」
「そうであったな」
 たとえそれが、どれほど有利な作戦だろうと、少女をおとりにするなど、この甘すぎるほどに優しい青年に出来るはずもない。
 おそらくあの元・聖騎士を残したのは、リサに危害が及ばない用心のため。ならば責められるべきは、その信頼に応えなかった元・聖騎士の方だろう。
 微笑うと、行け――曄姫は言った。
「そなた一人のほうが速かろう。我等は、あの村のはずれで待つ。無事に――リサを取り戻してきてくりゃれ」
「曄姫殿……」
 らしくもない逡巡か。何かいいかけたのに、ニヤリと笑ってやる。つられたように、青年も、ふ……と笑みをかえした。
「……では」
 目礼を一つ残して、山を駆け降りてゆく。
 青竜が羽ばたいて後を追う。風太の元へ向かうと知っているのだろう。
 その後姿を見送って、さて、我等も――言いかけたとき、のそりと、背後の洞窟から巨大な影が現れた。
 翔の逡巡の理由は、おそらくはこれ。任せて山を降りた――それほど信頼してくれたということは、
 ――さっさと片付けて、合流せねばな。
 振り返り、影の招待を見極める。
「なんじゃ。熊かと思うたら、人か」
 いや。牛じゃなと、曄姫は内心で訂正する。
 半裸の胸に大玉の数珠をかけた大兵の男。いかつい顔が、何かを連想させる。
 そう。昔、何かの絵で見た牛頭人身の地獄の獄卒。
 ――牛頭鬼(ごずき)……と言うたか。
 手にしているのは長い樫の棒。数箇所(すうかしょ)に鉄の環が填(は)めてある。
「翔は――月影は先に山を降りたぞ。足止めにもならなんだな」
 濁った声で、牛頭鬼が何かを言い返す。月影と、聞き取れるのはそれのみ。
「何を言うておるのか、わからぬ。大陸に渡るなら、言葉くらい覚えてからにいたせ」
「曄姫さん、退いていてください! ぼくが――」
 雄叫びを上げ、バスターソードを振りかざすと、クリスが飛び出す。
 棍(こん)を構えようともせず、牛頭鬼はそれを待ち受けた。
 脳天に一撃。
 渾身(こんしん)のそれを平然と受けると、丸太のような腕を一振りする。
 若者の体が吹き飛んだ。
 さならが、布で作られた人形の他愛なさである。
 岩肌にぶつかって、ずるずると頽(くず)おれるのに、
「死ぬでないぞ」
 曄姫は、考えようによっては無茶苦茶な一言を投げる。
「妾(わらわ)には、死骸を担いで山を降りる趣味はないからな」
「……………はい………」
 素直な返事。とりあえず、命に別状はないらしい。
 ――存外、頑丈な。
 内心で、安堵の息を吐く。
「気を……つけて。…岩に、斬りつけた…みたいな……」
 ――気功、か。
 《気》の力で鉄のように体を固くする技あると聞いた。それとも、この牛頭鬼が使うのは、忍法とかいうあやかしの術か。
 いずれにしても、
「さ…て。月影なら、どのように料理するであろうな」
「仝★@&◎○£●¢♀→〒△◇◆」
「何を言うておるか、わからぬ」
 剣を抜き放つ。
「そこに持った棍(こん)は飾り物か? それとも、使い方を知らぬのかえ!?」
 揶揄(やゆ)の言葉を投げかけ、斬りつける。
 カッ…と鈍い音を立てて、剣を受け止めた棍が三つに割れた。
 間を鎖で繋いだ三節棍。使い手によっては恐るべき武器となる。が、
「どのような達人でも、鍛(きた)えられぬ場所がある」
 棍が剣を絡め取るにまかせ、飛び下がりながら左の耳飾りに手をかける。
 親指大の翡翠(ひすい)の飾り玉。引き千切ると、
「一つは、目!」
 握りこみ、母指で弾く。
 古武道にいう指弾(しだん)。狙いは違わず牛頭鬼の左目を打ち貫き、
『がああ!』
 牛頭鬼に獣めいた苦鳴を上げさせる。
 その、大きく開いた口を目掛け――
「いまひとつは、口中じゃ!」
 右手に持った一刀。投じたそれが、唸りを上げて飛ぶ。
 口中を貫いたそれは、勢いをそのまま、斜め上、牛頭鬼の後頭部に突き抜けた。
 大きく口を開いたまま、鬼形の男は、その場に佇ちつくす。
 それに、
「どおおおおおーりゃあああああー!!」
 雄叫びを上げ、大剣を槍のように構えた若者が突進する。
 巨大な剣は牛頭鬼の体を貫き、背後の岩壁に縫いとめた。
「クリス……」
「剣は、力に任せて振り回すばかりのものではない――でしたよね。あ痛たた……」
 顔をしかめると、背中を押さえる。
「上出来じゃ」
 笑うと、曄姫は若者に山を降りられそうかと訊いた。
「あ痛。降りられないって言ったら、置き去りにする気なんでしょ?」
「当たり前じゃ。妾には、そなたを背負っては降りられぬ」
「これだものなぁ。痛たたた……」
「大丈夫かえ?」
「特に骨とか折れてないようですし。ここが根性の見せ所! 痛たた…」
 牛頭鬼の体からバスターソードを回収すると、杖代わりにする。
「何か、痛……、曄姫さん、いま、変わった技を使いましたよね?」
「見ておったか」
「はあ……、痛た…」
「少しは辛抱いたせ。男であろう?」
「ぼく、今日から女の子になります」
「風太か、そなたは?」
「まあ、その……。だから、さっきの業ですが」
「指弾という。月影――翔の同族に教えて貰うた」
 ひたすら、剣の稽古(けいこ)に明け暮れていた十代の娘の頃に知り合った不思議な老人。扶桑の忍び――と教えてくれたのは、彼が寄宿していた寺の住職であったか。剣を学ぶことは人を殺す技を学ぶこと。そう諌(いさ)め、また、覚悟を教えてもくれた。
 ――そういえば。
 ふっと、曄姫は微笑する。
 あの老爺(ろうy)の面差しが、どこか翔のそれと似ているような気がする。
 時に闊達(かったつ)な、時にひどく張り詰めた表情を見せるあの青年に対し、彼女の記憶にある老爺は、風に吹かれる雲のような飄々(ひょうひょう)とした人物であった。どこかの山に入って、仙人にでもなっているかもしれない。そんなことを思わせるような。
 ――本当に同族――血族であったのかも知れぬな。
「その、月影って何ですか?」
「翔の忍び名――忍者としての名前だそうな」
「えーっ! 聞いてません――痛たたたた」
「驚くか痛がるか、どっちかにいたせ」
 苦笑して双刀を回収する。鞘に戻し、山を降りようとして、曄姫はふと首を傾げる。
「どうかしましたか?」
「うん。牛頭鬼には馬頭鬼(めずき)という相方がおったはずじゃが……」
 
 
 翔がその馬頭鬼に遭遇(そうぐう)したのは、峠一つ越えた山道の半ばだった。
 実際に馬頭をしているわけではなが、馬が同族と見間違えそうな長い顔。金剛力士さながらの体躯の腰を黒の法衣で覆い、首に大人の拳大の数珠をかけた姿は、確かに地獄絵に描かれたそれを連想させる。
 鬼咒の馬頭鬼。型どおりに名乗ったそれを、むしろ冷ややかな目で眺めると、
「のけ」
 青年は冷厳に言った。
「お前の相手をしている暇はない」
「のかせたくば、倒して通れ」
 いうと、馬頭鬼は首にかけた数珠を外した。ぶんと一振りする。
 百八の珠が宙に弾け、恒星の周りをめぐる衛星のごとく馬頭鬼の周りを巡りはじめる。
「これすなわち球の結界。一つに触れれば次々と連動し、触れたものを打ち倒す。月影よ、よくこの結界を破り、我を倒すか」
 大層な口上に報いたのは冷笑。
「青。風太のところへ行け」
 言って、青竜が姿を消すのを確かめ――
 無造作に投じたのは二個の十字手裏剣。後の一つが、先のそれに打ちあたり、軌道を変える。下方から球の結界を通り抜け、瞬時に百八の玉が、ぱらりと 大地に散った。
 仕掛けの元は球を操る極細の天蚕糸(てぐす)。要の一点を断ち切れば結界は崩れる。
「どうする? 大人しく退くか、それとも――」
 いいかけたとき、かすかな火縄の匂いが感じられた。
 罠――!
 直感した刹那、火柱が立ち、轟音がとどろいた。 
 風太を奥さんに頼んで行ってみると、怪我人は村々を回る旅の商人とその護衛。ニーサの世話役さんに似た初老の丸顔の人が、盗賊にやられたんだと説明していた。
 軽症者のほうは既に聖騎士が治療していて、
「治癒の魔法で、大地母神の神官、巫女に勝てるものはないからの」
 例のごとく仏頂面で言う。機嫌が悪いわけではなく、どうやらこれが地顔らしい。だったら少しはた迷惑だなと、リサは思う。
 後ろからばっさり斬られた、以前のリサだったら確実に悲鳴を上げて逃げ出していた酷い傷に《治癒》をかけて、
「終わりました」
 顔を上げ、これは騒ぎを聞きつけて出てきたのだろう翔の顔に――というより、刀に視線を固定して、固まってしまっている世話役さん(リサは、この男性を便宜的に世話役さんと呼ぶことに決めた)に、首を傾げた。
「あのー。どうかなさいましたか?」
「その人は?」
「旅の人だよ。巫女さんと聖騎士様のお連れだ。弟さんが――まだ小さいんだが、急な病気で」
「元・聖騎士じゃ」
 初めて聞いた。だから、どうということはないケド。
 村長さんの説明に、怪我人を連れ込んだ《世話役さん》は、そうかとうなずく。一同を見回してから、また、そうだなと言った。
「盗賊が、巫女様や聖騎士様と連れ立っているわけがない。まして、子供連れなんぞ」
「だーれが盗賊ですってぇ?」
 つい、語尾が不穏な感じにはね上がる。
「翔が、か? コレの、どこが盗賊に見えるのじゃ?」
「な……んか、さり気に失礼な人ですよね」
 気が付くと、風太以外のメンバーが揃(そろ)っていた。
「リサちゃん。曄姫殿もクリスも、ちょっと黙っていてくれ」
 言って翔は、世話役さんの前に立つ。
「いや、あの、その。あの。悪かったよ、失礼なことを――」
「そうではない。その盗賊は、わたしと同じ人種だったのか?」
「いや。あの、よくはー。ただ、その、賊の一人が残していった剣が、その」
「これと同じもの、ということか」
「見てもらったほうが早いだろう」
 村長さんが言って、翔の前に剣を差し出す。
 よく似た拵(こしら)えの、細身で少し短い片刃の剣。リサはいい加減見慣れたけれど、刀身が優美な弧を描くそれは、確かにこちらでは珍しい型だ。
 鞘を払った翔の顔色が変わった。
 片刃真っ黒に塗られた刀身は――
『鬼咒(きしゅう)の黒塗り刃』
 扶桑の言葉。ただ、《鬼咒》という部分だけが聞き取れた。
「これを持っていた相手に襲われたのだな」
「いやー。その、盗賊かどうかはその、よくはわからんのだわ。そのー。出会いがしらにな、あの、いきなり、こう――あれされてだ」
「斬りつけたのか?」
「ああ、うん。まあ、その、賊のほうは、そのな、皆、顔を布でアレしておったんでな。ただ、首領らしいナニが、その、奇妙な面をあれしとって…」
「つけていたのだな」
 しどろもどろ、語尾がぼやけがちで、さらには次第に指示代名詞の増加傾向を示す世話役さんの言葉に対し、翔の口調がきつくなるのや、やむをえない仕儀というものだろう。
 リサだって、内心ではちょっとばかりいらっとしているし。
「ああ、そう。うん。黒いナニで、こんな具合で、二本のアレがこう、にょっきりとソレしておって」
 世話役さんはちょっと黄色くなった歯をむき出し、両手の人差し指を左右のこめかみ辺りで立てて見せる。
 黒い面に二本の角――
「翔さん!」
 リサは思わず声を上げている。
「ああ。多分」
 何ですかとのクリスの問に、
「鬼道丸だ」
「翔さんをぶった男です」
「それは、もういいから」
 その間にも世話役さんは、はあとかまあとかそのとかあれとかなにとか言いながら、その盗賊団らしい連中の根城は向こうの山にあるらしいというようなことを、指示代名詞を多用した判り難い言い回しで喋(しゃべ)っている。思いついたことを全部喋ってしまわないとおさまらないタイプらしい。
「鬼道丸と申すは、たしか――」
 曄姫が身を乗り出す。
「鬼咒の頭領だ」
「偶然にしては出来すぎのような気がするが?」
「――とは思うが、罠なら罠で、確かめずに済ませるわけにはゆかない」
「妾(わらわ)も同行いたそう。風太に付いておっても、気を揉むだけで役に立ちそうにもないし」
「曄姫殿……」
「雑魚(ざこ)ぐらいなら、引き受けてやれるぞ」
 曄姫の言葉に翔は目もとだけで笑んで、少し考える様子を見せた。右手の親指が下唇の辺りをさまよい、じきに謝意を示して軽く頭を下げる。
「騎士殿」
「なんじゃい」
「ここに残って、彼女をお願いする」
 リサを示すと、今度は、どこかおどおどしているようなクリスに顔を向けた。
「来るか?」
「は…はい!」
「足手まといになるでないぞ」
 曄姫の言葉に、
「なりませんよぅ」
 言うと、馬を用意してきますと走って出て行く。
 反対側のドアが開いて、見ると服をつけた風太が、青竜を肩に立っていた。
「風太。まだ寝てなきゃだめじゃないか」
「おいらも行く」
「莫迦(ばか)を言うんじゃない」
「おいらも行く。連れてって」
「駄目だ。まだふらついているじゃないか」
「やだ。絶対に行く」
「風太」
 前に立って、百十度、腰を屈めて青年は少年の目を覗き込む。
「聞いていただろう? これは罠かもしれないんだ。危険とわかっていて、こんな状態のお前を連れてゆくことは出来ない。聞き分けてくれないか」
「やだ!」
「風太!!」
「絶対にやだ!」
「風太。わたしの言うことが聞けないときは、即刻扶桑に送り返す。約束したな」
 ごくっ――と、少年の代わりにリサが息を呑む。
 可能か不可能化は別問題。本当に、即刻実行しそうな気配が、この時の翔にはあった。
「約束したな」
「………………うん」
 項垂(うなだ)れる少年に、それに、と翔は口調を和らげる。
「リサ姉ちゃんに何かあった時、誰が守る?」
「でも……」
 ここまで聞き分けのない風太も珍しい。
「風太ちゃん。わたくしとお留守番は、いや?」
「でも……」
 しょんぼり、可哀想なくらい項垂れるのに、
「小僧」
 事態を静観していた聖騎士が、横合いから風太の体をひょいとすくい上げる。
「大人しく聞き分けて行かせてやれ。若いのが困っておる」
 そのまま、寝室のほうへ運んでいった。
 何となく、厩(うまや)へ向かう翔と曄姫にくっついて歩きながら、
「あのおじ様、ヤな人かと思っていたら、案外良い方なんですわね」
「…………」
 無言のまま、風太にでもするように、翔はリサの髪をかき回す。
「クリスさんも、風太ちゃんのことでは自分のことのようにおろおろして」
「ぼくがどうかしましたか?」
 馬を引いて、若者がやってくる。表情が少し明るい。
 装備を確認し、頷いてみせると翔は馬上に身を移す。
「リサちゃん」
 名を呼ばれ、はいと返事をするのに、
「風太を――頼んだよ」
「は…はいっ!!」
 思いがけない言葉に、力一杯返事をしてしまう。
「さあ。行くぞ、空木」
 山のほうへと馬首を巡らす青年を、翔さん――と、リサは呼び止める。
 何を言いたかったわけではない。無論、風太のように連れて行けとせがみたかったわけでもない。自分にも理解できない衝動(しょうどう)だった。
 何か――と、問いかけるまなざしに、
「気を……付けて」
 無理に、言葉を送る。
「ありがとう」
 いつもの笑みを残し、翔は軽く馬腹を蹴る。葦毛が軽やかな足並みで走り出す。
 何やら思わせぶりな笑みを見せて、曄姫が後に続く。
 何を言おうとしたのか、と見こう見して迷った挙句に、後を追いかけるのはクリスだ。
 向こうの山並みに向け、三つの騎影が遠ざかってゆく。
 こうして彼らの――翔の後姿を見送るのは初めてではない。それなのに――
 なぜだろう。今日は不思議に風が騒ぐ。
 秋空を、雲が千切れ飛ぶ。
 髪が吹き乱される。
 胸が――騒ぐ。
 ――無事で。どうか……。
「何だっていうんだろうねぇ」
 非難がましい声がして顔を向けると、腕まくりをした村長の奥さんが立っていた。
「あの兄ちゃんは、弟が病気だっていうのに、まるで親の仇でも見つけたみたいに――」
「見つけたんですよ」
「へっ?」
「お父様と妹さんの仇。海の向こうから追っていらしたのです」
「おっ母さんは?」
「早くに亡くなられたとか」
 あれまあと気の良い奥さんは、物凄く気の毒そうな顔をした。
 何か、自分なりの物語を想像したようだった。
「大丈夫かね、あの兄ちゃん? 優男(やさおとこ)だし」
「ええ。大丈夫です。あの方は――」
 そう。大丈夫、翔さんは強いから。以前に風太の言った言葉を信じることにしよう。いや。翔を信じて待っていることにしよう。風太には不安な顔を見せてはいけない。自分が風太を預かったのだ。不安にさせてはいけない。
「じゃあさ、坊やに何か、おいしいものでも作ってあげようかね。兄ちゃんが帰ってくる頃には、すっかり元気になっているようにさ」
 とにかく食欲が旺盛でさ。笑う奥さんに、そうですねとリサは頷く。
「お手伝いいたしますわ」
 乱れた髪をヘアバンドで縛りなおし、腕まくりをすと、リサはくるっと玄関のほうへ向き直った。


 風太の様子を見てから、村長の奥さんと一緒に台所へ立ったリサに、
「あの……巫女様……」
 入り口から控えめに呼びかけたのは、さっきの世話役さんだった。
 なんでしょうかと出てゆくと、実は他にも怪我人がと言う。
「さっきの騒ぎでナニだったんだが、その、若い娘で、怪我の場所が、その……」
 もごもごといいにくそうに口ごもる。怪我をしたのは、男性のいる場所では見せられないところらしい。
「わかりました。まいりますわ」
 先に、元・聖騎士を訪ねて事情を話しておく。
「それではおじさま、風太ちゃんをお願いいたします」
 と、リサがこの元・聖騎士をおじさまと呼ぶのは、単に年長の男性だからと言うだけの理由ではない。この騎士殿、どういうわけか誰のことも固有名詞(なまえ)で呼ばないのだ。風太は小僧でクリスは若造。曄姫が奥方(言われるたびに、寡婦(かふ)じゃと訂正している)でリサは娘か小娘。翔に至っては若いのと呼ばれれば良い方。大抵が「おい」か「お主」である。というわけでお返しに、全員がこの騎士の名前を呼ばない。翔ですら「騎士殿」と呼ぶ。曄姫などは明日から多分丁寧に「元・聖騎士殿」と呼ぶことだろう。
 などと思いながら世話役さんについて行くと、村はずれの小さな小屋。隅の床に若い女性がうずくまっていた。
「旅のナニなんだが、昨日からワシ等のアレにナニでな」
 また指示代名詞だ。
 女性ばかりの旅行者が、頼んで隊商(キャラバン)の道連れにしてもらうのは珍しくないことで、そのせいで巻き添えを食ったのだろう。
 大陸には珍しい漆黒の長い髪が、曄姫を――いや、むしろあの女忍者を思わせる。
「世話役さんからうかがいました。お怪我をなさったんですってね。見せて下さい」
 何事か言って、女が顔を上げる。
 はっ、とリサは息を呑んだ。
 整った顔立ち。きついまなざし。夜色の目。淡い象牙の肌。
「あなた……」
 鬼咒の女忍。翔を――月影を父の仇と狙う。
 咄嗟(とっさ)に風刃の構えを取り、リサは一瞬ためらった。
 自分が傷つけ、癒(いや)した相手。通じないながら言葉も交わした。
 もう一度傷つけることなど――できない。
 フッと、目の前から女の姿が消えた。
 首筋に――背後に、風を感じた。
 そうして次の瞬間、リサの意識は闇の中に呑まれていた。