星石譚・東方の焔 -2ページ目

星石譚・東方の焔

忍法帖風ヒロイックファンタジー、一部ドタコメ風味(予定)

「威吹の秘術・影縛り。己れの得意技で捕らえられる心地は、どんなものか」
 嘲りとともに姿を見せるのは鬼道丸。右の腕、翔が切り落とした拳から肘までを覆うのは、黒ずんだ色合いの鉄の籠手。いや、義手と言うべきか。五指には鋭い爪が植え込まれている。
 陽光の下、滲(にじ)むように現れた十余りの下忍がそれに従い、そして傍らに侍(はべ)る女忍は――
「紅さん?」
 そんな――と、リサが両手で口許を押さえる。
 死んだはず――翔の腕の中で息を引き取ったはずの女忍が、鬼道丸に従っている。ただ、彼女のきつい容貌を美しいものに見せていた野性の精気といったものが全く失われ、象牙色の顔は、頭領の被った鬼面以上に表情を欠いていた。
 さらに、すう――と壁から滲み出た灰色の髪の聖騎士の姿の男は、
「悪趣味だぞ、無月」
 翔の言葉に、灰色の衣装の男に代わる。覆面を取り、さらした顔に、
「そんな……無月の兄ちゃん……」
 風太が驚愕(きょうがく)の声を上げる。
 里で月影と双璧といわれた術者で、親友でもあった男である。
「お前は驚かんのだな、月影」
 ざくり。風太の影にも手裏剣を打ち込むと、翔の喉もとに苦無を突きつける。
 術者なら、当然それを破る法も心得ている。術を破った瞬間、喉を裂くぞと、これは一種の威嚇(いかく)であった。
 下げ緒を解いて刀を取り上げる、ひざまずく形に座らせると、無月は改めて影を縫い止めて動きを封じる。
 執拗(しつよう)なやり方に、双剣を下ろした曄姫が、わずかに顔をしかめたようだった。
 白雲が、記憶にあるより頬の削げた無月の面に影を落として過ぎる。
 雲が……早い。
「何を今更……」
 指一本自由に出来ぬまま、翔は微かに嗤って見せた。
 喉もとには、苦無を擬されたままである。
 影を捕らえ、実態の動きを封じるのは《影》にのみ伝わる秘術。それ以前に――ニーサで投げられた折り畳み十字剣。ウイノアの城での三方鎌。そして、威吹の里で唯一死骸が見つからなかったこと。全てが、今の無月の存在を示していた。 
 更には――
「里の引き口。樹のこと。鬼咒に伝えたのは、お前だな」
「そうだ」
「……信じたくはなかったが……」
「相変わらず、甘いな。月影」
「お前に言われるまでもない。が……、何故だ?」
「何故?」
「裏切り――とは言うまい。が《影》のお前が、何故《鬼》に与(くみ)する」
「《影》であることに何の意味も見出せなくなったからよ。まして、これからは忍びが不要の太平の世。ならばいっそ鬼咒の内で己れの力量を発揮した方が、よほど世に生まれたか意味がある」
「一族を――仲間を滅ぼしてもか!? 将月は朱鷺(とき)と祝言を上げたばかり。野分の赤子は、まだ三月にも――」
「あんなもの! 影にあって世の理(ことわり)を守ったところで、力ないものが死んでゆくことに変わりはない。ならば己れの望みのため――そのために多少の犠牲が出たところで、どうだというのだ!?」
「莫迦が! こいつらがお前の思うような世を作ると思うのか!?」
「莫迦とはなんだ、莫迦とは!」
「莫迦だから莫迦と言った。大体、莫迦に莫迦と云わずに、誰に向かって莫迦という!」
「こ…いつ、言わせておけば――」
「旧交を温めるのは、そこまでにしてもらいましょうか」
 いつやってきたのか、魔道師が冷ややかな目で言う。
「あなた方に、そういうところがあるとは、知りませんでしたよ」
「お前さんに、俺たちの何がわかるよ?」
「同感だ」
 頭巾のした、魔道師は僅(わず)かに顔をしかめたらしい。
 ちら……とながめる曄姫の表情が動く。
「動かないで、リサさん」
 クリスが剣を突きつける。こちらは硬い表情だった。
「もっとも……、心を許した相手には、貴女は風刃は撃てないけど」
「嘘。兄ちゃん……」
「――どうして?」
 半ば呆然と声を上げる二人に、
「《草》を大陸に置くのは《影》ばかりではないわ。そうして代を重ねれば、異狄(いてき)の血も混じる」
 鬼道丸が嘲りの言葉を放つ。
「――というわけでしてね。記憶を封じ、別の記憶を刷り込んで、わたしの“目”としてあなた方に同行させたわけですよ。よく役割を果たしてくれました。――月影殿は驚いてはいないようですねえ」
 翔――と、問いを含んで向けられた若者の目に、
「察してはいた。それでも――」
「詭弁(きべん)はおやめなさい」
 冷ややかに、鞭の一撃にも似て魔道師の声。
「――!」
 言葉にならぬ声を上げ、その黒衣の胸に向け、リサが風刃を放つ。
 庇(かば)うように魔道師の前に立ちふさがる蘇芳(すおう)の影。
 ざくり――風刃に喉を裂かれてなお、紅はそのまま立っている。
「そんな!?」
 リサは両手で口を覆って悲鳴を堪え、翔は僅かに顔をしかめる。
 風太は――唇を噛んで、翔に視線を向けていた。
「死者召喚魔法(ネクロマンシー)ですよ。この分では、お嬢さんにもおとなしくしていただく必要がありそうですねぇ」
 雷光に似た紫の光が走り、一瞬後――
 門や柱の影から現れた複数の下忍がリサを取り囲む。肩や喉、腹が裂けたままにものに気付き、リサは悲鳴を迸らせた。
「その通り。大半がアンデッド――いわゆるゾンビですよ。大変でしたよぉ、死体の回収が。二度も盛大に燃やしてくれましたからねぇ。さて、月影殿、火の神器を出してもらいましょうか。影法師――ああ、ここは感動の再会の後ですから、無月と呼ぶべきですか。華焔を受け取って」
「観念することだな、月影。長年の友だ。お前の気性は知り抜いている。きかねば餓鬼(がき)を殺す。それでも聞かねば、娘の指を一本一本折ってやる。はたして何本で音を上げるか」
「…………わかった」
 華焔――低く呼ぶと現れる火の神器。ぽとり……地面に落ちたそれを、無月が取り上げ、魔道師に渡す。
「糸を切ってもらいましょうか」
「糸?」
「あちら側に隠した華焔を、つなぎとめておく《糸》ですよ」
「そこまで承知か」
 苦く言うと、翔は短く呪文を唱える。
 虹に似たきらめきの細い糸が、右の手と華焔の間をつなぎ、すぐにふつりと切れて地に流れた。
「魔力の流れを《糸》と認識し、使用する。もはや理論しか残っていないそれを、極東の忍者である君が知っていたとはね」
 魔道師が口許だけで嗤う。
 その面を薄く影が覆う。
 上空を風が走る。
 雲が流れる。
 地に落ちた雲の影が――
 己れの影の一部と重なった。
 影の支配が弱まる、その一瞬、
 苦無を擬(ぎ)した無月の腕。掴んで軽くひねる。
「な…なに!?」
 痩躯(そうく)が宙に浮く。
 一回転して、背中から地に落ちる。
「風太、逃げろ!」
 放つのは地に流れた虹色の糸。少年の影に刺さった手裏剣を引き抜いたそれは、無数に別れ、少年と少女、二人を取り囲む生ける死者を、いくつもの肉塊(にくかい)に切り裂く。
 言葉も返さず、少年は走り出す。
 見送って、翔はがくりと膝を折った。
 全身に襲い掛かる凄まじい倦怠感(けんたいかん)。心臓にかかる負担。いずれも無理に術を破った代償である。
「リサ………」
「いや!!」
 反射的に叫んで、自分の口からでた言葉に、リサは愕然(がくぜん)と佇ちつくす。
 わずかにかぶりを振り、青年を眺めた紫暗の目は、ひどく打ちのめされた色をしていた。
 ――そう……か。
 いいんだと微笑ってやろうとして、
「こやつ!」
 叫びざま、鬼道丸の鉄の義手が翔を打ち据えた。
「動けぬはずではなかったのか」
「実態が影に逆らう。無理に動けば、死に勝る苦痛のはずよ」
 影法師――無月が嘯(うそぶ)く。
「莫迦が。そうまでして、敢えて餓鬼(がき)一人逃して、何のつもりだ」
「女子供は……逃がしてくれ、と…頼んだところで、きいてくれる……お前たちではあるまい……」
 答える翔の息遣いは荒い。
「ふん。子供はいずれ大人になる。追って捕らえろ」
 命じられ、下忍が走り出して行く。
 鬼道丸に、がっ――と喉を掴まれる。鉄の爪が喉に食い込む。
「この喉、握り潰してくれようか」
 じわり――義手に力がこもるのに、
「……好きにしろ」
 答えて、翔は鬼面を見据える。
「やめて!」
 リサの叫びは、下忍の壁に遮られる。
 チラリと少女の方に鬼面を向け、青年を荒々しく突き放すと、
「こやつを縛り上げろ」
 鬼道丸は下忍に命じる。
 両腕を後ろにねじり上げられ、後ろ手に縄を打たれながら、
「殺さないのか?」
 それでも翔は、皮肉な感じの笑みを見せる。
「殺せる時に殺しておくんだな。さもないと――」
「殺してくれるわ。だがな――」
 近々と顔を寄せ、睦言(むつごと)めいて鬼道丸は囁いた。
「散々、我らが邪魔をしてくれた汝だ。楽には死なせぬ。覚悟しておけ」


 逃げ出した風太が、追われて飛び込んだのは、廃都の北面にある泉水だった。
 どれほどの深さがあるのか、小さな体がどんどん沈んでゆく。
 青竜を抱き、息を止めて窺(うかが)うと――
 上がってこんぞ。溺れたらしいな。言い交わす下忍の姿が見える。
「あの餓鬼(がき)は泳げなかったからな」
 言うのは、どうやら無月のようだ。下忍に交じって追いかけてきたらしい。
 裏切り者――と、風太は唇を噛む。
 月影とは対照的に陰気な質(たち)で、大人たちにはあまり好かれていなかった。それでも里の子供たちには優しかった。それなのに――
 その裏切り者に促されて下忍たちが立ち去ってから、十を数え、風太はざばっと水を切って立ち上がる。
 なぜか腰までしかなかった泉水に驚いてから、さて困ったぞと腕組みをした。
 クリスの兄ちゃんも、曄姫さんまでが向こう側に回ってしまったらしい。
 一緒に逃げるはずだったリサ姉ちゃんも、捕まってしまった。 
 あのままでは、月影さんは身動きが取れない。
 一応の支持は受けてはいたけれど、こんな事態は予想外だ。
「どうしよう……。青。どうしたらいいと思う?」
 チイ……と答えて、青竜が首をかしげたように見える。
 胸に下げたまま、失念していた召喚の符が割れたのは、その時だった。
 一陣の風が吹き抜け――
 その場に現れたものに、風太は、えーっ!? と声を上げていた。
 初秋――まだ夏の香りを残す一日から始まった旅は、聖都へ着くという前日には、冬の訪れを予感させる季節に入っていた。
「何か、変な感じだね」
 リシルを発った頃には、そう言い、言いしていた風太は、人数が一気に半減した寂しさを埋めようというのかこの数日、一人で笑ったり喋(しゃべ)ったりと忙しい。それでも埋めきれない、ぽっかりと大きく開いてしまった空洞の、その大半が――
「曄姫殿の存在が、大きかったな」
「過去形で仰らないで下さい!!」
 叫ぶように言ってから、リサは、はっと自分を恥じる。
 辛いのは――寂しいのは自分だけではないのに。
「悪かった」
 さらりと返して微笑する、翔の優しさがかえって切ない。
 亡くなった元聖騎士が、この青年を避けるようにしていた理由に、リサは今さらながら思い当たった。喪った息子と同じ年頃。容姿も気性も違うのに、どこか面影が重なると言った。辛かった――苦しかったのだ、あの人も。その立場におかれて、初めて辛さがわかる。喪ってみて初めて大切さに気付く。人とは、なんと愚かで哀しい生き物だろう。
「御免なさい。わたくし――」
「うん。わかっている。もう、誰も失いたくはないな」
「ええ………」
「皆で、また、この道を帰ろう」
 翔の言葉に、そうできたらどんなに良いかとリサは思う。
 こんなときに祈るために、神はいるのだろうか。叶える神、守る神ではなくて、祈り、願うためにある神という存在――
「曄姫様にクリスさん、ご無事でしょうか?」
「無事だと信じよう。自分から、望みを捨ててしまうことはない」
 諭すように言う翔の笑みは淡い。
 上空には、爪というよりは針と呼びたいような、細く頼りない下弦の月。ぽつぽつと小さく星をちりばめた空を、しきりに雲が汚して過ぎる。
 焚き火のもと、膝に顔を埋めて丸くなった少年に、風太――と、翔は声をかける。
「風太。眠いのなら――」
 肩に手を置き、覗き込んで、寝ていると微笑した。
 横で青竜が同じように丸くなっているのが、妙に笑える。
「リサちゃん、すまないが――」
 はいと答えて、リサは馬たちのほうへ向かう。
 馬は三頭。葦毛の空木。栗毛の疾風。灰色の、少し小柄なセアラ。墨色の鼻面に三日月のある曄姫の月牙と、ジンという名のクリスの糟毛(かすげ)は、リシルの神殿に預けてあって、もう一頭、大柄な栗毛の不在が喪失感を強いものにする。
 翔が風太を横にして、リサが持ってきた寝袋に包んでやる。リシルで整えた装備――雪が降るまでには片付けたいなと、ぽつりと翔が言った時には、まだ全員がそろっていた。
 丸くなっている青竜を枕元においてやろうと手に取って、リサは口許に笑みが浮かぶのを覚える。 
 小さな体を両手に包み込んでみると、くー、すー、と小さな寝息。宝石のような鱗に包まれた体が、それに応じて膨(ふく)らんだり縮んだり。小さな心臓が、ことこと音を立てている。当たり前といえば当たり前のことなのに――
「どうした?」
「ええ。なんだか……生きているんだなあって」
「ああ。命とは愛しいものだな」
 風太の方も、青のように寝息を立てたり、寝返りを打ったり、聞こえた寝言に、
「少しは大人びて来たかと思ったら――」
 まだまだ子供だと微笑う翔の目は、ひどく愛しげで――同年くらいの兄よりは父の面影と重なる部分が多いのは、こういうところかと、リサは改めて思う。もっとも、早くに親を亡くしたところでは兄や姉が親代わりをつとめるそうだから、そういう感覚なのかも知れない。
「そんなことを言っていられるのも、今のうち――だそうですわ」
 くすくすと笑いながら、リサは言う。
 え? と怪訝(けげん)な顔になる翔に、お母様の言葉ですわと言った。
「わたくしが風太ちゃんより小さいときのことですわ」
 暖炉の前で寝入ってしまったリサを、抱き上げて寝台へ運んでくれる父が、やはり翔と同じようなことを言ったのだ。
「――っていうか、抱いて運んでもらえるのが嬉しくて、寝たふりをしていたのですけれど。そうしたらお母様が、そう言っていられるのも今のうちですわ。子供なんて、すぐに大きくなってしまうのですから、って」
 両親とまだ幼いリサと。思い浮かんだ微笑ましい光景に、翔はつい、笑みを誘われる。愛されて、大切に育まれた少女。危険な旅に最後まで同行させてしまったことに、微かな悔いがあった。
 出来ることなら、今からでもニーサの両親の元へ送り返したい。
 以前にそう言ったとき、リサは断固として拒絶した。
「――そうして、自分だけ安全な場所にいて、今日は誰かが危ない目に会っているのじゃないか。今日は誰かが怪我をしているのじゃないかと、心配するんですの。そんなのは死んでもいやですわ」
 逆の立場だったら我慢できるかとまで言われれば、翔の方が引かざるをえない。また、置いていってもこの少女のことだ。風虎を召喚しても追ってくるだろう。
「いよいよ明日だ」
 焚き火を隔てて、向かい合う少女に言う。
「多分、敵は罠を仕掛けて待っている。怖くないかい?」
 懸命に、リサはかぶりを振る。
「翔さんが、ご一緒ですもの」
 健気(けなげ)な嘘だ。夜目にさえ、眸が紫暗に翳(かげ)っているのがわかる。
 リシルの神官長の申し出通り、
「神殿で、待っていてもよかったのに」
 言うと、冗談ではありませんと、激しい口調が返ってくる。
「そんな、心臓に悪い真似は、一度きりで充分ですわ」
「随分と、信用がないんだな」
「ええ。翔さんの大丈夫は、この世で一番信用が出来ません」
 断言されて、確かにと翔は声を出して笑う。
 死にかけたり、華焔を暴走させたりでは、信用も何もあるまい。
「じゃあ――、これは本音の話だ」
「はい」
「無事に戻れる可能性は、ごくわずかだ。風太にも言い聞かせてあることだが、万が一のときは、風太を逃がして後を託す。リサちゃんも、どんな方法を使っても逃げてくれ。いいね」
「翔さんは――」
「何としても、切り抜けて見せるつもりではいる。命を安売りする気はない。これまでも、したつもりはない」
「いえ。そういうことではなくて」
「うん?」
「いいえ。よろしいんです」
 言って、少女は目を伏せる。紫暗の眸が、揺らめく炎を凝視した。焔の中に何を見たのか、昔見た夢を思い出しました――声音は呟くように小さかった。
「お祭りで――夜で、わたくしはまだ小さな子供で、若い男の方と一緒に歩いているんです。わたくしは、その方が大好きで――でも、何となく知っているんです。この人は、いつかいなくなる人だって」
 何を言いたかったかがわかった気がして、翔は、哀しげにさえ見える少女の白い顔から目を逸(そ)らす。
 懸命に隠そうとしている慕情。口にして――拒絶に傷つくことを恐れているのか、あるいはこの聡い少女は、応えてやれぬ翔の心を知っているのだろうか。
 おそらくは後者。ならば、その心根が不憫(ふびん)に過ぎる。
 それでも、翔にしてやれるのは、気付かぬふりで兄のように振舞うことだけである。
 愛しいとはおもう。けれどもリサに対するそれは異性に――女性に対して抱く感情ではないのだから。
「リサちゃん」
 と呼ぶのがもう、相応しくないほど、僅(わず)かの間に少女は大人びた風情になっている。この旅は――さまざまの想いは、急速に少女を一人の女性に変貌させているようだ。
 それでも――
「もう、寝なさい」
「眠らなければいけません?」
 上目遣い、窺(うか)うように見上げる目は、まだ子供――というより何かをねだる仔犬のようで、ひどく可愛らしい。大概のことなら、いいよと答えてしまいたくなる。
 結果はどうあれ、最後の夜だ。ふと、翔は思う。
 無事に帰ることが出来たとして、それはまた、別の旅。
 おそらくはリサにも、その思いがあるのだろう。ならば――
「好きにしていいよ」
「だったら――あのね、怒らないで下さいね」
 少し恥ずかしそうに言って、毛布を持ってくる。
 ふわり。翔の肩にかけると、その同じ毛布に自分も包まった。
 ぴたりとくっつく形になって、暖かい――とリサははしゃぐ。
 妙齢の娘の顔と、無邪気な少女の顔と。意図せず交互に表れる顔は、時に翔を戸惑わせる。決して、不快なものではないけれど。
「お兄様になったつもりで、一晩こうしていてくださいません?」
 いいよと答えて肩を抱いてやると、嬉しい顔をして翔の肩に頭を乗せる。
「本当のお兄様には、こうしてもらっても嬉しくはありませんけれど」
 くすくす笑いに紛らせ、チラリともらす本音が愛しい。
「リサちゃんの兄上は、どんな人かな?」
「意地悪なんです。性格が悪いんですわ」
「じゃあ、わたしと同じだ」
「嘘」
 そうして肩を寄せ合ったまま、明け方になって少し眠ったろうか。
 ふと気付いて見上げた空は、東の方を鱗のような灰色の雲に覆われ――
 裾に暁の紅を映して――
 凄まじい色をしていた。


 雲が早い。
 遺跡――というよりは廃墟と呼ぶのが相応しい、崩れかけた石組みばかりが目立つ聖都の空。冬の訪れを予感させる薄い色の空を、白雲がひっきりなしに乱れ飛ぶ。
 上空は風が強いのか――
 雲が、早い。
 かつて聖都と呼ばれた場所は、どこも何ゆえにかくまで荒れ果てるのか。その街を守ったという十二の門。玉髄、緑柱、金剛石。あるいは瑠璃、琥珀と華麗な名を冠された、今は崩れかけた石柱の一つに、ぽつりと黒く、不吉な染みを思わせて、黒衣の魔道師が立っていた。
「お待ちしていましたよ」
 口調は例によって穏やかだ。
 どうぞと促され、しり込みする馬を残して入った結界のうち、
 六芒星の形に道を設け、四方に四大、乾(いぬい)から丑寅に月、陽、星の神殿。やがて訪れる星の並びと、リシルの神官長に見せられた壮麗な聖都の姿は、無論その面影すらとどめてはいない。
 かろうじて建物の痕跡をとどめた壁の影から、クリスと曄姫が姿を見せる。
「クリスさん! 曄姫様も――」
 無事だったのですね。駆け寄ろうとするリサを、翔は手の動きだけで制した。
 様子がおかしい。
 それ以前に、人質に押さえたはずの二人を、何ごともなく返す敵ではない。
「ここを――」
 動くなと、二人に言い置いて歩を進めると、つ――と歩み出た曄姫が双剣を抜き放った。
「曄姫さま!?」
 声を上げるリサの動きを、すっと近寄ったクリスが封じる。
 七星剣。疾風の速さで切尖(きっさき)が繰り出され、舞の華麗さで体が翻転(ほんてん)する。
 銀光が――双剣のきらめきが流星となって舞う。
 紙一重に剣風を躱(かわ)しながら、翔は訝しさに眉をひそめる。
 太刀筋に必殺の重さがない。といって、いつかのように楽しんでいる様子もない。感じられるのは、むしろ必死な――
 ――しまった!
 気付かずに追い込まれた壁ぎわ。 
 一瞬の隙を狙って、影に手裏剣が打ち込まれる。
 翔の喉から、くっ――と短い苦鳴が洩れた。
「どうしよう。どうなってるんだろう。どうすればいいんだろう」
 疾風と月牙の手綱を抑えて、風太はイライラと足踏みをする。
 必ず戻ると翔は約束したけれど――
 約束というものが、悪意はなくとも、時に守られないものであることを、風太は幼いながらに知っていた。
 目の前――後を追ってきた青竜が、空中静止しながら、ぱたぱたと小さな羽根を羽ばたかせている。
「なあ、青。おいら、どうすればいいんだろう?」
 城を包む紅蓮舌は、一向に衰える様子を見せず、石組みは時に外へ弾け、あるいは内部へ崩れ落ちる。
 翔が――そうして、後を追ったリサが、中にいることはわかっている。
 風太はいつも置いてきぼりだ。ただ、待つしかなす術がない。
 ――ずるい。
 少し、二人を恨めしく感じたとき、
 一筋、異なる風が吹いた。
 あッと思ったときには、炎の中に道が出来ていた。
 その道を通り、何かが、風を切って飛び出してくる。
 そして、ふわり――と、少年の前に飛来したのは、巨大な白い獣。
 二頭の馬が嘶(いなな)いて棹立つ。
 雪白の毛皮を彩る黒い縞。対の純白の翼。背に双翼を背負った――白虎なのか。信じがたい存在に目をこする風太の前で、白い獣は霧散し、その場に二つの影が残った。
「つ……。翔――さん! リサ姉ちゃん!」
 錯覚ではないと確認して、風太は二人にしがみついた。
「心配したんだよ、おいら」
「すまなかった……」
 抱きとめて、答える翔の声は低い。
 変だ――と、少年は、兄とも慕う人の顔を見上げる。
 それに、戻ってきたのは二人だけだ。
「曄姫さんと兄ちゃんは? おじさんは一緒じゃなかったの?」
 風太の視線を受け止める双眸が揺らぎ、苦痛に耐えるような表情を見せた。
「……二人は、いなかった。……おじさんは――亡くなった」
 それでも目を逸らさずに、翔は答えた。
「そんな……。嘘でしょ。うそだよね。ねえ――」
 顔を向けると、リサが両手で顔を覆っている。肩が小刻みに震えて、泣いているのだとわかった。
 見直すと、翔は沈痛な表情で焔を瞶(みつ)めている。
 三人を照らし、背後の湖面に照り映えて――炎の色が哀しいまでに紅い。
 本当だったんだ――理解した途端、どっと両目から涙があふれた。
 洩れる泣き声を堪(こら)えようと、翔にしがみつく。
 そんなことで、男の子が泣いちゃ恥ずかしいぞ。よく、そう言ってくれた人の手が、しっかりと肩を抱いてくれる。
 聞こえるのは、リサの泣く声――静かに嗚咽(おえつ)する声ばかりだった。
 そうして――
 どれほどそうしていたか。
 ようやく泣き止んで顔を上げた風太は、翔の顔を濡らすものに気付き、驚きの声を上げた。
「翔さん、泣いてるの!?」
 ああ――と、低く答えて、翔は拳で顔をぬぐう。
「里が――頭領や樹(こずえ)さまが死んだときだって、泣かなかったのに」
「泣けなかったんだ」
 ふっ……と、ごく淡い笑み。わけもなく、風太の胸がずきんとなる。
「その分、風太が盛大に泣いてくれたからな」
「まだ子供だったんだよ!」
 子供らしい抗議の言葉に、笑みとまなざしを深いものにして、少し乱暴に、翔の右手が風太の髪をかき回す。
 赤く、胡蝶を思わせて、闇の中に火の粉が舞う。湖面を紅蓮に染める。
 がらり――音を立てて、真っ赤に焼けた石組みが崩れる。
 小さく息を吐いて、翔は体の前で両手を組んだ。印形――本九字を結んでゆく。
 指の動きのおぼつかなさに、風太がはっと息を呑む。
 炎の色が変わる。
 華麗で哀しい――葬送の火の色だった。
 城だけを焼き尽くし、静かにおさまってゆこうとしている。
 髪帯を外すと、大地母神の印の付いたそれを、リサはくしゃりと握りしめる。
 風に乗せて、炎の中へ吹き飛ばした。
「神様のお姿が、わたくしには見えなくなりました」 
 哀しそうな目――うんと大人の人のような目で言う。
「リサちゃん……」
「神様が本当にいらっしゃるのなら、どうしてこんなことが起こるのですか? どうして大切な人を守ってくださらないのですか?」
「《神》とは、願いを叶えるものじゃない。《人》の力ではどうしようもないことがあるから、人は祈るべき《神》を求めるんだ」
 了解したように、リサはそっと睫毛を伏せた。けれど、
「難しいよ!」
「難しい話しを、しているんだ」
「大人って――」
 風太の苦情に、ちらりと苦笑すると、
「華焔」
 呼んで、翔は右手をかざす。手の中に黄金の小太刀が現れる。
「風虎(ふうこ)。おいで」
 リサの呼びかけに応えるのは、対の翼の白い虎。
 少女の前に立つと、黄金のペンダントに身を変じた。
 真っ赤に焼けた石が、二人の頭上に崩れ落ちようとした、まさにその時――
 風伯がさらに激しい光を放ち、顕現(けんげん)したのが、この翼を持つ白い虎だった。
 炎の中に道を開いたのは華焔なら、二人を乗せてここまで運んできたのがこの白虎。風神――あるいは、伝説に云う風の神器の使い手の騎乗で、その名を風虎という。絶えたと言われる竜以上に、伝説中の存在だった。
「姉ちゃん、凄い」
 風太の言葉を受けて、リサはごく微かに笑む。
 こんなときでも笑える。そのことが不思議だった。
 わかっているというように、翔が笑みを返すと、風太にするようにリサの頭に手を置いた。子ども扱い――と思ったが、嫌な気分ではなかった。
「嘆くな……と、あの騎士殿は言ったよ。風太とリサちゃんにも、泣くな――と。無理な話だったが……」
「本当に……」
 最後まで勝手な人だった。思いながら、リサはようやく、本当に笑うことが出来た。
 いつの間にか風が出ている。《華焔》と《風伯》が呼んだものだろうか。
 夜の中、眼下の城は、原型もわからぬ黒い塊(かたまり)になっている。
 行こうか――翔の言葉に、どこへと風太が問いを発する。
「まず、空木とリサちゃんのセアラを迎えに行って、それからリシルの星系神殿」
「次が、聖都ですわね」
「そう。曄姫殿とクリスを取り戻して、鬼道丸と――」
「あの黒ずくめを見つけて、やっつけるんですわ」
 リサの言葉に、翔の笑みがさらに深いものになる。
 黒くわだかまった廃墟の向こう、なお黒々と、深淵に似た夜空ばかりが広がっている。
 夜明けは、まだ遠いらしい。
 その少し前――
 翔と別れたスランは、鬼道丸が奥――と示した部屋に、一足早く達していた。
 扉を開けた彼の目に映ったのは、縄をかけられたまま転がる曄姫とクリス。そして刀を手に足許に立つ扶桑の忍者だけだった。
 ――あやつ! 
 飛び込んだ勢いをそのまま、走りながら抜刀する。体ごと、ぶん――と剣を旋回させた。クリスのそれほどではないが、重い幅広の両手剣。下忍の体を、ほぼ真っ二つに断ち斬る。
「奥方! 若造!!」
 声をかけると、曄姫のほうが顔をあげた。
「元聖騎士殿か。妾(わらわ)としたことが、不覚を取った」
 短剣で縄を切ると、半身を起こし、鬱陶(うっとう)しげに黒髪をかき上げる。
 ちら…と、別の扉に目をやると、
「翔が、不利じゃ」
「なんと?」
「鬼道丸と一騎打ち。翔が不利じゃ」
 クリスの縄を解こうとしていたスランは、つられて顔を上げる。
 刹那、腹部に熱痛を感じた。
「奥……方」
 何ゆえ――と瞠(みは)った目の前で、絹の国の貴婦人の姿が灰色の装束の忍者に変わった。何ゆえか、顔までを灰色の布で覆っている。
「汝(うぬ)……」
 呻いて顧みれば、赤毛の若者だったはずのそれもまた、一抱えほどの粗朶(そだ)に変わっていた。
「う……汝は……」
「影法師。な、月影が不利だろう」
 味方がここで消えるのだから。嘯(うそぶ)くと、灰色の《影》は、すぅ――と消える。
「翔……。罠じゃ」
 よろり、と立ち上がると、スランは広間に達する扉を開ける。
 しぶとい。忌々しげな呟きとともに、今度は背中を熱痛が斬り裂いた。


「翔……」
 苦痛に慄える声で名を呼ばれ、はっと意識が逸れた隙に一閃。
 かろうじて受け止めた、柄を握る右手に痺れが走る。
 鍔(つば)迫り合いを避けて後ろへ飛び下がるのに、
「罠じゃ。……二人は…おらぬ」
 スランの声。
 やはり――と、翔は唇を噛む。
「卑怯――とは言わせぬぞ」
 鬼道丸の嘲りが飛んだ。
「忍びの極意は欺(あざむ)くこと。知らぬ汝(うぬ)ではあるまい」
 視界の隅。ぐらりと血染めの影が揺れる。
 駆け寄ろうとするのに、
「逃げるか、月影」
 鬼道丸の声が、追い討つ。
「逃げられるか。父と妹――一族の仇を目の前にして」
 忍びの価値観は、もとより常人のそれとは異なっている。仇討ちは使命ではないし、事態が不利と見れば、引くことに躊躇(ちゅうちょ)はない。
 が――
「引くも進むも、お前を倒さねば叶わぬようだ」
 抜き放った刀を青眼に移す。
「いずれも不要よ。汝の旅は、ここで終わりだ」
 同時に、地を蹴った。
 駆け違い、翻転し、上段に移行させた刀を振り下ろす。
 二合。三合。噛み合った刃が鋭い悲鳴を上げ、火花を散らす。
 剣風が、互いの着衣を裂く。
 そうして――
 剣が描くのは、いつぞやと同じ軌跡。空中で交わるはずの刃。左右の握力の違いか、意図せず、わずかに切尖が流れた。見切りを過またせ、鬼道丸の右の拳を、半ばから斬りおとす。
 鮮血を噴く手を押さえ、飛び下がる鬼道丸を追おうとして――
 刹那、翔もまた、真横に飛んでいた。
 柱に寄りかかる騎士の影。そこから、鋭く大気を裂いて飛来したもの――
 ――三方鎌!?
 まさか――。否、やはりというべきか。
 鎖鎌の一種で、輪の三方に外に向けて鋭い刃を取り付けた――それを善く使う忍びを、翔は知っていた。熟知していた。
 幾度か抱いてきた疑念への答え。それでも、信じたくないという人の情。須臾(しゅゆ)の間の葛藤が、わずかの隙となった。
 影から抜け出た、なお昏い色の《影》が、右手を一閃する。
 掌からするりと伸びる極細の天蚕糸(てぐす)。
 神器に絡みつくそれを、
「やらせぬ!」
 這いよった騎士が妨げる。
 その背に、深々と三方鎌が食い込んだ。
 瞬きほどの差。遅れて投じた十字手裏剣を尽く避けると、影法師はチッと舌打ちを一つ。するり――鬼道丸を支えて後ずさる。
「待て!」
「月影。聖都とやらで――」
 会おう――と言葉を残し、煙玉を投じて鬼道丸と《影法師》が姿をくらます。
 残る血痕を追えば、奥の一間。発動の後を示して、うす緑の燐光を放つ魔法陣ばかりが残されていた。
 戻ると、血塗れで神器を抱えた騎士が、
「仇は……取れたか?」
 横たわったまま、うっすらとした笑みを見せた。
 致命傷を――見ただけでわかる。そうでなくとも、聖騎士のように傷を癒す術を、翔は知らない。差し伸べられた手を握り返して頷くと、そうか――と見せた笑みは、さらに淡い。
 いうべき言葉が、見当たらなかった。
 仮にあったとしても、胸から喉を、重く大きな塊(かたまり)にふさがれて、声を発することさえ出来なかったことだろう。
「スラン………」
 かろうじて、名前ばかりを呼ぶのに、
「主でも、そんな顔をするのじゃな」
 伸ばした、朱に染まった手が頬を辿り、
「嘆くな」
 ぽつり。笑みを浮かべたまま、騎士は言う。
「……小僧と、小娘にも、泣くなと――。あちらで、倅(せがれ)と女房殿が……待っておる。良い父親、良い亭主では……なかっ……」
 言いかけた双の眸から、ふっと光が消えた。
「スラン? ……騎士殿?」
 そのまま――満足そうな笑みを浮かべたまま、元聖騎士は事切れていた。
 開いたままの目を閉じさせ、両手を胸に組ませようとして――
 翔は石畳の上に座り込む。握りしめた拳が、小刻みに震えていた。
 出口をふさがれたまま、行き場を失った感情が、身の裡に荒れ狂っていた。
 名付けようのない――
 悲しみなら、喉が裂けるまで慟哭(どうこく)も出来たろう。
 怒りなら、獣のように咆哮(ほうこう)したろうか。
 そのいずれでもなく、なお激しい――
 床に投げ出された《華焔》の真紅の星石が、激しく瞬き始める。
 胸を――喉をふさいだものを突き上げ――
 身裡から激しいものが迸り出ようとする。
 悲しみでもなく、怒りでもなく、
 魂の根源から吹き上がる凶暴な――
 かっ――と、火の星石が朱金の光輝を放った。
 広間を中心に八方へ、そして上方へ、紅蓮の炎が一気に駆け抜けた。


 丁度その頃――
 城の全貌が見渡せる小高い丘のあたりに、激しい風が渦を巻いた。
 風はその場に、二つの影を残して吹きすぎる。
 リサと風太である。
 凄いと、辺りを見回した風太は、近くに馬の嘶(いなな)きを聞いて、あ――と声を上げた。
「疾風(はやて)だ」
 リサの手を取ると、
「姉ちゃん。こっち、こっち」
 走り出して、すぐに立ち止まる。
 夜空が真っ赤に染まっていた。
 いや。夜空を焦がしているのは眼下の城。夜の中、黒くわだかまっていたはずのそれが、紅蓮舌に包まれている。
 あっ――と叫んで、リサは胸を押さえる。
 裂かれるように、痛い。
「姉ちゃん!?」
「翔さんが――いいえ《華焔》が――」
 暴走した。
 使い手は《神器》を制するもの。《神器》は使い手の意思に従い、共鳴し、ときにその感情に従って暴走する。いつか、リサが《風伯》を暴走させたように。
 それと同様、翔が《華焔》を暴走させる何か――感情を激発させる何かが起こったのだと、それだけがわかった。
 そして――
「《風伯》が――」
 応えている。リサは呟く。
 感じるのは《華焔》と共鳴している《風伯》のそれ。
 それてとも、翔の感じている痛みなのか。
 夜空を赤く染めて、火の粉が舞う。
 風にあおられて炎が荒れ狂う。
 火と風が――《華焔》と《風伯》が呼応して、火勢をさらに激しいものにしている。
「どうしよう?」
「ここで待っていて」 
「えっ? 姉ちゃんは?」
 答える手間を惜しんで、リサは風を呼ぶ。
 身裡に、耳元に、風の唸りを聞きながら、ただ一つのことだけを念じた。
 ――あの方の元へ!  
 刹那、リサ自身が風になった。


 風に運ばれ、風に導かれて到達した広間では、真紅と白銀の光が乱舞していた。
 その光が結界となり、炎の浸食を妨げているのだろうか。
 リサの求める人は、炎に似た朱金の光の中に、佇立していた。
 駆け寄り、翔――と呼びかけて、リサは、はっと口を閉ざす。
 漆黒の双眸から、感情の光が失われている。
 いや。城内を荒れ狂っている焔と風こそが、この青年の感情か。
 この優しい人の裡に秘められていたもの。
 ――こんなに、激しい……。
 無言のまま、走っていって取りすがる。
 背中に、手を回す。
 抱きしめたい。
 いつか、リサが泣いた時にそうしてくれたように。
 抱きしめてあげたいのに。
 すがりつくようにしかならないのが切なく、口惜しい。
 ――胸が痛い。
 応えるように、リサの背に手が回され、
「ありがとう……」
 耳許に、声は囁(ささや)きに似て低かった。
「翔……さん」
「もう……大丈夫だから」
 言われて、見上げた表情は沈痛で、
「何が――お二人は、どこに?」
「いない。最初から……」
「おじさまは!? おじさまは、ご一緒ではなかったのですか!?」
 黒瞳に苦しげな色が揺れて、視線だけで示された先――横たわるそれを眺めて、
「そんな……!」
 リサは両手で顔を覆った。
 そのリサの肩を抱き寄せて、火が――翔が呟いた。
「《華焔》が――」
「ええ。わかります。《風伯》と共鳴しているんです」
「鎮(しず)められるか?」
「わかりません。やりかたが――」
 言いかけたとき、音を立てて天井が崩れ落ちた。
 覚醒はいつも、聴覚から訪れるようだった。
 意識が戻りかけたリサの耳に、小さな足音が響く。こつこつと幾度も繰り返して、部屋の中を行き来する。
 眼を開ければ檻の中の獣のように、歩き回る風太の姿がそこにあって、以前にもこんなことがあったとリサは思った。
「翔さんが、心配なのですね」
 たしか、その時もこう訊いた。出会った翌日。もう、ずうっと昔のことのようだ。
「姉ちゃん……」
 風太はちょっと顔をゆがめてから、だいじょーぶと、あの時と同じ返事をする。
 ちっとも大丈夫だとは思っていない顔だった。
「無理をしなくてもいいんです。わたくしも――曄姫様や、クリスさんのことを心配すべきなのに、わたくし――」
 翔のことばかりが案じられる。それほどに――
 ――あの方のことが、好きになってしまった。
 ぽろっ――と、零(こぼ)れた涙に、リサ自身が戸惑う。
 恋とはどんなものだろう。ニーサの神殿の巫女たちの宿舎で、同じような年頃の娘ばかりで、よくそんな話しをした。
 きっと楽しいもの、浮き浮きするもの。そんな話ばかりで――
 リサが好んで読んだ物語の中にも、苦難を乗り越えて結ばれた恋人達の話はあっても、こんなに苦しく辛い思いを描いたものは一つもなかった。
「どっ、どうしたの、姉ちゃん!?」
 慌てる風太に、涙をぬぐって、何でもありませんという。
 
   好きになったら、好きというだけ。

 何かの一節が、不意に浮かんだ。

  好きになったら、好きというだけ。
  振られたら、泣くだけの話。
  いいよと言ってくれたら、キスするだけ。

 ――ああ、これはライラがよく歌っていた、
 歌だった。

  好きになったら、好きというだけ。

 そのために――
「行きましょうか、ウイノアへ」
「でも、勝手なことをしたら、月影さんが怒るよ」
「怒る権利があるのはこちらです。気絶させて、勝手に神器を持ってゆくなんて」
「でも、馬が。空木だって、姉ちゃんのセアラだって、そんなに無理はさせられないし、第一、今からじゃ――」
 大丈夫。言って、リサは魔法書を引っ張り出す。
「《風》には本来、移動系の魔法が多いのです。それとも――」
 風太ちゃんは、行きたくないのですか?
 微笑んで見せたリサに、風太が驚いたように目を見張る。懸命の面持ちで、首が千切れそうな勢いで、かぶりを振った。


 暗い――と、スランはひとりごちて光球を灯す。
 壁と扉。扉と壁。無数に続くかに見える連なりは、あらゆる明度の灰色で構成され、その灰色の壁の所々に灯はともされているけれど、ごく小さく、よどんだ空気の中、スランの起こすあるかなきかの風にさえ揺らぎ、明滅し、今にも消えそうに頼りない。
 前方を進んでいたはずの夜色の忍び装束は、鈍色の色彩に紛れたのか、途中で分断されたものか、影も見えぬ。
 と――
 光球のした、純白の色彩が動いた気がした。
 暗鬱(あんうつ)城には不似合いな色に、スランは思わず目をこする。
 やはり紛れもない白の色彩。聖騎士団の純白の外衣。
 背に、そしておそらく胸にも一角獣。銀の縁取り。下の鎖帷子(くさりかたびら)。
 まとっているのは灰色の髪の、それでもまだ若い男。
 背を向けて立つ、その後ろ姿に見覚えがある。
 いや。指一本、髪のひと房見ただけでも、決して違えることはない。
 だが。しかし――
 ――そんな……莫迦な。
 呟くスランの前。
 まだ若い騎士が、ゆっくり振り向く。
 それは――その顔は――
 自らの手で葬った、ひとり息子のものだった。


「兄上……」
 巫女の朱唇から零(こぼ)れる言葉を、翔はただ無言で聞く。
 もう永遠に目にすることはないと思った姿。聞くことはないと思っていた声。
「兄上。ここは寒い。ここは寂しい。来て……」
 忍び刀を左手に移し、翔は一歩を踏み出す。
 景色が変わった。
 血色の夕映え。燃え上がる炎。劫火に沈む里を背景に、白と緋をまとった巫女は立っている。累々と横たわる屍を従えて。
「なぜ、来てくれなかった。待っていたのに」
 無言のまま、翔はわずかに目を眇(すが)める。
「今もこうして、待っているのに」
 来て――、差し伸べられる手。
 揺れる黒髪。
 緋袴に白小袖。白い千早。
 その腰から肩へ――逆袈裟(ぎゃくげさ)に逆手(さかて)に持った忍び刀が斬り上げた。
 もとより、手ごたえはない。あるはずもない。
 斬ったのは幻影。あるいは――
 愛しいもの、心にかかるものの姿を見せる鬼咒の幻術。
 呼び出されたのが妹の姿。里の最後の光景であるのなら――
 斬り捨てたのは己れの未練か。
 刹那、悪鬼の形相を見せ、樹の姿は消え失せる。
 ――幻影と承知でも……。
「後味の良いものじゃない」
 苦く、翔は呟く。
 遠く――、何かの砕ける儚(はかな)い音が、聞こえた気がした。


「お父さん」
 言う声に、騎士は思わず息子の名を呼び、莫迦なと続けて独語する。
「死んだはずじゃ。儂が、この手で葬った」
 死にました。答える声は静謐(せいひつ)。
 己れのそれと似ながら、若さゆえの腺の細さを残す容貌。妻と同じ蒼碧の眸。
 我が手で土に還した一人息子。
「死にました、一度は。そうして蘇えりました。……ご存知でしょう、お父さん」
 死者召喚魔法。スランは呟く。
「禁じられた……汚れた魔法じゃ」
 死者の肉体に、かりそめの命を与える。
「そうです。今はその汚れた魔法によって与えられた仮の命。でも、《四大》の力を借りれば、人として完全に復活することが出来るんです。力を、貸してくれますか」
「なん……じゃと?」
「《四大》は、手にしたものの願いをかなえる。《水》と《地》はこちらにあります。《火》と《風》を――《華焔》と《風伯》を手に入れて下さい。僕は――僕にはまだ――」
 何を言おうとしたのか――
 一刹那、息子の体が二つに裂け――
 あたかも蝋燭(ろうそく)が燃え尽きるのに似て、ふっ……と消えた。
 夢か幻――
 ――それにしては、生々しい……。
 《火》と《風》を――息子の声が、耳の裡に反響している。
 ――《華焔》と《風伯》を手に入れて下さい。僕は――
 生きたかったろう。
 やりたかったこと、遣り残したこともあるだろう。
 人生の未だ半ばにも達せずに、無残に断ち切られた命である。戻す術があるなら、戻してやりたいと思うのが親である。まして――
 ――《華焔》と《風伯》を……。
 よろり…と、揺らぎを見せて騎士は歩き出す。
 微かに漂う香の残滓に、もとより彼は気付かない。
 明るい灰色。暗い灰色。澄んだ灰色。濁った灰色。灰色ばかりを積み重ねた石の壁。石の通路。
 こつ、こつ。一足ごとに音が響く。体の中に声が響く。
 ――《華焔》と《風伯》を、
 こつ。こつ。こつ……。
 ――手に入れて下さい。
 灰色ばかりを目に、足音と身裡に鳴り響く声を耳に、角を曲がったその先に、
 さらに長く伸びた通路の中ほど、夜色の忍び装束をまとって立つものがあった。
 ――《華焔》と《風伯》を――
 保持するもの。
 無意識に剣の柄に置いた手。気付かぬままに歩を進めると、振り向いた青年が、ふわりと笑んだ。心なしかその笑みに、常の闊達(かったつ)さが欠けているようで、
 どうした――訊いてから、はっと気付く。柄に置いた手の意味。
 つい一月前、死ぬなと――助かってくれと心から念じた、その青年を、
 ――儂は、斬ろうとした……のか。 
 愕然(がくぜん)とした。
 柄に置いた手が、力なく下がった。

 
気付いていた。
 騎士の体から殺気が発せられたのも、一瞬後にそれが霧散したのも。
 おそらくは――
「あなたも、見せられたのか」
 問うとも確かめるともなく、翔は言う。
 後味の悪い真似をさせてくれる――表情はかろうじて笑みになったか。口にした言葉は、まだ苦かった。
「な……何を……?」
「妹を斬った。幻影と承知でも、気分のいいものじゃない」
 幻影――痴呆のようにスランは繰り返す。
 鬼咒の幻術。頭ではそうと理解しても、意味が心に下りてこないらしい。
 おそらくはこちら。言って、翔は壁面に開いた穴、地下へと下りる階段を下る。
 漂うのは反魂香。一足事に強くなる香りは、心をしっかり定めていないと、また幻影に誘い込まれそうだった。
 ちらりと目を向けると、スランのまなざしが遠いものになっている。
 何を見ていたのか――腕を掴むと、愕然(がくぜん)とした表情を見せる。
 開け放たれた扉の向こう、小部屋の中央に四足の小さな卓。その上に、真二つに割れた香炉があった。
 その足許に横ざまに倒れているのは、年齢のほどもわからぬ、ただ老いて枯れ朽ちた印象ばかりの強い、小柄な老爺。その右腰から左の脇に、斜めに刀跡が走っている。
 樹(こずえ)の幻を斬った、それと同じ傷である。
「鬼咒の夢幻斎。名のごとく、幻を操る」
「儂は――」
 皆まで言わせず、行こう――翔は短く言った。
 灰色の眸に浮かぶ慙愧(ざんき)の念だけでおおよその察しはつく。
 この不器用な、一徹な武人に、謝罪の言葉を言わせるのがしのびなかった。
「曄姫殿たちを探さなければ」
「そうじゃ。うん。そうじゃの」
 頷くとスランは、先に立って階段を駆け上がる。左右に伸びた通路に立つと、
「儂は左へ行く。主は右へ」
 言うと石畳を蹴って走り出す。
 その元聖騎士の姿を、一抹の不安とともに見送って――
 灰色の石壁の連なりを、右へと翔は辿る。
 無数の回廊、無数の扉の連なりと見えたのは、それ自体が幻夢斎の術だったのだろう。無彩色の通路はじきに両開きの扉に遮られ、その向こうは最初に誘い込まれた広間に通じていた。
 そして、その広間の中央――
「漸く来たな」
 声なき哄笑を放つような、黒鬼の面が待ち受けていた。
「さすがは――汝(うぬ)も非情の忍びよな。幻影とはいえ汝を慕うた妹の面影、一刀のもとに斬り捨てるとは」
「妹?」
 問い返し、翔はわずかに口角を上げる。血笑とも嘲笑とも――この青年に似合わぬ、冷ややかな笑みである。
「幻影というなら、もう少しましなものを出せ。樹(こずえ)は――あれは威吹の女。誇り高い威吹の巫女。ましてやこの月影の妹だ。たとえその身を引き裂かれようと、泣き言などは口にせぬ。仇を討てと叱咤こそすれ、寂しいなどと言うものか」
「ふん」
 鬼面がわずかに動く。灯火の作る光と影が、複雑な、形容しがたい表情を作り上げる。
 二人はと問うのに、
「神器は?」
 鬼道丸は問い返す。
 ここに――と、翔は二つの神器を示す。火と風の星石が赤と白の光を明滅させ、華焔の溶けた黄金の色の拵えと、風伯の双翼の飾りとが鈍く灯火をはね返した。
「そこに置いてもらおう」
 言われるままに、華焔に風伯の鎖を絡めて床に置き、二人はと重ねて問う。
 奥よ――と、鬼面がわずかに振り向けられ、扉の一つを示す。
 確かにその奥に、複数の人の気配が感じられた。
「顔を――見せてもらおうか」
「確かめる要があるのか」
「なるほど――」
 ――そういうことか。
「最初から、負けるつもりか」
「言いおるわ、若造が。ならば、見事俺を討って、確かめてみよ。その――ろくに動かぬ右腕で、討てるものならばな」
 嘲って、鬼道丸は素顔をさらす。鷹を思わせる精悍な半面が、やはり嘲笑のかたちに歪んでいた。
 ことさら、火傷の半顔を誇示するように見るのは、面が視界を狭くするためもあるのだろうが――
「いつぞやの傷の返礼も、せねばならぬことだしな」
「《鬼》の頭領が義理堅いとは、ついぞ聞いたことがないが――」
 わずかに顔をしかめて、翔は背にした刀の柄に手をかける。
 扉が開き、血塗れの騎士がよろめくように入ってきたのは、その直後だった。
 寝刃(ねたば)をあわせる、という。
 荒砥(あらと)または木賊(とくさ)で刃をざらざらに研ぎあげてゆく行為で、刃の切れ味を増すために行う、いわば戦闘準備である。
 手馴れたその作業の後、翔は、この地に渡ってから初めて、刀の鍔(つば)を替えた。装飾のない、四角い大き目の――忍者刀本来の鍔である。
「一人で行くつもりなんですね」
 傍らに来たリサが問う。
「一人でと、そう書いてあったのですか?」
「………………………………」
「違うのですね。それなのに――」
 女性という生き物、時に恐ろしいほど聡い。こんな少女であっても。
「だったら――」
 連れて行ってください。真摯(しんし)な目で言う。
「危険も足手まといも承知です。離れて貴方を待っている間、とても心配でした。もう、あんな想いは厭(いや)。胸が張り裂ける思いで待っているのは、もういやです」
 こんな眸(め)をした娘がいた。翔は思う。
 同じように連れて行けといった。遠い扶桑の地。今は久遠とも思える時の彼方。
 同族の娘、篝(かがり)。
 あの時は、足手まといと冷たく切り捨てた。
 今は――
 近づくと、首の血脈を押さえる。意識を喪い、倒れ掛かる体を支え、
「済まない……」
 そっと横たえる。
 詫びた言葉は、現在の行為に対するものか、少女の慕情に応えられぬことか、己にも判然とせぬ。
 胸に架けられた神器を取り、白い顔に乱れかかった髪を払いのけてやると、部屋を後にする。
 厩(うまや)の前で少年が待っていた。
「風太――」
「お前は、ここに残れ――でしょ」
「聞き分けてくれるな」
「……………………」
 すねる様子もない。真摯(しんし)な目で見上げてくるのに微笑して頷くと、翔は、疾風(はやて)を借りるぞと言った。
 馬はその巨体のゆえに、長距離の疾走には耐ええない。心臓がもたぬのである。
 神殿からこの隠れ家まで、その馬体にかかる負担を承知で疾走させた。
「空木(うつぎ)には、これ以上の無理はさせられない」
 鞍を置いた栗毛を引いてでると、そのままの姿勢で風太は柱を背に立っている。
「おいらは、役に立たない?」
 なにを――と向けた視線を、ひどく思いつめたまなざしが受け止めた。
「おいらは、足手まとい? そうなの?」
「そんなことがあるものか」
 言って、翔は淡い笑みを見せる。
 むしろこれまで、この少年の存在に、どれほど救われたことか。
「お前を残してゆくのは――」
「月影さんにもしものことがあったら、威吹(いぶき)を継ぐのはおいらだって、月影さん、いつも言うよね。でも、そんなの厭だ。月影さんのいない威吹なんて、おいら、絶対に厭(いや)だからね!」
「風太……」
 かがんで、視線を合わせる。
 風太は――この少年は、まだこれほどに幼い。
 せめて立ったまま、同じ視線で話せるまでは、見守ってやりたいと思う。
 リサが知ったら、また、父親のようだと言うだろうが。
「心配するな。帰ってくるから」
「約束だよ。怪我……しないでね。絶対、帰ってきてね。おいら……」
「約束だ」
 おのれの命を――
 まだ病床にあるうち、曄姫の言った言葉を思い出した。
 これほどのものが案じているのだ。おのれの命を軽いものに考えてはいけないと。常には見せぬ、姉か、母のような眸で言った。
 水臭いです。傷ついた表情で、泣きそうな声で、それだけを言ったのはクリスだった。
 今はもうこの世にはないが、威吹二百の血族を背負うべく定められた命。曄姫の言うように、軽いものに考えたことは一度もない。それでも――
 ――生きて帰る。
 改めておのれに誓う。どれほどの罠が待とうと、曄姫とクリス、大切な仲間二人ながら取り戻して、必ず戻る。
 くしゃ――と、風太の髪をかき回す。充分には動かない右手。これが風太の命の代償ならばそれもいい。不利を有利に変えて見せるのも、忍びの術のうちである。
 くしゃっと幼い顔が歪んだ。
「なんという顔をする? 大丈夫だ。必ず二人を連れて帰って来るから」 
 笑って見せた翔に、風太はしがみつく。
 耳元で、帰ってきてね、絶対だよと、何度も繰り返した。


 ウイノアへ向かう行程の半ばほどに達した頃、翔はピタリと同じ間隔を保って付いてくる蹄(ひずめ)の音に気付いた。馬脚をゆるめ、追いついてくるのを待つ。
「…………やはり、あなたか」
「主を追うて来たわけではないわい」
 灰白色の髪を風に乱した元聖騎士は、例によっての仏頂面を見せる。乗っているのは曄姫の月牙(げつが)。手入れにさえ主以外の手を拒む気性の荒い青毛(あおげ=黒い馬のこと)が、この騎士にはよく従っている。
「元々が、儂は主らに同行しておったわけではないからな。今度も、たまたま行く方向が同じなだけで」
「…………………………」
 翔は無言のまま、じっと相手の顔を見る。
 それだけで、元聖騎士はひどく居心地の悪そうな風情になる。
 おそろしく不器用な人だ。そして、おそらくこれほどの好人物もあるまい。
 ふと、里に残してきた老忍、弧月を思った。亡父が舌を巻いた術の達者のくせに、生き方は――感情表現は、おそろしく不器用だった。
 ――死なせたくはない。
 ふと、胸の裡に呟いて、おのれの思考に愕然とする。
 予感――なのか、あるいは行く場所を死地と思うが故の錯覚か。
 そうしているうち、スランは、しばらくあちらを眺めたり、こちらを眺めたりした挙げ句、
「そうじゃわい。主が気がかりで後を尾けてきたんじゃ。悪いか」
 開き直ってしまった。
 いかつい顔に、いたずらを見つけられた悪童の面影を見て、翔は軽く吹き出しかけ、慌てて栗毛の手綱をさばく。
 疾風は風太の馬。少しむら気で、空木ほどには意のままにはならない。
「な……何が可笑しいんじゃっ!」
「……こちらへ渡る船の中で、風太を見つけたときのことを思い出した」
 少年も、きまり悪げに笑って、泣いて、懇願して、それでもこちらが黙っていると、挙げ句の果て、どうしても追い返す気なら海へ叩き込めと開き直った。
「な………」
「好意は、有難く……」
 軽く頭を下げて行きかかるのに、待てと声がかかる。
「その体――いや、その腕で勝てるつもりか」
 やはり気付かれていたのかと、顔を眺めるのに、
「まともに……動かぬのじゃろうが」
 それでも――答えて、翔は笑む。
 その笑みに何を見たのか、青灰色の目に一瞬、怯みに似た色が流れた。
「生きて帰る。必ずと、風太に、そう約束した。――はいっ!」
 声をかけて馬腹を蹴る。応えて疾風が疾走に移る。
「ば……莫迦者(ばかもの)が。約束だけでことが成るなら――」
 誰も苦労はせぬわい。声と、そして蹄の音が後を追ってきた。


 宵闇の――まだ消え残る薄明かりの中、領地と身分を捨てた領主の城は、街をはるかに遠く、湖を背に黒く重くわだかまっている。
「領民と、うまくゆかなんだのか」
 それとも、領民を嫌っておったのかと、灰色の髪を風に揺らして騎士が言う。
 本来城と街とは一体のもので、城の足許に城下を広げ、石塀で囲い、戦のときは四方に設けた門を閉ざす。扶桑に言う平城と同じく、戦時には街全体が砦(とりで)となり、平時には街を開いて活性化を図り、領主と領民の間の円滑化も図る。
 現に新しい領主は、街の一角に小さくはあるが館を設け、そこに住まうと聞く。
 おそらくは民を嫌った領主の、石造りの廃城。荒れ果てて――
「まるで、化け物屋敷じゃ」
 言ってから、スランはおおと声を上げた。
 湖の水を引き回して堀とした、その城の正面。
「橋が下りておる」
「正面から来いということか」
「罠じゃぞ」
 とは、もとより承知。
 橋のたもとまで駒を進め、鞍を降りて鼻面を撫でると、了解したかに栗毛はその場から立ち去って行く。
 朽ちかけたような入りの跳ね橋。渡り終えると、きりきりときしみながら、錆(さ)びた鉄鎖が巻き上がり、
「本当に化け物屋敷だな」
 翔は苦笑した。
 建物に通じる大扉の前に、青白く燐光をまといつかせて、不気味な一団が待ち受けていた。錆びた剣に錆びた鎧(よろい)。それを握る手にも、地を踏みしめた足にも、一片の肉もついていない。無表情にこちらを眺める顔には、奥に燐光を瞬かせて、ぽかりと冥(くら)い眼窩(がんか)が開いている。
 あれも召喚魔法によるものか。スケルトン――と、スランが呻いた。
「骸骨兵というわけか」
「主はまた、そういう身も蓋もない……。せめて竜牙兵と言わんかい」
「身があったら、骸骨じゃないだろう」
 この期に及んで、翔はまだ冗談ともつかぬ台詞を吐く余裕を見せる。
「厄介じゃぞ、あれは。倒してもすぐに復活してくるし――」
「こちらに来てから、厄介じゃない敵というのにはお目にかかったことがないな」
 言った翔の手には、いつかのそれと同じ炸裂弾が出現している。
 連続して投げたそれは、骨ばかりで出来た兵団の丁度中ほどに静止して、
「何じゃ。不発か?」
「いいや」
 パチリ。翔が指を弾くと同時に爆発し、スケルトンの兵団を吹き飛ばす。四方に散らばったそれは、個々の骨までが奇麗に砕けて、復活の様子はない。
 夜目にも白く散らばった骨を突っ切って行きかける、その目の前を、ふわりと白い影が過ぎった。
 おぼろな、それでもどこか人を思わせる姿をしている。
 若いの――スランが警告を発する。
「触れられるな。あれはレイスと言って、死霊の一種じゃ。触れられると精気を吸い取られる。殺されれば、一両日中に蘇えって、自分もレイスの仲間入りじゃ」
「それで?」
「あん?」
「だから、相手を殺すと、自分が成仏できるとか――」
「……という話は、聞いてはおらんのぉ」
「…………………………………………」
 しばし虚空を睨(にら)んで、翔はそのまま行きかける。
「どうかしたか?」
「いや……。適当な罵詈雑言(ばりぞうごん)を思いつかなくて」
「…………」
 表情の選択に戸惑ったらしい。スランは実に珍妙な顔をした。
 ふわふわと漂ってきたレイスに向けて、翔は右手を一閃させる。
 半透明な死霊の裾が、ぼっ――と小さく音を発し、朱金の焔に包まれ、すぐに燃え尽きる。
「……………………若いの」
「何か?」
「主は、その、死者に対する礼儀とか……じゃな」
「礼を尽くして、こちらが仲間入りしては、元も子もないだろう?」
「う……。まあ、それはそうじゃが」
「忍びは、騎士や武人とは違う」 
 それ以上の言及は避けて、砕いた骨を踏みしだいて、翔は歩を進める。
 さり……と、その足の下で、古く脆い骨が音を立てる。
 正面の大扉が、手を触れるまでもなく、左右に大きく開いた。
 これは――小さく呟いて、翔は軽く息を吐く。
「いよいよ在庫切れかな」
 出迎えたのは下忍ではなく、青白く透き通る十余の死霊。
 風にあおられるように吹き寄せ、翔を取り巻く。
「……翔!」
 叫んだスランは、次の瞬間、張り裂けんばかりに目を見張った。
 青年の足許から、一気に炎が吹き上がった。
 緋。茜。紅。赤。朱。そして朱金。赤から黄金へのあらゆる色彩をまとった焔は、螺旋(らせん)を描いて天井へと舞い上がる。消える刹那の炎の中に、蛇体に四肢と鬣(たてがみ)、枝分かれした角を持つ幻獣の姿が見えた気がして、スランは目をこする。
「い……今のは?」
「東洋の龍」
 炎を避け、数間先に転移していた翔が、微笑する。
 特にけれんを演じる気はないが、何かのかたちを取らせたほうが、炎の制御はやりやすい。
 待ち構えていたように、真正面、こちらは幾分けれん味の強い、巨大な紋章をつけた扉が大きく開いた。
 誘いこまれたように達した大広間。
 化け物屋敷と最初の印象を誇示するように、いくつもの扉が音を立てて開閉する。
 そうして――
  バタン。
    バタン!
      バタン!!
 それ自体――この城自体が、あたかも意志を持つように――
 ただ一つ、暗く長い通路を見せる扉を残し、全ての扉が閉ざされた。
 示された道なりに進む、その通路の左右にもまた無数の扉。内側から何かが体当たりでもするように慄え、揺らぎ、閂(かんぬき)が、がちゃがちゃと耳障りな音を響かせる。
 一つが開き、通り抜けると、また閉じる。
 さながら迷路。迷路だけで出来た城。
 迷ったか、妨げられたか、騎士の姿が途中から消えていた。
 さらに回廊。それが、前後から降りてきた鉄格子によって分断された。
 両側の壁から、ほとんど束になって矢が打ち出される。
 傍らの壁が開き、灰色の装束がわらわらと湧き出してくる。
 居らぬぞ、どうした、言って顔を見合わせた、その足許――
 白玉がころころと転がって、もうと煙を噴き上げた。
 しばし、通路は白い闇に覆われ、消えると全員が倒れている。
 命までは奪わぬが、しばらくは動けない。天井から飛び降りた翔は、無言のままで倒れている下忍たちを眺めてから、正面の壁を探る。
 ぽかりと開く闇の入り口――奈落への通路。
 闇の中に微かに流れるのは、独特の甘い香り。
 刹那、視界を鮮やかな色彩がよぎった。
 緋色の袴。白小袖に白の千早。
 流れる――丈長で束ねた漆黒の髪。
 巫女装束の娘が、ゆるりと振り向く。
 白い――皙(しろ)い貌が微笑む。
 朱の唇が開かれる前に、翔は声もなく、唇だけで娘の名を呼んでいた。
 樹(こずえ)――と。
「では、あなた方が《火》と《風》の守護ですか」
 リシルの町の星系神殿。三人を迎えた神殿長は、銀髪に山羊髭(やぎひげ)の学者然とした品のよい老人だった。
 三人――
 そう。星系神殿へは翔とリサのほかに、結局スランも同行することになった。というより、クリスが酷い頭痛を起こし、リサのクスリを飲んでも治まらなかったために、曄姫が看病、風太が連絡係りで残る羽目になったと言うのが正確な事情である。そして、
「小娘と病み上がりを、二人だけで行かせられるか」
 というのが『仏頂面の過保護なお父さん』の同行の理由で、相変わらずのぶっきらぼうな口調に、気持ちはわかるけどもう少しなんとかいう言い方はないモノだろうかと、リサなどは思ってしまう。
 翔は例によって、ちょっと苦笑下だけで、特に何も言わなかった。
 神殿の規模は、リサの居たニーサの何倍あるだろうか。それが、さほど大きく感じられないのは、多くの参拝者のせいだろう。境内も大理石を多く使った瀟洒(しょうしゃ)な正殿も、人種から職業まで、さまざまの段階で構成された参拝者で賑わっている。係りのものらしい若い見習い神官を捉えて用向きを告げると、彼はしげしげと三人を――特に翔とリサを眺め、ちょっとお待ちをと奥へ入ってゆく。入っていったときの三倍くらいの速度で戻ってくると、どうぞどうぞと手を取らんばかりの勢いで奥へと案内した。
 そうして通された、整然と並んだ書籍に囲まれた、神官の私室というよりは学者の書斎といった雰囲気の一間。待ち受けていた神官長の最初の一言が、冒頭のそれだった。
「極東から来た青年と、大地母神の巫女。ヴァルファの管理者から、話しを聞いてお待ちしておりました。《水》と《地》の守護は、同行されなかったのですな」
 では――言いかけた翔の視線を、神官長は穏やかに受け止める。
 皆まで言わせず、
「星が動きます」
 眸と同じ、穏やかな口調で言った。
 リサの普段のそれと似た淡い紫色の、しかし、何か力を秘めた不思議な印象の眸である。
「伝説の魔法使いは星の並びを利用し、その力を借りて神器を作ったと伝えられています。今度の星の並びは十字。私たちの住む大地を中心に、星石に呼応する四つの星が十字の形に並びます」
 言って、神官長は手許に置いた占星の図を示す。地球を中心にして八つの星。そして太陽と月。
「占星術では九十度は最凶の角度。日時は次の新月。そして、その日には――」 
 蝕(しょく)が起きます。
 神官長の言葉にリサは、そして元の聖騎士は息を呑む。
 蝕とは日蝕。月が太陽を食らう最凶の日。
 翔は――ただ真剣な表情で、神官長の次の言葉を待っている。
 意味を解していないわけではない。双眸に宿る、剣を手にしたときと同じ鋭い光が、それを示している。
「この日に儀式を行えば、何が起きるか、我々にも予測は付きません。術者が何を求めるかにもよりましょうが」
「場所は、特定できますか?」
 翔の問いに、神官長は静かに頷く。
「おそらくは聖女王の名を戴く、今は廃墟となった最初の聖都、ソリ・ティア。古き紙の骸が封じられた場所です」


 黄金色に、落ち葉が舞っていた。
 秋の陽にぬくもった石段に腰掛けて、膝の上に両肘を乗せ、頬杖をついて、風太はぼんやり、木洩れ陽のつくる斑(まだら)の模様を見ている。肩に止まっている青が、時々遊んでくれというように声を上げるけれど、なんだかその気になれない。それでも、ちょっと首を撫でてやると大人しくなるから、それでいいのだろう。
 そうしていると、後ろの方から“とふとふ”と重たげな足音がして、
「なんだ、風太。今日は青と遊ばないのか?」
 クリスが斜め後ろから覗き込んだ。
「兄ちゃんこそ、頭痛いの、なおったの?」
 訊くと、うんと頷いて横に座る。
 風太の顔を見ないままで、元気ないなと言った。
「そんなことないよ」
「悪かったな。兄ちゃんのせいで、一緒に行けなくて」
「大丈夫だよ。危ないところへ行ったわけじゃないし」
「風太は、本当に翔が好きなんだな」
 妙に感心したような口調で、クリスが言う。
 どうしてそういう結論になるのかなぁとも思うけど、大人が唐突なのはいつものことだ。それに、
「リサ姉ちゃんも、曄姫さんも、スランのおじさんも好きだよ」
「そうか」
「クリスの兄ちゃんも、ちゃんと好きだからね。安心しなよ」
 言ってやると、ほんのりと微笑った。
 ふわっ――と、吹いて来た風が紙をまきあげる。
 赤色の髪が秋の陽に透けて、うすい金色に見える。
 翔の呼び出す炎に似て、少し不思議な感じだった。
「ありがとな。でも兄ちゃん、風太に好いてもらう資格、ないみたいだ」
 変なことを言うなぁと、風太はクリスの顔を見上げる。
 大人がこういう云い方をするときは、何かウラに『ジュウダイなジジョウ』というやつがあるときだ。そのくらいのことは風太だって知っている。子供は、大人が思っているよりずっとたくさんのことを知っているものだ。
 どうかしたのと訊こうとして、漂ってきた匂いに鼻をひくつかせる。
シャーッと、ネコの威嚇音(いかくおん)に似た声を上げて、青が牙を剥(む)く。卵から孵(かえ)って、初めて見せる反応だった。
「どうした、風太?」
「何か、匂い。花みたいな、花じゃないみたいな――」
 上手く表現できない甘い匂い。厭(いや)な匂いじゃないが、長くかいでいると、頭の奥がくらっと蕩(とろ)けそうな感じになる。
「反魂香」
 クリスが答える。
「何?」
「いつか、リサさんが誘い出されたときの匂いだ」
「大変だ!」
 声を上げて、風太は立ち上がる。
 奥へ走りこもうとして――
 後頭部に重い衝撃を受け、そのまま、目の前が真っ暗になった。
 倒れる寸前、クリスの声が聞こえた気がした。
 何を言っているかは、聞き取れなかった。


「その日が過ぎるまで、火と風の神器を封印しておけば、あるいは――」 
 最悪の事態は避けられるかも知れません。おそらくは、そう言おうとしたのだろう。神官長の言葉を遮(さえぎ)ったのは、空間を裂いて飛び出してきた鮮烈な真夏の海の色彩だった。
 え――と声を上げて、リサが腰を浮かせる。
「青……」
 呼んで差し出した翔の腕に止まろうとせず、青玉色の首を振りたてて、小さな翼をはためかせて、風太の青竜はチイチイとせわしく鳴き立てる。
 しかし、風太の《やまびこ》は送られてこない。
 送った《やまびこ》に答えはない。
 異変があった――少なくとも、風太が《やまびこ》を送れぬ状況に陥っている証である。
 《水》の器に何事か――神官長に告げ、翔は部屋を辞する。
 街外れ――仲間を待たせているはずの廃屋に向かい、空木を疾走させた。
 遅れて駒音。騎士が、そしてリサが後を追って馬を走らせているのだろうが、まっているゆとりはない。
 クリスはともかく、まさか曄姫が不覚を取ることはないと思うが――
 傍らを懸命に飛んでいた青竜が、空間を裂いて消えた。主人、あるいは《親》と思っている風太の元へ戻ったのだろう。
 後を追い、空木の急がせ、駆け戻った廃屋で――
 翔が目にしたのは、姦(かしま)しく騒ぎ立てて飛び回る青と、大の字に気を失って転がる風太の姿だった。
 特に抵抗の様子はない。
 傷がないことを確かめ、活を入れると、ぽかりと目を開けた。
 辺りを見回しかけて、
「痛って………」
 後頭部を押さえる。
「大丈夫か?」
「後ろから殴られたんだ。不覚でした」
「何があった?」
「わかんない」
 ぼーっとしている。軽い脳震盪(のうしんとう)のようだ。
「じっとしていろ。すぐにリサ姉ちゃんが来るから、見てもらうんだ。いいな」
 言い聞かせ、風太を置いて室内に走りこむ。
「曄姫殿! クリス!」
 予想した通り応えはない。
 室内が荒らされた様子もない。
 剣がないのは、自身で出て行った証か。しかし厩(うまや)に、二人の馬は残されていた。
 そして、かすかに感じられる香の残り香。
 ――これは……!
「幻夢斎か……」
 《鬼咒》の一人。サルの干物と、少女が秀逸(しゅういつ)の表現をした忍びの顔を思い出す。
 使うのは、懐かしいもの、愛しいもののすたがを見せる幻影の術。
 あの日、リサがそうであったように、二人もそれで誘い出されたものか。
 ――そのために、術の効かぬ風太を気絶させたのか。
 あるいは――
 ――他の理由で……。
 壁の目立つ辺りに、これ見よがしに紙片が苦無で止めつけてある。二人を返してほしくば神器を云々――ほとんど読むまでもない、お定まりの文言(もんごん)である。
 遅れて、ようやく追いついてきた少女が、室内に走りこむ。
「お二人は!?」
 安否を問う言葉を発し、紫暗の目が、翔の手にした紙片ぶ止まる。ひったくるように取り上げた。
 彼女には読めるはずもない扶桑の文字。
 しかし、聡い少女は、状況だけで内容を察したらしい。華奢(きゃしゃ)な手の中で、くしゃりと紙片が握りつぶされた。
とある一夜、
 リサは、部屋にいない翔を探して外へ出た。
 この頃は月が出る時刻ともなると、結構冷え込む。張り詰めた濃紺の大気は、もう冬の匂いだ。
 寒……と身をすくめ、空を眺める。
 屋根の上――正確には、星を観測した露台の名残だろうか、その場所に、藍色の空を切り取って、黒く人の影が見える。近頃の翔は、一人でなにやら考え込んでいることが多くなった。そうして、考え事をするのに、あの場所を選ぶことが多いようだ。
「翔さぁん!」
 両手をメガホンにして呼ぶ。
「何をしていらっしゃいますの?」
 訊くと、月見、という答えが帰ってきた。
「上がってくるかい?」
 言う声に、かすかにからかうような響きがある。
 見れば上階に至る階段は、奇麗に崩れ落ちている。上がるとすれば、壁をよじ登るか――にこっと笑うと、リサは小さく呪文を唱える。ふわりと体を取り巻く大気の流れ。リサを包み込んで屋上へ運んでくれる。
 成功。と思った途端、目測を誤ったらしい。足を滑らせて、きゃあと悲鳴を上げる。咄嗟(とっさ)に伸ばされた手にすがりつき――
 リサは愕然と、青年の顔を眺める。
 以前、崖から落ちかけたところを支えてくれた右手。
 握る手に、あのときの力がない。
 指が――ほとんど曲がっていない。
「翔さん。右手………」
 一瞬、青年はいたずらを見つけられた子供のような顔をした。
「ばれたか」
「ば…ばれたかって……あの」
 肩をすくめると、快活な笑い声を響かせる。
「笑うところですか!?」
「じゃあ、どうすればいいと思う?」
 半ば真顔で言われて、う~ん……とリサは考え込む。
「……落ち込むとか、しょげるとか?」
「わたしが?」
「なんか、それも“ヤ”ですわね」
「だろう?」
「だろう、じゃなくて!」
 本当に、この人は、もう……。
「大丈夫だよ。忍びなどという稼業をやっていると、役目の上で腕一本、足一本無くすことだってある。それに、筋は切れてはいない。完全に動かないわけじゃないんだ」
 ゆっくりと指を曲げ、また伸ばしてゆく。
「大丈夫」
「ひょっとして――」
「うん?」
「風太ちゃんのだいじょーぶって、翔さんのが伝染(うつ)ったんじゃありませんこと?」
「そうかな?」
「そうですわよ、きっと」
 言うと、また声を上げて笑う。
 すぐに真顔になって、頼みがあるんだと言った。
「風太には内緒にしておいてくれないか」
 最近の風太は少し元気がない。翔の怪我が自分のせいだと、幼いながらに自分を責めているのだろう。そんなときに、翔の手が動かなくなっていると知れば――
 それを気遣っているのはわかる。とても良くわかる。が、
「バレますわよ、そのうち」
「まあ……ばれるまでの暫定的措置ということで」
「……………………あのですね」
 その方が、ショックじゃないだろか。
 いや……。直接言われるのも、やはりショックか。
「バレたら、やっぱり笑って誤魔化すんですの?」
「それ以外、ないだろうなぁ……」
「…………………………………………あのですねぇ」
 だったら――
「暫定的措置、ということで」
「よろしく」
「承りました」
 真面目くさって顔を見合わせ、同時に吹き出す。
 そうして、ふと気が付いた。
「翔さん、ずるい!」
「え?」
「ずるいですわ。風太ちゃんに知らせないようにって言うことは、誰にも話せないって言うことではありませんか」
 誰かに相談すれば、必ずそこからばれる。
 特にクリスなどに知られた日には、大変だと大騒ぎをするか――
「水臭いといって、また泣かれるかな?」
「だって、本当に水臭いのですもの。里のことだって、ご自分からは何も――」
「わざわざ話すようなことじゃないだろう? 話せばまた、リサちゃんが、そういう顔をするし」
「だって――」
「人の痛みまで、引き受けることはないんだよ」
 優しい――この上なく優しい口調で、翔は言う。
「まあ……、曄姫殿には、とっくにばれているんだが」
 チラリと笑んで、服の上から傷痕を押さえるようにした。
「何か言われました?」
「可愛げのない男じゃ――で、終わり」
「あらまあ」
 そうすると――
「曄姫様は、クリスさんみたいな方がお好みなのでしょうか?」
 口にしたら、吹き出した。
 そのまま、翔はしばらく笑っている。
 本当に、よく笑う人だ。
 こんなふうに笑って、時には冗談や韜晦(とうかい)に紛らせて――
 そうして、際限なく無理をする人だ。
 だから――
「本当は、何を考えていらしたんですか?」
 訊いてみる。
 翔は少し驚いたように目を瞠(みは)って、やはり女性は侮れないと言った。
「本当は、月じゃなくて星を見ていた」
「星……を?」
 一面の銀砂子。確かに奇麗だけれど、わざわざ屋根に上るほどのものだろうか。
「ここの街の神殿は確か、星の動きを見る――?」
「星系神殿ですわ。それがなにか?」
「気になることがある。あの赤い星、扶桑では火を意味するんだが、十日もすれば真南に来るんじゃないかな」
 翔が指し示す星。リサには意味がわからない。
「下に壁画があってね。半分くらいは崩れてわからなかったんだが、昔、里で――それから、この間ヴァルファで見たものと一緒だった。実際の星の動きが、どうやらそれに近くなっている」
「それが何か?」
「こちらの魔法では、星の動きは重要なことじゃないのかな?」
 そうだった。重要なことだ。特に大きな魔法を行う上では。
「ここの神殿長は、意味を解き明かしてはくれないだろうか?」
「神殿へ?」
「行ってみようと思う」
 足慣らしには、少し遠いだろうが。言って青年は仄かに笑う。
 その横顔に、リサは視線を注ぐ。青年期の、まだ柔らかさを残していた頬の線。痩(や)せて、少し鋭角になったようだ。
「わたくしも、ご一緒しますわ」
「リサちゃんまで、病人扱いかい?」
 どこか憮然(ぶぜん)とした口ぶりが可笑(おか)しくて、リサは声を出して笑ってしまう。
 翔を未だに病人扱いする最先鋒は、仏頂面の元聖騎士殿。強面(こわもて)で無愛想で頑固者の実態が、過保護のお父さんというのが妙に笑えた。
「こちらの神殿長様は、ご高齢とうかがっています。翔さんのやり方で忍び込まれたら、心臓が止まってしまいますわ。これでも大地母神の巫女ですもの。紹介状の代わりくらいにはなると思います」
 鞄(かばん)にしまっておいた巫女服を出して、しわを伸ばしておかなくてはと思う。
 降って湧いた休暇の終わりだった。
 結果として翔たちは、半月近くの期間を、神殿の廃墟ですごす事となった。
 自分と(金輪際、もう何があっても離れるものかという顔をしている)風太を残して先行することを提案してみたが、これは断固として拒否された。
 リサと元聖騎士は「絶対に厭(いや)です」と「そんなことができるか」の一点張り。曄姫は、
「これしきのことで、一時とはいえ、最大の戦力を手放す阿呆があるものか」
 クリスに至っては、水臭いですと半泣きになった。
 というわけで――
 その間の――翔の回復を待つ間の、リサの言うところの降って湧いた休暇のような、思いがけない平穏な日々を、皆がそれぞれのかたちで享受しているようだった。
 クリスは、先日以来すっかり隔意の取れた様子の元聖騎士スランを相手に、剣の稽古(けいこ)に励んでいるが、
「でも、相変わらず、誰のことの固有名詞(なまえ)で呼ばないんですよ、あの人」
 まだ床を離れられぬ翔に、告げ口めいて言いに来たりする。
「でも、ぼくに対する若造ってのと、翔への若いのって、どんな違いがあるんでしょう?」
 と、翔を呼び捨てにできるようになったのは、ごく最近のことである。
「若いの――は、単に年少の男を指すだけのものであろ?」
 食事の下ごしらえ。床に直接座り、小山にした芋の皮をむきながら曄姫が言う。武芸一般に関しては並の男では及ばぬ腕だが、代わりに女の仕事とされている方面は苦手らしい。手つきが些(いささ)か――というより、かなり危うい。
「若造というは、未熟者という意味じゃ」
「曄姫さぁん……」
 相変わらず、気のいい若者をからかって遊んでいる。
「曄姫さまっ。お台所にいらっしゃらないと思ったら……」
 部屋に入ってきたリサは、宿から借りたという大鍋を手にしていた。
「このような辛気臭いこと、一人でやっておれるものか」
「だからって何も、ここの部屋でやらなくても――って、翔さんも手を出さない!」
 叱られてしまった。
「――って、あらまあ、左手で。器用ですこと」
「一応、左右とも同じに使えるように、訓練はしてあるからね」
「へぇ……。じゃなくて!」
「おいらが手伝うよ」
 寝台の足許に座っていた風太が、翔の手から芋と小刀を取り上げる。
 肩には、例によってそこを定位置にした青竜が納まっているが、拳ほどの大きさの卵から生まれた竜は、今では隼(はやぶさ)ほどに成長していて、どれほど育つものかとリサに訊いたら、
「さあ? 普通の竜くらいの大きさでしょうか」 
 非常にわかりにくい返事が戻ってきた。
「ねえ。まだ痛いの?」
 少年が案じ顔なのは、翔が利き腕を使わないことを気にしたものだろう。
「いや。もう大丈夫だ」
 言って笑ってやると、安心したような笑みが帰る。
 右腕の傷は、
「跡が残っちゃいましたねー」
 リサがなにやら口惜しそうに言った、華焔で焼いた白いひきつれを残してふさがっている。もう痛みはない。が――
「そなたこと何事じゃ。そのような大なべを持参で」
「ですから、わたくしは曄姫様――というより、お芋を探しに来たんです。姿が見えないときは、皆さん、大抵がここですもの」
 という具合。他にも使える部屋はいくつかあるらしいのに、皆、何かというと翔の病室になっているこの部屋に群れてしまうのが面白い。先夜の襲撃のこともあり、翔を気遣ってということもあるのだろうが、むしろ、顔をつき合わせているのが習慣となっているという部分の方が大きいようだ。実際、誰か一人欠けると、何やら物忘れをしたような気分になる。
 現に今も、元聖騎士一人が欠けているのが、妙に落ち着かない。
 わたくしがやりますと、リサも床に座り込むと、曄姫の手から小刀を取り上げる。結局、ここでやることにしたらしい。
 屋外か室内かの差だけで、夜営のときの食事の準備風景と大差ない。
 リサあたり、もうちょっとこったものが作れますよと、別の主張をするだろうが。
「しかし……うちの男性陣と来たら、どうしてこう、平気で料理が手伝えるかなぁ。あの元聖騎士殿も、あんな顔をして、そこそこに作るでしょ」
 こちらは危なっかしい手つきで木切れを削りながら、クリスが言う。小柄な彼にバスターソード――大剣は向かないというスランの意見により、とりあえず稽古(けいこ)用の木剣を作ることになったらしい。
 ちなみに、料理などは男の仕事ではないというのが父親の方針だったらしく、出会った頃は消し炭やら生焼けやらを量産していた若者も、最近では何とか、口に入るものを作れるようになっていた。
「翔だって、料理上手いし、風太だって――」
「戦場に、料理をさせるためだけに、女性を連れてゆくわけには行かないだろう?」
 実際の、里の年寄り達に料理を仕込まれた理由を話すと、全員の食欲が失せそうなので、無難な話をしておく。忍んだ先の城の天井裏で、鼠やヤモリを捕らえて料理する話など、翔としても古老の昔語りに留めておいて欲しいところである。
 それでも、扶桑や奎よりもたっぷり二十年は余計に平和な時代を享受しえいる大陸の育ちであるクリスには、結構衝撃的な考えだったらしい。
「戦場って、だけって――あ痛っ!」
 あまり器用でない若者は、話に気を取られて危うく指の方まで削りかけ、悲鳴を上げて小刀を放り出す。
 寝台の足許に転がってきたそれを拾おうとして、
「――!」
 手から滑り落ちたそれが、床に跳ね返って派手な音を響かせた。
 わずかに顔をしかめ、翔は傷痕を押さえる。
「翔――」
 クリスが気がかりそうに何かを言いかけたのを、
「珍しいこともあるものじゃ」
 向こうから伸び上がった曄姫が遮(さえぎ)る。
「翔でも、そのようなヘマをいたすことがあるのじゃな。雪でも降らねばよいが」
「曄姫殿。人のことをなんだと――」
「よいではないか。完全無欠な男というのは、総じて面白みがないものじゃ」
「あの……翔さん、まだ痛むようでしたら――」
「大丈夫だよ、リサちゃん。――風太、なんという顔をしている?」
「だって――本当の本当の、本当に痛くないの?」
 一気に騒がしくなったところへ、
「主たちは――そういうことは、台所でやれ!」
 ひょい、と顔を覗かせたスランが怒鳴る。
「若いの。主も病人らしく、大人しく寝ておれ。また熱が出ても知らんぞ」
 翔にまでお鉢が回ってきた。
 気まずそうに笑いながら、少女達が処理途中の食材を持って退散する。
「風太」
 ちょっと寂しそうな顔を見せて出て行きかけた少年を、翔は呼び止めた。
「少し相手をしていってくれ。一人じゃ退屈なんだ」
「寝てなくていいの?」
「そんなに寝られるものか」
「うん!」
 満面の笑みを浮かべて戻ってきかけ、スランに引き止められる。何かを耳打ちされ、うんと頷(うなず)いて戻ってくると、
「じゃあね、リサ姉ちゃんにしてもらった話を聞かせてあげるからね。ちゃんと横になってなきゃ駄目だよ」
 大人しく寝ているように見張っていろとでも、言われたらしい。
「ああ。わかったよ」
 指先で額をつついてやると、嬉しそうな顔をする。
「翔さんが良くなってきて、かまってもらえるのが嬉しいんです」
 何かの折に、リサが言っていたことだった。
 そう思って見るせいか、最近の風太は、翔にまつわりつく度合いが増えたようだ。 
 そのくせ、妙におとなしい。
 可哀想に、随分と心細い思いをさせたらしい。
 翔自身は――
 皆の態度から感じられるほどには、死の淵を覗いた実感はない。
 ――おそらくは、
 死は、残される人間にとってこそ、意味を持つのだ。
 ただ、唐突に訪れた無為の時間と、もの心ついて以来初めて経験する、自分の体が思い通りに動かないという状況を、いささか持て余してもいた。
 スランの言葉ではないが、まだ熱が出やすいし、無理に動けば息が上がる。鍛(きた)えたはずの体の、意外な脆(もろ)さというものを思い知らされもした。
 それでも、取り立てて焦るほどのことでもないと、そう思うようにしている。
 ただ、余分な時間があれば、もの思う事も増えるようだ。


 床を離れていられる時間が増え、
 原型もわからぬ建物をめぐり、荒れて天然の林のようになった果樹園をめぐり――
 考えをまとめながら、何日かをかけて徐々に体を慣らしてゆく。
 そう。足慣らしを兼ねて回りはじめた廃屋の、これは何に使われた部屋だったのだろうか、きれいに天井のなくなった一室で見つけた、色もあせ、半ば以上が剥げ落ちた、故国のそれとは異なる様式で描かれた星辰の図。その床に散った欠片(かけら)を集めて、元の絵を復元するかのように――
 描かれたのは、太陽を覆い隠そうとする月。そして――
 不意に、明るい笑い声が耳に届いた。
 目を向ければ追いかけっこか、室内から庭へと走りぬける風太とリサの姿が見える。
 青が二人の上で羽ばたいている。
 中秋から晩秋へ向けて、琥珀の色合いを帯びた陽射しの中、少女の笑い声がはじけ、黄金に色づいた落ち葉が舞う。
 最近のリサは、大人びた様子で翔の世話を焼きに来るかと思えば、風太を相手、あんな風に一緒に走り回って童女のように笑い声を上げたりしている。
 その姿に、ふと別の姿を重ねてみる。
 樹は――
 稚くして一族の巫女――祭主となった妹は、あんな風に里の子供たちと遊んだことはなかった。巫女となるべく産み落とされ、巫女として生き――巫女として死んだ。
 翔と樹とは、母を異にしている。
 下界から里に入った翔の母は、彼が物心つく前に逝った。
 数年を経て後添えに入ったのは、先代の巫女、紫(ゆかり)の姪。
 命と引き換えに産み落とされた娘は、生まれながらにして一族の巫女となるさだめを負わされていた。
 幼い時に紫の元に引き取られ、巫女としての自覚を強いられ――
 里人の目に映る樹は、大人びた凛(りん)とした少女であったようだ。巫女という自覚のせいか、里の者にも、父である冠月斎との間にさえ、一線を引いていたように、翔には見受けられた。
 ――ただ、わたしのことは、兄上、兄上と慕ってくれた。
 妹の屈託のない表情を思い出そうとして、まだ童女と呼べる年齢にまで遡(さかのぼ)らねばならないことに、翔は気付く。
 ――いや。そうでもないか。
 あれは――同じように落ち葉の舞い散る季節だったから、去年の秋か。
 数ヶ月ぶりに役目を終えて里へ戻った翔に、兄上――と珍しく幼い頃のように走り寄ってきた樹の顔には、子供のような嬉しげな笑みがあった。
「兄上! 兄上は、異国の人は、わたくしたちとは肌や髪や、目の色までが違うと言っておられたな?」
 いつもは土産話をねだるのに、口を開く間も与えず、一気にまくし立てる。
「本当だった。面白いものだな、あれは。肌など、男のくせに女のわたくしよりしろいのだもの。髪は年寄りのような灰色なのに、まだ若いのだもの。目の色など、翡翠(ひすい)の玉のようかと思うと、銀色になるし――」
「どこで見たんだ、そんな人間を?」
「向こうの谷。薬草を摘(つ)みに行って――あっ! 兄上、お願い。結界を越えたことは、父上には内緒にして」
 ちらっと舌を出して、お願いと両手を合わせてみせる。年の離れた妹の、兄である自分にだけ見せる可愛らしい顔には、つい、甘くならざるを得ない。
「わかった。内緒にしておいてやるから」
 今度出かけるときは、ちゃんと供を連れて行けと言うと、又ちらっと舌を出す。安心したのか、自分の方から話すことがあるのが嬉しいのか、変な男、妙な奴を連発しながら、その異国人のことを話した。
 異国には癒(いや)しの技があると聞いていたのに、大したことは無いらしいと口にしたところから察すると、病か怪我か――樹としては、傷ついたウサギか狸でも見つけたような気持ちでいたらしい。
「それで――わたくしが巫女で、生涯嫁がずに里を守るのだと言ったら、可哀想だなどと言う。本当に変な奴だ」
 男の、言い方は誇り高い巫女殿の矜持を些(いささ)かならず傷つけたようだった。
「兄上はいずれ、父上の後を継いで、この威吹の長になる。わたくしは巫女として兄上を助ける。当然のことで、哀れまれるようなことではないのに」
「わたしとしては、樹にはもっと、外の世界を見せてやりたいんだが」
「兄上が話してくださるのを聞いている方が、ずっと良い。……わたくしは、この里から出ることはない」
 今にして思えば、あれは予知だったのか――
「兄上はいつか、海を渡る。わたくしは、ついては行けない」
 白い千早の肩に舞い落ちた紅葉の紅も、風に流れた黒髪も、目を閉ざせば今も鮮やかに浮かぶのに――
 ――なぜ、忘れていられたものか……。
 山深い、まして隠れ里の近くに異国人。気になって調べてみたが、そのときには、男はすでに立ち去っていた。冬の訪れと、あとに続いた鬼咒の跳梁(ちょうりょう)とで、忘れるともなく記憶の隅にしまいこまれていた。それが――
 かちりと、絵柄の一つにはまり込んだ。
 思えが、あれが発端だったのだろう。
 微妙に変わった樹の態度も、自分への恋情に気付いたが故と思えば、納得が行く。
 いや。それ以前に――
 ――気付いてはいたのだ。
 翔自身は。
 樹の向ける思慕が、肉親の兄に対するそれを超えていることに。
 兄と妹。もっとも身近にある威勢に対する恋。聞かぬ話しではない。まして心の行き先は、自分自身にも制御は不能である。
 世間に言う巫女とは異なり、威吹の巫女は神の依代(よりしろ)。常乙女(とこおとめ)を要求され、恋は禁忌とされるという。が――
 神が実在するか否かを、翔は知らぬ。樹が霊力を喪っていたとすれば、それは樹自身の心の乱れ。実の兄を異性として慕った罪の意識の故であろう。
 忍びの里が、防御を巫女の霊力に頼るなど、笑止の極み。
 それでも予知が、あるいは予測があって、万全の防御を敷いていれば、里の滅亡は免れたのか。あるいは、もう少しましな戦い方が出来たのか。
 だとすれば――
 秘められたはずの樹の慕情。霊力の喪失。
 そうして、里の引き口。
 何故、鬼道丸が知っていた。
 誰がそれを鬼咒に告げた。
 そして、何故今だったのか。
 思考の中に沈み込もうとしたとき、耳元を、風を切って何かが通り過ぎた。
 半ば無意識に掴み取って、苦笑する。
 紅色の秋の果実。野生化したそれは、荒れた果樹園にたわわに実っていた。
「一度くらい、思い切りぶつけてやろうと思うに、本当に可愛げのない男じゃ」
 振り向くと豪胆な美姫、二人の義子の母親でもある貴婦人が、林檎(りんご)を手に立っていた。
 ぶつけられたら、ぶつけられたで、忍びらしくない不覚とか、それなりに何かを言うのだろう。
 苦笑したまま、投げ渡された果実に歯を立てる。
 口中に広がるのは、野生化したそれの、少し強い酸味。
 同じように林檎をかじりながら近づいてくると、
「また、何やら抱え込むことが増えたようじゃな」
 言って、曄姫は翔の隣に腰をおろす。
「話す気は、ないのであろうな」
 視線は、翔の右手に注がれている。
 うん、と答えると、本当に可愛げのないと軽く睨む。
「男が可愛くて、どうするんだか――」
「おや。知らぬのか? 佳(よ)い男は、大概可愛ゆらしいものじゃ」
「ご亭主も?」
「うふふふふ」
 亡夫の話になると、実に幸せそうな顔をする。極上の笑顔という奴だった。
 自分から向けた水。そのまま、延々の惚気(のろけ)話に付き合うのも悪くはないかと思ったら――
「何じゃ、これは?」
 曄姫の興味は、床の上に移ったようだ。
「いくら退屈だからといって、童のように石などならべて――」
 言いかけて表情を鋭いものに変え、視線を翔の横顔に射込む。
 半ば再現された星辰の図。中央に太陽とそれを覆う月。西に風の星、金星。南に火の星、熒惑(けいわく=火星)。そして――
 偶然か、必然か――答えて顔を向け、翔は曄姫の視線を受け止める。
 おそらくは必然。ただ一人、大陸から極東の島国に渡った男――威吹に《華焔》と血統といくばくかの術を残した男の、伝えようとして伝えられなかっただろう何か。
「考えていた。なぜ“今”だったのか」
 おそらくは、これが答えだ。
「翔。そなた……」
「星に人を動かす力があるかどうかなど、わたしは知らない。ただ、人が星によって“動かされる”ことはあると思う」
深夜、唐突に目が覚めた。
 風太にしては異例のことで、なぜだろうと闇の中に原因を探る。
 原因に気付き、ああと納得して眠りかけ、はっと気付いて覚醒する。
 原因は、足音。帯刀したものの。
 それが曄姫や元聖騎士のものならば、何の不思議もない。
 ――クリスの兄ちゃん?
 それが、格別足音を忍ばせるでもない、むしろ無造作な足取りで廊下を渡ってゆく。その、不釣合いさ。
 神官たちの私室だったらしい部屋は狭く、寝台も作りつけで、二人で寝るのが精一杯。一緒に休んでくれている曄姫と青を起こさないように、気配を殺して起き上がると、小太刀を後ろ腰にする。素討ち(しらうち)――素手の格闘技の訓練は受けているけれど、まだ体力では大人に敵(かな)わない。どんな場合でも極力武器を手放すなとは、常々翔に言い含められていることだった。
 廊下へ出ると、灯火ももたずに歩いているクリスの後ろ姿が見えた。
 常人の視力は知らないが、あのドジな兄ちゃんが、こんなに夜目が利いたのかと、少し違和感を覚える。
 そーっと尾けてみると、クリスは、到達した翔の部屋の前で、扉を睨(にら)んでじーっと立っている。自分たち忍びならともかく、常人のクリスに、中の様子が窺(うかが)えるはずもないのに。
「兄ちゃん」 
 声をかけてみる。
 反応がなかった。
「兄ちゃん。クリスの兄ちゃん。どうしたの?」
 少し声を大きくして、体を揺すってみた。
 あ、と声を上げて、周囲を見回し、左斜め下に視線を定めて、
「風太ぁ?」
 クリスは、非常に間抜けな声を出した。
「どうして?」
「訊きたいのはこっち。翔さんの様子でも見に来たのかと思えば、扉の前でぼーっと突っ立っちゃってさ。寝ぼけたの?」
「………………」
 呆然としたようにあたりを見回し、もう一度風太の顔に視線を定めると、クリスは、
「…………みたいだ」
 ちょっと顔を赤くして、小さい声で云った。
 いかにも、この兄ちゃんらしい反応だった。
「ダメじゃないか」
 口にしたら、何となく腹が立った。
「翔さんは、いっぱい寝なきゃ良くならないって、聖騎士のおじさんも、曄姫さんも、リサ姉ちゃんまでが云うから、おいらだって様子を見に来たいの、我慢してるのに」
 朝になって意識を取り戻した翔は、風太の顔を見ると、
「心配をかけたな」
 ちょっと微笑って、そのまま、またことんと眠ってしまった。
 いつもだったら、なんと云う顔をしていると笑って風太の頭を撫でて、髪がぐしゃぐしゃになるまでかき回すのに、そんなこともできないくらい体がスイジャクしているのだそうだ。
 それでも、もう安心で、あとはいっぱい眠って、ちゃんとご飯を食べればすぐに良くなりますからと、ゆっくり眠れるように静かにしてあげましょうねとリサ姉ちゃん達が云うから、風太は、翔のそばに付いて居たいのを我慢しているのだ。
 それを、心配のあまり覗きに来るならともかく、寝ぼけて扉の前に立っているなんて。
 それとも、それほど心配だったんだろうか? 風太が熱を出したときも、覗きに来ていたとリサ姉ちゃんが言っていたし。
「ごめん。どうしたんだろう?」
 小さな声で言って、首を傾げながらクリスが部屋に戻ろうとする。それを、
「兄ちゃん――」
 風太は引き止めた。
 腰の後ろに差した小太刀の柄に手をかける。
 すっ――と、音もなく。
 天井から、影がふたつ降り立った。


 音でもなく、気配でもなく――
 直観か、強いて言葉に直せば、本能のもたらす警告のようなもの。
 翔を覚醒させたのは、それであった。
 枕の下に隠した苦無(リサは非常に嫌がったが)を探り、静かに迫る気配を数える。
 しん――と冴え返った、深い藍色の夜の中。
 ――三つ。いや、四つか。
 ごく微か、天井裏に気配が動くのを感じる。こちらの寝息を窺っているのが、衰えた意識にも感じられる。つまりは、ろくに気息も殺せぬ、その程度の相手。
 倒せるか――己れに問うた。
 一昼夜を経て、熱はかろうじて微熱程度には下がっていたが、四肢はまだ、痛みを伴って鉛のように重い。ことに右の手指は、ぴくりとも動かない。意識もまた、気を抜けば泥沼に似た混濁に引き込まれる。それでも――
 ――倒さねばなるまい。
 交替で付き添ってくれている仲間は、現在はリサ一人を残して、風太までが別室。救援を求めるいとまはない。病人を静かに眠らせてやろうとは思わんのかとの、元聖騎士の思いやりが仇になったようだ。
 リサちゃん――寝台の横、床に直接寝具を延べて眠っている少女に、念話で呼びかける。
 ん……と、可愛らしく声を上げて寝返りを打つと、リサはうっすらと目を開けた。
「翔……さん?」
 どうしました、と云いかけるのを、そのまま――と制する。
〈そのまま、寝たふりをして。わたしが合図をしたら、寝台の下にもぐって、いいと云うまでじっとしている。いいかな?〉
 わかりました――緊張気味の答えが念話で返ってきて、少し驚く。
 静かに心臓の鼓動を数えて五つ目、
 ざっ――と切尖を下、落下してきた影を、身をひねって躱す。
 同時に舞い上がらせた掛け具で、飛び降りてきた今一人の視界をふさぐ。
 寝台に刺さった刀を抜き取るいとまを与えず、苦無で喉を掻(か)き切った。
「今!」
 無言のまま、リサが寝台の下へ転がり込む。
 同時に舞い上がった毛布が落ちる。
 はっ、と視線をさまよわせる相手に、寝台から抜き取った忍び刀を投げる。
 刃に貫かれ、倒れる敵の姿を見ながら、翔は肩で大きく息を吐いた。
 あと二人。降り立った二人を等分に見て――
 立ち上がろうとして、膝が砕けた。
 苦無を取り直した手が重い。
 あれだけの動きで、すでに息が上がっている。
 もはや立って迎え撃つだけの体力はない。見て取った相手の顔に、窮鼠(きゅうそ)を嬲(なぶ)る猫の残忍な笑みが浮かんだ。
「月影、覚悟」
 大上段。刃がかざされる。
 その喉を目掛けて投じた苦無。きん――と鋭い音を響かせて、弾き落とされる。
 ぬめり柿の頭巾の陰に浮かぶ、優越の笑み。
 刹那、人間離れをした動きを見せて、翔は相手に飛び掛った。
 病み伏していた――それも重病人が、よもや素打(しらう)ちを仕掛けるとは夢にも思わなかったのだろう。あ――というかたちに開かれた口を、翔はほんの一瞬、目に止めている。
 勢いと体重をもろにかけて、鳩尾(みぞおち)に肘を打ち込む。
 倒れた相手の喉に、手刀を打ち込んで止めをさした。
 普通なら、そこまではやらない。
 今は、体力にも気力にも余裕がない。そして何より――
 守るべき少女がいる。
 真後ろ、殺意の塊(かたまり)となった最後の一人を感じたのは瞬後。
 避ける余裕はもとより、転移する体力も失われている。
 斬られるか、あるいは、
 ――斬らせるか。
 敵の刃を避けられぬと判断したとき、忍びは進んで斬られる。大抵は腕。生命に危険の及ばぬ箇所を斬らせることにより、命を拾う。
 須臾(しゅゆ)の、さらに何分の一かの判断である。
 敵の気配が変わったのは、その瞬後。
 どれほどか――時間が何倍かに間延びした気がした。
 振り向けた視界の中、ぐらりと体制を崩し、倒れ掛かる柿色の装束が見えた。
 背中から、恐ろしいほどの緩慢(かんまん)さで血が噴き出す。
 肩から腰へ斜めに、ほとんど真っ二つになって倒れてくるのを、かろうじて避けた。
 敵の空けた空間に、蒼白な顔で少女が立っていた。
「リサ……」
 ――風刃を撃った……のか。
 この少女は。
 ――わたしの……、わたしを助けるために。
「翔……さん……」
 色を失った唇で、慄える声で、少女は呼んだ。むしゃぶりつかれ、支えきれずに床に倒れる。それに覆い被さったまま、
「翔さん……。翔さん。翔さん。翔さん! 翔さん!!」
 立て続け、語尾がそのまま号泣になる。
 ばん――と音がして扉が開き、飛び込んできた風太が急停止した。
「つ」
 と言ったまま固まっている。月影さん、と呼ぼうとしたらしい。
 おやまあと、感に耐えた声は曄姫のものか。
 何かと向けた視線の先、元聖騎士と聖騎士志願者が困惑気味に顔を見合わせ、その足許には三つばかり、ぬめり柿の装束が朱に染まって転がっている。
「うっ……うえぇぇーん。……ひっく。……うぇ……」
 鳴き声の合間、わたくし――と途切れがちに少女の言葉が混じる。
 翔さんが斬られると思って。要約すればこれだけ。
 斬らせるつもりだった。言えば、どれだけの衝撃を受けることか。
「………………」
 泣かなくていい。言ってやりたいが、声が出ない。
 それでも――
 抱いて、なでてやりたいと思いながら、持ち上げる力も失せた腕を投げ出し、翔はうっすらと笑む。
 命を救われた感謝より、何より――
 今はただ、この少女が無性に愛しい。
 嗚咽(おえつ)にまで鎮(しず)まった声を聞きながら、すっと意識を遠退かせた。


 だから言ったろう。鏡面を覗きながら、《影法師》がうすく嗤った。
「今の奴は手負いの獣。余裕がない分、容赦がない」
 そのようですね。デイルも嗤う。
 鏡の中は、少女を促し、意識を失ったらしい青年を抱き上げ、血染めの部屋を移ってゆく仲間達の姿。
 ――仲間……ね。
 仲のいいことだ。ああ、仲がいいと、一人でも欠けたら――
 ――辛いだろうか。
 よくわからない。でも、彼らならきっと辛いだろう。
 そうですね。言って嗤いかける。
「彼らにも、少しばかり休暇を与えてやるのも悪くはない。せいぜい楽しんでもらいましょう。その後で――」 
 鏡の中の自分の、そして《影法師》の虚像に言う。
「仕掛けを発動させましょう。その時には、せいぜいあなたにも働いてもらいますよ、《影法師》。いえ、威吹の無月」



 少女との出会い、それが全ての始まりだった。
 少女を見たのは
            山深い場所だった。

 一目見て、自分だけのものにしたいと思った。
 同時に、何者にも触れることを許されぬ神聖な存在だと知った。
 聖少女は、異国の古き神の末裔。

 五百の歳月、異国の人から託されてた神器を守り続けた一族の、
                          巫女だった。
 その少女の心を占める存在が、母を異にする実の兄と知って、激しい嫉妬に似たものを覚えた。
 兄に対する淡い想い。まだ自覚すらないそれを、恋と教えたのは、

 歪んだというなら、生まれつき。
 だが、狂ったというのなら、このときからだったろう。

 手に入れられると思ったわけではない。
 最初から、無理にこの手にした瞬間に喪われるものと知っていた。
 だから――
 あの誇り高い少女が、裡に秘めた激しさそのまま、我が身を炎に包んで散ったのは、    望みに叶ったことではあったのだ。
 出会いも、そして少女の死も共に――
          ――深緑の季節だった。