先日(と言ってもだいぶ前になりますが)、イースター(復活祭)の集会に参加いたしました。

 

その集会で講演されたのは三綿直人さんです。

 

三綿さんは以前、ソフトバンクに勤められていた時に、同僚から「お前が論理的思考の持ち主だということはよく分かっている。でも聖書を信じるなんてお前の頭はお花畑だ」と言われたことがあったそうです。三綿さんはソフトバンクの役員ではありませんでしたが、役員会議に出席したりしていたのでビジネスマンとして優秀だったのでしょう。「そんな優秀なお前がなぜ聖書に書かれているような荒唐無稽な話を信じるのだ!」とその同僚の方は言いたかったのだと思います。

 

その荒唐無稽な話の一つがイエスキリストの復活であると思います。クリスチャンでさえこの復活を信じれないという人は多く、信じたとしても「肉体的に復活したのではなく霊として現れたのではないか」と考える人は多いようです。しかし、聖書はイエスキリストが肉体を伴って復活したことをはっきりと語っています。

 

ルカ24章37~43節
37 彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。
38 そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。
39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。
40 〔こう言って、手と足とをお見せになった。〕
41 彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。
42 彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、
43 イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた。

 

イエスキリストが復活した事実を証明することはできません。ただ、復活はあったと考える方が私にとっては腑に落ちたのです。その理由をお話いたします。

 

復活を証明することはできませんが、多くの学者(ノンクリスチャンも含む)がイエスが葬られた墓は空になっていたこと、イエスの死後その復活は信者に信じられていたことは事実であろうという見解だそうです。

 

初代教会では洗礼や礼拝で使徒信条が斉唱されていました。

それは次のとおりの文言です。

 

わたしは、天地の造り主(つくりぬし)、全能の父なる神を信じます。

わたしは、そのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます。主は聖霊によって

やどり、処女(おとめ)マリアから 生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、

十字架につけられ、死んで葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死者のうちから復活し

天に昇って、全能の父なる神の右に座しておられます。そこから来て、生きている者と

死んでいる者とを審(さば)かれます。

わたしは、聖霊を信じます。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、

永遠(えいえん)のいのちを信じます。

アーメン 

 

イエス・キリストが十字架に架かられたのが西暦30年と言われていますが、多くの学者が西暦31~32年頃には既に使徒信条はクリスチャンの共通認識として広まっていたと考えています。ジェームズ・ダン(Cambridge大学出身の学者)に至ってはイエスの十字架事件から長くても6ヶ月内に使徒信条は制定されていると主張しています。 イエスの十字架のすぐ後に復活の噂が広まったという事実は復活の信憑性が高いものであることを裏付けていると思います。なぜなら、復活を否定したいユダヤ宗教界の指導者たちはイエスの遺体を皆に見せれば済むことだからです。しかし、それはできなかったわけです。イエスが葬られた墓は空っぽになっていたから。そのことはユダヤ宗教界の指導者たちも認めています。ただし、彼らは「弟子が盗っていったのだ」と主張しそれが現在までラビたちには信じられています。

 

「イエスの死後その復活は信者に信じられていた」という事実は聖書以外の文書でも確認することができます。いずれも1~2世紀の頃に書き記された文書です。

 

 

 

イエスキリストの復活を目撃した人が沢山いたため、冒頭に述べた使徒信条が難なくクリスチャンに受け入れられたものと私は考えます。聖書には復活したイエスを500人以上目撃したと書かれています。

 

「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。 すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。 そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。 わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、 使徒と呼ばれる値打ちのない者です。 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。 そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。 しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。 とにかく、わたしにしても彼らにしても、 このように宣ベ伝えているのですし、 あなたがたはこのように信じたのでした。」 (コリントの信徒への第一の手紙15章3節‐11節)


 コリントへの第一の手紙が書かれた当時(早くて54年、遅くても57年)、 復活したイエス・キリストの目撃者が数多く生き残っていなければ、パウロはこのようには書けなかったでしょう。

 

ローマ帝国で多くのクリスチャンが復活を唱えて殉教しました。クリスチャンは見つけ次第死刑になったようですが、復活を否定すれば死刑を免れることができたようです。つまり死刑になったクリスチャンはイエスの復活に確固たる確信を持っていたということです。

 

詳細を知りたい方は下の動画をご覧ください。