以前、拙ブログにおいて慰労祝福(配偶者死別後の再婚について皆様に情報を求めたところ、たくさんのコメントを頂きました。その節はありがとうございました。

 

皆さまから提供された情報やネットで検索した情報などから慰労祝福はどうやらあったらしいということは分かったのですが、教義上問題(祝福式は天国での夫婦関係を約束する神聖な式典)になるであろう慰労祝福をなぜ当初は行っていたのかという疑問は分からずじまいでした。

 

暗在さんから提供していただいた情報(青字の部分)は次のようなものでした。(ただし、この情報は80年前後、講義や集会という公的な場ではなく、非公式な先輩家庭夫人(777)のから聞いた話とのこと)

 

「慰労祝福はお互いを経済的/情的/生活的に支え合う、この世の生活のパートナーという位置づけで、死んだらお互い元の相対者と永遠の夫婦になるので、夜の夫婦関係は結ばないことになっている、そこが普通の再婚とは違う、というような話でした。」

 

この通りであるのならば一応教義上の問題はクリアしているのかもしれませんが、それでもこの説明で納得できる人は少ないのではないでしょうか。例えて言えば夫が長期の海外単身出張する際、残された妻に対して「俺がいない間、色々生活の向きで困ることがあるだろうから他の男と同棲してもいいぞ、ただしSEXはだめだ。あくまでお前の旦那は俺なんだからな」と言っているようなものです。

しかも慰労祝福の実態としては夫婦関係はあったという証言もありましたし、下記文書(赤字部分)からは文氏も慰労祝福について夫婦関係があることを前提として話をしています

 

『いちばんの問題が何かというと、血統を汚すことです。・・・
その伝統的なすべてを上下に連結させるものが血筋です、血筋。今や、私にせよあなたにせよ、残っている一つの願いが何かというと、「神様の血筋を受けなければならない、神様の血筋を受けなければならない、真の父母の血筋を受けるのが一族の理想である」そこにすべてがかかっているのです。そこがきれいでなければ、愛することはできないのです。
 それゆえ、最近、第四次アダム圏時代に入ってから、先生は「慰労祝福」を停止してしまいました。時代が変わったのです。今後、各自が血統を遵守して血統を整備しなければならない時が来たのに、慰労祝福をしてあげたとしたらどのようになりますか? 慰労祝福をしてあげて息子、娘を生んだなら、だれが責任を負うのですか? 自分たちが責任を負うことはできません。先生は、死亡世界の地獄と霊界を解放することができる権限を持っており、慰労祝福をしてあげてもいくらでも調整できますが、あなたたちにはそのような権限はありません。ですから、慰労祝福をしてあげないのです。
 男性が慰労祝福を受けようとするなら、霊界に行った妻から許しをもらってから来なさい。霊界にいる妻が許してくれると思いますか? 目を真っ赤にして反対するのです。ですから、慰労祝福をしてあげることのできない時だということを知らなければなりません。先生は気まぐれだと思うかも知れませんが、原則はそうなのです。自分の息子、娘たちも天国に連れていくのに忙しいのに、慰労祝福を受けてから生まれた息子娘を生めばどのようになりますか? それをどのように処理するのですか? 霊界に行ったならば、霊界で祝福を受けたのも、地上ですべて解決して越えなければなりません。ところが、分かれて霊界で再び祝福を受けたならば、夫が死んで霊界に行ったときには離ればなれになって、新しい天国に行かなければならないのに入っていくことができないのです。ですから、今、この時代に入ってからは、慰労祝福をしてあげるべきでしょうか、してはならないでしょうか? してはならないのです。一昨日までもしてあげていたのに、突然してあげないというのですから、どれほどあきれるでしょうか?』

(「主要儀式と宣布式Ⅳ」より 環太平洋時代宣言 2000年11月30日)

 

上記文書の「2000年11月30日」という日付や元信者の方から頂いたコメントから2000年位まで慰労祝福があったことが推測されます。

 

慰労祝福についての問題点については文氏から説明を受けなくともわかるのです。分からないのは第4次アダム圏内以前は何故慰労祝福が認められていたのかさっぱりわかりません。

 

聖書に登場する人物の中で、配偶者に死なれて再婚した女性と言ってすぐ思いつくのはルツでしょう。彼女は最初にキリオンと結婚をし、夫に死なれた後はボアズと再婚しました。

 

そこで、現役信者さん,元信者さんにお聞きしたいのですがルツの天国での相対者は誰になると説明されていましたか?天国でルツとキリオンとボアズ話し合って決めるのでしょうか?

 

と言いますのは聖書の中で似たようなことをサドカイ人がイエス様に質問しています。マタイの福音書22章23~34節においてイエス様とサドカイ人とのやり取りが書かれています。

 

(マタイの福音書22章23~34節)
復活ということはないと主張していたサドカイ人たちが、その日、イエスのもとにきて質問した、「先生、モーセはこう言っています、『もし、ある人が子がなくて死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、兄のために子をもうけねばならない』。
さて、わたしたちのところに七人の兄弟がありました。長男は妻をめとったが死んでしまい、そして子がなかったので、その妻を弟に残しました。
次男も三男も、ついに七人とも同じことになりました。
最後に、その女も死にました。
すると復活の時には、この女は、七人のうちだれの妻なのでしょうか。みんながこの女を妻にしたのですが」。
イエスは答えて言われた、「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。

復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。
また、死人の復活については、神があなたがたに言われた言葉を読んだことがないのか。

『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と書いてある。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」。
群衆はこれを聞いて、イエスの教に驚いた。
さて、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを言いこめられたと聞いて、一緒に集まった。

 

私が凄みを感じたのはマタイの福音書22章32節の個所です。
『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と書いてある。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」。

 

イエス様に対してサドカイ人は
「7人の兄弟が子を残さずに次々と死んだ場合、彼らの妻となったひとりの女は、復活の世ではだれの妻になるか」
と問うています。
なぜサドカイ人がこのような質問をするのかと言えば申命記25章5節に次のように書かれているからです。
兄弟が一緒に住んでいて、そのうちのひとりが死んで子のない時は、その死んだ者の妻は出て、他人にとついではならない。その夫の兄弟が彼女の所にはいり、めとって妻とし、夫の兄弟としての道を彼女につくさなければならない。

 

そして「復活ということはないと主張していたサドカイ人たちが」と書かれてあるとおり、サドカイ人の神学は死者の復活を否定しています。これがパリサイ人の神学との大きな違いです。

つまり、サドカイ人は「死者の復活があるとするならば7人の兄弟の妻となったものは誰の妻になるのですか、答えられないでしょう、だから復活は無いと考えるべきではないのですか」とイエス様に神学論争を挑んでいるのです。

 

ちなみに話の展開から「復活の時」とは霊的な世界のことではなく地上世界のことを言い表していることがお分かりいただけると思います。肉体を伴った復活のことです。「メシア再臨の時」における千年王国(神のみ国)以降の話です。

 

それに対しイエス様は「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。 」と啖呵を切り、続けて「復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。 」とおっしゃられています。つまり「復活して甦った者は天使のように婚姻関係はもはやないのだから問題は無い」と言っているわけです。

 

さて、ここで問題になってくるのがサドカイ人は復活を認めていないことです。当時パリサイ人達が復活があると考えていた根拠は主なものとしてダニエル書、イザヤ書、ヨブ記による記述でした。

 

また地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者は目をさますでしょう。そのうち永遠の生命にいたる者もあり、また恥と、限りなき恥辱をうける者もあるでしょう。
(ダニエル書12:2 )


あなたの死者は生き、彼らのなきがらは起きる。ちりに伏す者よ、さめて喜びうたえ。あなたの露は光の露であって、それを亡霊の国の上に降らされるからである。
(イザヤ書26:19)


わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる。わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、わたしは肉を離れて神を見るであろう。
(ヨブ記19:25~26)

 

しかしながら、サドカイ人は、教理に関してはモーセの五書(トーラ)だけに権威を認めており、
ダニエル書、イザヤ書、ヨブ記の記述をもってして説得することはできません。

しかし、イエス様は復活の根拠をサドカイ人も認めるモーセ五書のひとつである出エジプト記3章6節の記述をもって復活はあるのだと主張されています。

「また、死人の復活については、神があなたがたに言われた言葉を読んだことがないのか。 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と書いてある。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」。 」

 

上述のイエス様がおっしゃられている意味合いは次のとおりです。

神様はアブラハム、イサク、ヤコブと祝福の約束を実行する責務があるにもかかわらず、彼らは約束が成就する前に死んだ。死者の復活が無ければ神様は約束を果たすことはできない。故に、死者の復活はあると言える。という論法でサドカイ人の「死者の復活は無い」という主張を論駁したわけです。

 

『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』という部分の詳細についての

解説はhttp://yeshua.hatenablog.com/entry/2019/09/18/115927を参照してください。

 

この解説者の方と私とでは一部意見が異なるところがありますがよくまとめられていると思います。

 

この一連のエピソードの話は某カルト教団が教えている、復活とは霊的なもので肉体を伴ったものではないという教えと祝福は天国での夫婦関係を約束するものであり、二人でなければ天国に入れないとする教えとを同時に否定するものです。

 

このイエスの論法にサドカイ人は何も言い返せなくなり沈黙し、サドカイ人と長らく死者の復活について論争したであろうパリサイ人からも「立派なお答えです」と称賛されている。

 

「群衆はこれを聞いて、イエスの教に驚いた。」と書かれているとおり、私もこのパリサイ人と

同様イエス様の知恵の凄さに唸ってしまいました。

 

ちなみに、他の聖書箇所でも必ずしも結婚しなくても良いとイエス様はおしゃられています。

 

マタイ19章10~12節

10 弟子たちは言った、「もし妻に対する夫の立場がそうだとすれば、結婚しない方がましです」。
11 するとイエスは彼らに言われた、「その言葉を受けいれることができるのはすべての人ではなく、ただそれを授けられている人々だけである。
12 というのは、母の胎内から独身者に生れついているものがあり、また他から独身者にされたものもあり、また天国のために、みずから進んで独身者となったものもある。この言葉を受けられる者は、受けいれるがよい」。

 

この聖書箇所(12節)は独身には三種類あると、イエス様はおっしゃられています。

①「母の胎内から、そのように生れついた独身者」。医学的見地から言えば、遺伝的欠陥がある人。

②「人から独身者にさせられた者」。「独身者」のことばの元の意味は「去勢された男」であるが、これには可能性として二つあり、刑罰によって去勢されたか、もしくは婦人部屋(後宮)などで仕えるために去勢されたということ。宦官と呼ばれる人たちがそうである。こうした去勢された人たちは実際に存在した。

③「天の御国のために、自分から独身者になった者」。イエス様自身がそうであったし、バプテスマのヨハネがそうであった。十二弟子の多くも独身を貫くことになります。

 

しかし、イエスさまはこの文脈において、独身というスタイルが神に仕えるということにおいて、特別な献身の姿であるとおっしゃられているわけではありません。この文脈においては、結婚も独身も、「すべて神の国のために」であろうことが分かります。結婚を通して神に仕えることが召しであるならば、神はその恵みを与える。私たちの側では神が合わせたもう結婚だけを求め、そうすればよい。しかし独身の形態もりっぱな選択になるとおっしゃられているのです。

 

私が聖書を信じる理由の一つに異なる時代、著者が書いてある書物なのにその記述に見事なまでの統一性が見受けられることです。

故に、間違った解釈をするとその統一性故にあちこちで矛盾が生じることになります。某カルト教団の教えのようにね。