tomy4509様(以下tommy様と呼ばせていただきます)という方が私の拙いブログ記事を取り挙げてくださいました。

まずはそのことについて感謝いたします。

 

神性は神であることの状態または質です。 

奇  知  外  記 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)

 

 

そして、tomy様に謝らねばならないことがあります。

tommy様は私がブログ記事で記述した「イエス様を単なる人間に貶め、その神性を否定する。」という部分をお読みになられて、家庭連合はその神性を否定していないというご意見を述べられました。

そしてその根拠として原理講論のキリスト論から次の個所を引用してくださいました。

 

引用開始

​​イエスは創造目的を完成した人間として、神と一体であられるので、彼の神性から見て彼を神ともいえる。しかし、彼はあくまでも神御自身となることはできないのである。神とイエスとの関係は、心と体との関係に例えて考えられる。体は心に似た実体対象として、心と一体をなしているので、第二の心といえるが、体は心それ自体ではない。これと同じく、イエスも神と一体をなしているので、第二の神とはいえるが、神御自身になることはできない。そういうわけで、ヨハネ福音書一四章9節から10節のみ言どおり、彼を見たのは、すなわち、神を見たことになるのも事実であるが、このみ言は、イエスが正に、神そのものであるという意味で言われたのではない。                                   引用終了

 

この個所を読んでいてtomy様が私の意図を誤解されていることに気付きました。

神学用語としての「神性」を説明させてもらいますと「神であることの状態または質」を意味しますがその点についての説明文を入れるべきであったと反省いたしました。お許しください。

神性と神学の違い - との差 - 2020 (strephonsays.com)

それ故、我々キリスト者の認識では「イエス様は神様そのもではない」という主張は神性を否定することになるのでございます。

 

それから「三位一体”説”」といっても所詮は「諸説の一つ」に過ぎないということをご理由に

三位一体説は聖書に書かれていないとのことですが私に弁解の機会をお与えください。

確かにおっしゃられる通り、聖書には三位一体という言葉こそ使用していません

しかし、その概念は多くの個所で見られます。

 

例えばイエスキリストが神であるとの記述は次のとおり。

 

「このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン」(ローマ9:5)

「祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエス」(テトス2:13)

「御子については、こう言われます。『神よ。あなたの御座は世々限りなく・・・」(ヘブル1:8~9)

「私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです」(第一ヨハネ5:20)

だからといって複数の神が存在すると言っているわけではありません。
1) ただひとりの神が存在する。:申命記6章4節;第1コリント8章4節;ガラテヤ3章20節;第1テモテ2章5節

また、三人の位格(神格)で成立っていることの根拠となる聖書箇所は次のとおり
2)三位一体は三人の位格(神格)で成立っている。;創世記1章1節;1章26節;3章22節;11章7節;イザヤ6章8節;48章16節;61章1節;マタイ3章16-17節;マタイ28章19節;第2コリント13章14節。旧約聖書の箇所では、ヘブライ語の知識があると、助けになります。 創世記1章1節では複数形の名詞、‘エロヒム’(神)が用いられています。 1章26節;3章22節;11章7節;イザヤ6章8節では、複数形の代名詞‘我々’が使ってあります。 ‘エロヒム’や‘我々’というのが二人以上であることを示しているということは疑う余地もありません。英語には、たった二つの形しかありません。単数と複数形です。ヘブライ語には、3つの形があります。単数、両数、複数形です。 両数というのは、二つだけです。ヘブライ語では、両数形は両目、両手、両耳などのように一対でなるものに使われます。‘エロヒム’‘我々’などということばは、複数形で断然、2つ以上のものです。だから、3つかそれ以上のことを表しているに違いないと言えます。(御父、御子、聖霊)

イザヤ48章16節;61章1節では、御父と聖霊のことをいいながら、御子が話しておられます。イザヤ書61章1節とルカ4章14-19節を比べてみると、そこでは御子が話しておられることがわかります。 マタイ3章16-17節では、イエスのバプテズマのことが書いてあります。そこでは、聖霊なる神が御子なる神の上に降りてこられ、父なる神が、御子を喜ぶと宣言しておられます。マタイ28章19節と第2コリント13章14節は三つのそれぞれ、異なった神格が三位一体の神の中におられる良い例です。

3)いろんな聖書の箇所には、三位一体のメンバーがおのおの違っている(混合することがない)ことが書いてあります。旧約聖書では、「主(日本語訳では、濃い字、英語ではLORD大文字)」と「主(Lord; Lだけが大文字)」(創世記19章24節;ホセヤ1章4節)主(LORD )は‘御子’を持っておられます。(詩篇2章7節、12節;箴言30節2-4節)御霊は‘主’(LORD)と区別されています。(民数記27章18節)それから、御霊は‘神’からも区別されています。(詩篇 51章10-12節) 御子なる神と父なる神も区別されています。(詩篇45章6-7節;へブル書1章8-9節)新約聖書では、ヨハネ14章16-17節に、イエスが、助け主、聖霊を送ることについて父なる神に話しておられる箇所があります。 これを見ると、イエスが自分を御父でもなく聖霊でもないと考えておられたことが分かります。福音書の中で、イエスが御父に話しておられる箇所を全部考えてみてください。イエスは自分に向かって話しておられたのでしょうか? いいえ、イエスは三位一体の中の他の神格であるおかた、御父に話しておられたのです。

4) 三位一体の中の各々の位格がみな神なのです。御父は神、;ヨハネ6章27節;ローマ1章7節;第1ペテロ1章2節;御子も神;ヨハネ1章1節と14節;ローマ9章5節;コロサイ2章9節;へブル書1章8節;第1ヨハネ5章20節;聖霊も神なのです。;使徒伝5章3-4節;第1コリント3章16節(信徒の中に宿るのは聖霊です。――ローマ8章9節;ヨハネ14章16-17節;使徒伝2章1-4節)

5) 三位一体の中での順位:聖書は、聖霊は御父と御子に従い、御子は御父に従うということを示しています。これは、内的関係であって、三位一体の位格のどれもが神であるということを否定してはいません。この辺が、ただ我々の限界のある頭が無限の神について理解できない部分なのです。 御子については、次の聖句を見てください。ルカ22章42節;ヨハネ5章36節;ヨハネ20章21節;第1ヨハネ4章14節。聖霊に関しては、ヨハネ14章16節;14章26節;15章26節;16章7節を見てください。特にヨハネ16章13-14節を見てください。

6) 三位一体の中のそれぞれのメンバーの仕事は次の通りです。御父は次の事項の究極的な根源、原因です。(1)宇宙(第1コリント8章6節;黙示録4章11節)(2) 神の啓示(黙示録1章1節)( 3)救い(ヨハネ3章16-17節)(4)イエスの人としての業(ヨハネ5章17節;14章10節) 御父はこれらのことをすべて開始(創始)されるのです。

御子は、御子を通して御父が次の業をされる代行者なのです。(1)宇宙の創造とそれを保持すること(第1コリント8章6節;ヨハネ1章3節;コロサイ1章16-17節)( 2)神を啓示する(ヨハネ1章1節;マタイ11章27節;ヨハネ16章12-15節;黙示録1章1節) ( 3)救い(第2コリント5章19節;マタイ1章21節;ヨハネ4章42節) 御父はこれらすべてのことを、代行者としての働きをされる御子を通してされるのです。

聖霊は、御父が以下の業をされる方法なのです。(1)宇宙の創造と維持(創世記1章2節;ヨブ記26章13節;詩篇104章30節)( 2) 神の啓示(ヨハネ16章12-15節;エペソ3章5節;第2ペテロ1章21節)(3)救い(ヨハネ3章6節;テトス3章5節;第1ペテロ1章2節) (4)イエスのみ業(イザヤ61章1節;使徒伝10章38節) このようにみ父はこれらすべてのことを聖霊の力によってされるのです。

 

これらの記述から聖書において三位一体の概念があることは明らかなのでキリスト教の共通認識となったわけでございます。

それ故、カトリックもプロテスタントも正教会も聖公会もほぼすべてのキリスト教団は三位一体説を支持するのです。

 

また、tommy様は

 

>聖書をみれば、イエス様はご自身のことを「人の子」と語られていました​が、それについてはどのような解釈をされているのでしょうか。

 

とお聞きになられていらしたので僭越ながらご説明させていただきます。

 

 「人の子」の第一の意味は、ダニエル書7章13-14節の預言に書かれているメシアのことを指しています。「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」

 

イエスはこの預言をご自分に当てはめておられたのです。 当時のユダヤ人には、このことばはよく知られていたもので、誰のことを指しているかもよくわかっていたはずです。つまりイエスはご自身のことを「人の子」と呼ぶことでメシヤ宣言をなされたのです。

「人の子」の二番目の意味は、イエスが本当に、人間であったと言うことです。神は、預言者エゼキエルのことを「人の子」と、93回も呼ばれました。神は、単にエゼキエルを人と呼ばれたのです。.人の子は人です。 イエスは100%完全に神でした。(ヨハネ1章1節)けれども、イエスは100%完全に人間でもありました。(ヨハネ1章14節)第1ヨハネ4章2節は、「人となって来たイエスキリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。」と言っています。もちろん、イエスは神のみ子です。その要素において神なのです。また、イエスは人の子、つまり、その要素において人でもあります。 つまり、「人の子」ということばは、イエスがメシヤであり、本当に人間でもあるということを示しているのです。

 

tommy様はイエス様ご自身が「人の子」と言われているから「イエス様は神様ではない人間だ」というお考えでしょうか?

 

そのお考えが間違われていることは先にも述べさせてもらいましたとおりです。

イエス様は人ではありますが神様でもあるのです。

少なくとも聖書をありのままに読めばそう読み取れます。

 

また、お気づきの点がございましたら、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。