原理講論の堕落論とキリスト教で説かれている失楽園の物語、共に同じ内容を扱ったものだがルシファーの堕落の時期や動機の等の経緯についての見解は異なっている。
見解が異なると書くといささかでも原理講論にも正当性があるような言い方だが、統一教会で教えられているルシファーの堕落の理由(人間に嫉妬して神に反旗を翻した)を聖書でははっきりと否定している箇所がある。
また、私はルシファーが堕落した時期は創世記1章1節と2節の間であると考えている。
ただ、両者に共通しているのはいかにも神話然とした話であり、通常の人であれば信じられない内容であるということ。そしてその内容の真偽は検証不可能であるということだ。
しかしながら、統一教会信者は原理講論の堕落論を信じるのはなぜなのか。
信じている信者には二通りのパターンがあると私は考えている。
⓵堕落論そのものをそのまま信じているパターン
ある元信者の方とやり取りをした中で「堕落論はよくできている。統一教会を信じてしまっても仕方が無い」という旨のコメントを頂いたことがある。
つまり、彼にとっては堕落論そのものを非常に説得力のある歴史的事実の話として受け取っていたわけである。
私が思うに「よくできている」という意味合いは「(ストーリーとして)よくできている」というものなのだろう。そして「よくできている」=「真実である」と思う思考の持ち主の人達が残念なことに堕落論をそのまま信じてしまうのだと思う。
そして、そういう思考の持ち主が多い事は陰謀論をすぐ信じてしまう人が統一教会信者、元信者に多い事からも分かると思う。
何ら根拠のない陰謀論であってもよく「ストーリー」が描けていれば彼らにとってそれは真実なのだ。
ちなみに「よくできている」とコメントを書いた彼も、宇宙人による陰謀論を信じている人物であるし、ブログ村を見ても、ロスチャイルド、ロックフェラー、ユダヤ人等の陰謀論を信じている人たちがいるわいるわ、眩暈がしそうなほどである。
もう一つのパターンは
⓶堕落論をそのまま信じているわけではないが他に信じる根拠がある故に信じるというパターンである。
私が少し原理講論を信じてしまいそうになった同時性の話とかもこういう根拠になったのではないかと考えている。
https://ameblo.jp/kimagure-or/entry-12391294490.html?frm=theme
ただ、⓵のパターンで信じた人たちをただ単に愚かしい人達とこき下ろすつもりはない。
何ら検証可能な根拠はないけれども、堕落論は人に良心と悪しき心が同時に存在することの矛盾をよく説明できているからである。
そして、今私はイエスキリストを信じている。
私は自由主義神学の考えの持ち主ではないので失楽園の話は本当にあったと思っている。
私がそう信じる理由はパターン⓶だ。
失楽園の話は何ら一つ検証可能な根拠はない。
しかし、新約聖書の内容は歴史的事実であったと考える方が合理的だと考えている。
合理的と考える理由については私の過去のブログ記事「聖書の話は真実か」、
「なぜ、イエスキリストの復活を信じるのか」シリーズをお読みください。
https://ameblo.jp/kimagure-or/entry-12407802407.html?frm=theme
https://ameblo.jp/kimagure-or/entry-12409379101.html?frm=theme
なぜクリスチャンは聖書を信じるのか?
イエスの復活(なぜ信じれる?)
そして、新約聖書に記述されている内容が歴史的事実であると信じることができれば、
新約聖書の内容は旧約聖書の内容を基にして成り立っていますので、旧約聖書に
含まれる失楽園の物語も必然的に歴史的真実であると信ることができるのです。
それから、聖書の記述は真贋含まれているという現役信者さんへ聞きたいのですが、
あなた方はマタイ5章18節をどうとらえられているのでしょうか?
「天地が滅び行くまでは、律法の一点一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。」
是非お聞きしたいものである。